齟齬②

 その日の仕事を終えたトウカは自分の部屋付きである侍従から事の次第を聞くとアルナの部屋に直行した。

 雨が降っていた。

 ささやき声であれば吸い込まれてしまいそうな音が里全体を覆っている。里も屋敷内も黒雲の下にあるせいで薄暗く、時間という概念がどこかへ連れ去られたかのように思えた。

「―― なにしてるの、そんなところで」

 部屋の扉を開けたと同時に見えた背中にトウカは思わず驚きの声を上げた。アルナはどうしてか扉にもたれてしゃがみ込んでいたらしく、部屋の入り口で膝を抱えている。なんとなく、幼い頃を思い出す。屋敷内で嫌なことがあるとアルナはいつも屋敷を囲う川のほとりでこんなふうにふてくされていたのだった。

 アルナは「べつに」と暗い表情で返事をするとゆるりと立ち上がった。空いた空間にトウカが足を踏み入れる。後ろ手に扉を閉めるその手に、アルナは自分の手を重ねた。そのまま鍵をかけてしまうとトウカは怪訝そうな瞳で振り返ってくる。

「綺麗だ」

 口にした途端トウカの目が見開かれる。

「…… って言ってた。あれが、おまえのこと」

 立ち位置が今までになく近いせいで顔の位置も近い。こんなに近いのは子どもの時以来だ。ただ、アルナの背があるときから急激に伸びたぶんだけふたりの顔の距離はかつてよりも離れている。

 ああ、と吐き出すように言ったトウカの息が、アルナの肩にかかった。

「ミザリね。言われた」

 部屋のなかにまで響いてくる雨音にかき消されそうなほどの声で、トウカは言った。今更アルナに心動かされることなんてあるはずがないのに、なんだか変な気分にさせられるのはきっとこの雨のせいだ。

 部屋が暗い。こんなに暗かっただろうか、この部屋は。

 アルナの指が頬をすべる。

 いつもは、部屋の鍵を閉めたりしない。

 こんなふうに慎重に触れてきたりしない。

 何かがおかしい。

 そんな直感からくる疑問に従弟を振り仰いだ瞬間だった。

 アルナの顔が降ってきた。かと思えば、口になにか柔らかいものが押しつけられた。突然の出来事にぼんやりしていると角度を変えてもう一度唇を重ねられる。何が起こったか理解できずにいるうちにより深く口づけようとする気配に、トウカはようやく目の前の体を押し返した。

 物珍しげに、からかうように、もてあそぶように髪に触れられたことはある。その延長で、寝台に押し倒されたことも。

 けれど、こんな触れ方をされたことは今までただの一度もなかった。

 意味がわからなかった。

「おまえもあいつらと同じこと思ってるのか」

 暗く澱んだ瞳がじっとトウカを見つめていた。

「同じ人間混じりなら、見た目だけでも整ったあいつの方がいいって? 人間の体をしていては気持ち悪くてとても愛せないか?」

 なんだっていうんだ。

 似合わないって言ったくせに。変だって言ったくせに。

「俺の体が、もっとエルフに近ければ違ったのか? いっそ俺の父親が人間じゃなくてエルフの誰かだったら」

「―― もうやめて」

 それじゃあまるで。

 みっともない勘違いはもう二度としたくなかった。その気もないくせに、惑わすようなことを冗談でも口にしないでほしかった。

「もういい。わかった」

 中身は違っても、今までずっと兄弟のように寄り添って生きてきた。国のためといえど、種族のためといえど、離れ離れになるなんて絶対に嫌だった。アルナのいない世界なんて意味がないと本気で思った。今も思っている。

 だけど、一緒に生きていくために女を選んだ自分をこの男は拒絶した。それがすべてだ。いい加減聞き分けないといけないのに、聞こえないふりをしていたのは自分自身だ。

「婚約は白紙に戻そう」

 もう楽になりたかった。

 はっきりと口にしたトウカと、黙り込んだアルナとの間にうるさいくらいの雨音が静かに横たわっていた。

「―― 嫌だ」

 雑音に紛れるような声とともに手首を強くつかまれた。そのまま引っ張られ、寝台へと乱暴に倒される。

「なんで……」

「なんで?」

 思わず口をついて出た言葉を、アルナが復唱した。そして嗤いながら続けて言った。

「本気で言ってんの?」

 アルナが寝台に乗り上げてくる。嫌なら急いでここから降りて、部屋の鍵を開けて逃げればいい。簡単なことだ。それなのに、金縛りにあったように体が動かず、言うことを聞かない。トウカが動かないのをいいことに、アルナはその肩をつかんで寝台へと押しつけた。

「ひとつだけでいい」

 夜闇のように一片の光もない黒がトウカを見下ろしていた。物心ついたときから、この瞳だけ見てきた。

「全部くれなんて、なにもかも独り占めしたいなんて甘えたことは言わない。でも、どれかひとつは俺にくれ」

 今まで必死になって積み上げてきたものたちの土台が、それらの前提が、音を立てて崩れ去っていく音がした。

 誤解の入る隙間などない、どこまでも純粋で切実な言葉だった。 

 でも、だったら、じゃあなんで。

 投げ出された左手にアルナの右手が絡む。指の間に入り込んできつく握りしめながら降らされる口づけに、抵抗する意志は萎えた。肩を押さえる手が服の上を滑り、胸元、脇腹をつたって背中へと伸びる。トウカはアルナの首に腕をまわしながら背中を浮かせ、その手に委ねるように全身から力を抜いた。



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