齟齬③


『女ねえ』

 河のほとりの小石を選別しながらトウカは呟いた。

『長い髪はうざったそうだし、ドレスなんて着たら走れなくなる』

『王様が走るなよ』

 投げた石が水辺をほんの数回跳ねただけで沈んでいったのを見てトウカは小さく舌打ちした。

『その王様だってどうしても俺がならなきゃいけないってことはないじゃんか。戦争で潰された町や村は多いけど、北の里サレイモアに、西の里ゼピュロン―― 主要な里は両方残ってる。そこに俺以上の資質を持ってる奴がいるんなら、俺は喜んでこの座を譲るさ』

 なんだかもっともらしく語りながら再び優秀な小石を選別する作業に戻ったトウカにアルナはにやりと笑みを浮かべた。

『つまり、めんどくさそうだから王にはなりたくないと』

『正解』

 トウカが真面目な顔で指さしてきたのがおかしくてアルナは笑った。それにつられてトウカも笑う。

『でもまあ、確かにおまえは男の方が向いてるよ』

 短い髪をかきまぜながら告げられたその言葉を裏切ったのは自分だ。

 今から半年ほど前になる。トウカの羽化期間があまりにも長かったのでアルナが見舞いに来た。元々そういう家系なのか、トウカ自身が女性になることに対して抵抗があったからなのか、羽化は通常の日数を大幅に超えて二十日間にも及び、周囲に大変な心配をかけた。

 心配をかけた周囲のなかにはアルナもいて、彼は十日も過ぎるとさすがに心配になったらしく、一目でいいから顔を見させてくれと侍従たちに懇願していた。いつも侍従に対しては横柄な彼がそんなふうに取り乱しているのがなんだかおかしくて嬉しくて、傍にいた侍従にアルナを部屋に入れるよう指示した。

『おい、無理するなよ』

 のそりと体を起こしたトウカに手を貸した瞬間、アルナの全身がこわばるのがわかった。アルナ相手だというのに、羽化途中のこんな中途半端な状態を見られるのが妙に恥ずかしくてトウカは誤魔化すように笑いをこぼした。

『はは、びっくりした?』

 驚かれたのは単に、二人の間で話していたのとは違う性を選んだためだと思った。馬鹿だった。アルナは弾かれたようにトウカから手を離すと、無言でその場から立ち去った。怒ってるんだろうか。黙って女を選んだりしたから。

 あとの十日はほとんど寝て過ごした。とにかく体中が痛くて気持ち悪くて、そうでなければ眠気が襲ってくるという嫌な循環のなか、ひたすらアルナのことだけを考えていた。

 羽化を終えたらすぐアルナのところへ行って謝ろう。女になっても、結婚しても、変わらず友達だからと、そう言えばアルナが安心すると、本気で思っていた。恥ずかしいことに、アルナがどうしてあんなに怒ったのか、そしてどうして今でも怒っているのか正直分かっていない。

 羽化を終えてすぐ会いに行ったトウカに、アルナはしばらく口を聞いてくれなかった。三日後、必死に謝るトウカに観念したのかアルナはため息を吐きつつトウカを見た。長い間女性が着る服を身につけたトウカをじっと見つめたアルナは、

『なんか変な感じだな』

と目を逸らして言った。

 べつに、褒めてほしかったわけじゃない。

 でもなぜだか、ひどい拒絶を受けた気がして、元から嫌いだったドレスは大嫌いになった。




 目を覚ますと部屋はまだ暗かった。雨の勢いは先ほどに比べればかなり弱くなっていたが、空はずっと遠くまで灰色で、止みそうな気配はなかった。今は一体いつなんだろう。雲が太陽の前に立ちはだかっているせいで朝なのか夜なのかさえわからない。

 なんとなく重たく感じる体をゆっくりと起こした。乱されたはずの服は乱された形跡がないほどしっかり着せられている。アルナは昔から変なところで器用だ。

 今よりずっと幼い頃、アルナがトウカに花冠を作ってくれたことがある。けれどなぜだかそれが気に入らなくて、いらないと突っぱねた。たぶんもう、二度と作ってはくれないだろう。

 嬉しい、ありがとう、と喜んで受け取ればよかったのだろうか。

 気付けばいつもそばにいた。

 兄のように、弟のように、あるいは無二の友であるかのように。

 アルナが世界のすべてだった。

 どうして離れたくないかなんて考えたこともなかった。

 自身の肌を男の指がすべる感覚が生々しく蘇る。もう屋敷の廊下を手をつないで走ったあのときのような子どもの手ではない。確実に、男のそれだった。けれど同時に、切羽詰まった様子で重ねられる唇に、切なげに漏らされる吐息に、声に、この男はそれでもはっきりと「彼」なのだと思い知らされた。

 思い知らされて、それから。

 抱えた膝に頭を埋めながらトウカはため息を吐いた。

「―― ばか……」



「えっ……?」

 起床後すぐに告げられた言葉をミザリはうまく飲み込むことができずに首を傾げた。

「申し訳ありません。父の容体が急に悪くなって…… 昨晩急遽弟が一旦様子を見に帰宅したのですが、弟一人では面倒を見るのは難しく……」

 ティリオはばつが悪そうに語尾を濁した。意味がわからない。ティティの腕にあった痣を思い出す。あんなことをするような父親。

「なんで? 折檻するような父親なんでしょう」

「…… ティティですか」

「ねえなんで? そんなやつ勝手に」

 自らの口から飛び出しかけた言葉の意味を理解してミザリは慌てて口を噤んだ。自分は今、何を言おうとした? ぞわりと総毛だった肌に気づかぬふりをして、ミザリはティリオに背を向けた。

「…… 好きにすれば」

 そのまま寝台にもぐりこんで顔を隠せば、

「本日の夕刻まではおりますので、なにかあればお申し付けください」

と声をかけられ、部屋の扉が閉じる音がした。

 ミザリはひとりになった。

 もう誰もいない。

 何を賭してもそばにいて、自分を守ってくれる人は、世界のどこにもいない。

 この屋敷に来たばかりのときにラウナに言われた言葉を思い出す。そのとき不安に思った心情をトウカに吐露したときに言われた言葉も。

 外に出ようが、ここで死のうが、もうどっちでもいい。

 なにもない真っ白な空間にぽつんとひとり取り残されたようだった。

「―― っ」

 手の甲が痛む。

 魔力は大概制御がきくようになったとトウカのお墨付きをもらったばかりだというのに、昨日から急に痛むようになった。意識が朦朧としてくる。

 はっきりしない意識の中、目蓋の裏に不思議な光景が浮かんだ。この部屋を入り口から見ているような場所で、窓辺に立つ姿がゆっくりとこちらを向く。視界がぼんやりしていて髪が青みのある紫色であることしかわからない。

 何とかその正体を見定めようとするが段々と目蓋が下へ下へと降りてきて、ミザリは意識を奪われた。

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