齟齬①
―― 見に行ったところでどうなる。
アルナは机の上で開いていた本を力まかせに閉じ、寝台に突っ伏した。
子どもの頃、トウカに編んだ花冠をいらないと突っぱねられたことがある。六つか七つか、それくらいの時の話だ。覚えたばかりの編み方で一生懸命作ったそれは、トウカの手によってアルナの手から叩き落されて、運悪く川に落ちてそのまま流れていった。幼いなりに時間をかけて必死に作り上げたものだったからそれはもうわんわん泣いて、しまいにはトウカもつられて泣き出して大変だったそうだ。
これが今までで一番大きな喧嘩だ。
あれの何がトウカの癇に障ったのか今でもよくわからない。いや正確にはわからなくなった、だ。トウカと一緒に年を重ねていくにつれて、彼が女性らしい服や装飾品を好まないことを知って、なるほどそういうことだったのかと納得した。きっと男を選ぶのだろうと思った。その方が自分にとっても都合がいいとすら。そう思って、自分を納得させた矢先の出来事だった。
トウカが、女を選んだのは。
多分一生わからない。
隣の部屋の扉が開閉する音がした。トウカがミザリの部屋から帰ってきたのだ。このごろほぼ毎日だ。朝から昼まで、そして昼から日が暮れる直前までずっとミザリについて勉強を教えている。普段なら仕事が終わった頃に部屋を訪ねるのだが、どうもそういう気になれない。ミザリのことを楽しげに話すトウカを見たくない。
柄にもなく嫉妬しているのだ。みっともない。―― 今更か。
扉を叩く音がして、トウカの部屋の扉が叩かれたのかと思ったが違った。しばらくしてもう一度叩かれた音に緩慢に身を起こしたアルナは扉の隙間からのぞかせた顔に目を見開く。
「あ――、あのね」
ミザリは今朝とは全く違った様子でおずおずと言った。
「トウカがこの本の続きアルナが持ってるって言ってたから、借りに来た」
「…… そこの本棚に入ってる」
勝手に取っていけばいいと顎で指して、アルナは寝台に戻った。
父が自分と同じ半人間というらしい彼の姿は完全にエルフのそれだ。彼の父もほとんどエルフと変わらない姿をしていたと聞く。それなのに自分は、自分だけが、人間のような―― 醜く野蛮な人間の体をしている。
「二巻だけない」
「一番下の棚にあるだろう」
「あ、あった……」
目当ての本に手を伸ばしかけたミザリは本の並びに目ざとく気づいて手を止めた。種別や分野、科目、大きさという秩序を無視して一見すると適当に並べられた本たちの背表紙に書かれた題名の頭文字を順に拾ってたどたどしくも正確に読み上げていく。
「これどういう意味?」
「子どもは知らなくていい言葉だ」
子ども、を強調して言えばミザリはむっと眉間に皺を寄せた。
「じゃあ年が明けたら教えてくれるの?」
「残念、俺は多分その頃にはもうこの屋敷にいない」
自分で調べるんだな、と突き放すと「別にいいけど」とすねたような声が返ってくる。
「トウカに聞くから」
「おい、それはやめろ」
そんなことをされたらたちまち出処が露見してトウカに怒られる。成人してからとくに、変なところで潔癖な彼女のことだ。なんとなくそうなる気がする。以前からそうなのだ。昔はトウカの方が体格がよかったせいもあろうが、彼女は度々アルナに対して兄のように振る舞いたがる。アルナは、最近それが妙に気に食わない。
「どうして?」
「どうしてって……」
ミザリはおそらく純粋に疑問を解決したくて聞いているのだ。ならばさっさと教えた方が楽だ―― とはいえ、口で説明するのははばかられる。
「…… 本で読んだ方がわかりやすいから、今度貸してやる」
「その本読めば意味がわかるの?」
「そうだ」
頷くとミザリもまたわかった、と首を縦に振った。もともと素直な質なのか、あるいは子どもであるがゆえの素直さか、ともかく救われた。
ミザリは本が好きなのか目当ての本を手にしてなおアルナの本棚を物色している。アルナは彼の抱える本の背表紙をちらと見た。昔よくトウカとふたりで読んでいた冒険小説だ。
「来ていいって言ったのに」
冒険小説を小脇に抱えなおし、別の本を手に取りながらミザリは言った。
「行かない」
「なんで?」
答えてやる理由はないと思って無視をする。が、ミザリはアルナの方を向いたまま続けて尋ねてくる。
「僕とトウカが仲良くしてるところを見るのが嫌だから?」
少年の顔にからかうような色はなく、だからこそ質問の意図が図りかねた。
「…… 言っている意味がわからないな」
「トウカに女のひとの服似合わないって言ったんだってね」
「話の飛躍についていけない」
アルナは立ち上がって自分よりもいくらか小さく華奢な体を部屋の入口に向かって押した。
「意味のわからない話をしたいだけなら部屋付きの侍従にでもしてろ。―― だいたいどこで聞いたんだ、そんな話」
「トウカが言ってた」
心当たりがない。大方からかわれでもしたのではないか、と言いかけ、でも何のために、と思い直す。
「なんでそんなこと言ったの? トウカ綺麗なのに」
以前から、そういうものはあった。
トウカが自分になにも告げずに女を選んだこととか、母が勝手に向こう行きを決めていたこととか、たかが両国の和平のためだけになされる婚姻だとか。
この思い通りにならない、ただ民の噂話のタネになるしかない身の上も、なにもかも。
全部が気に入らなかった。
それでも以前なら誰に言われようとも気に障ることはなかった。
それが今は、ひどく腹立たしくて仕方がない。
「―― 知るか」
今にも内側から零れだしそうなものを押し込むようにミザリを押し出す。
「ちょっと、痛いってば」
極めつけはそのあとに放たれた一言だった。
「トウカはこんなことしない!」
アルナの動きが一瞬止まった隙にミザリが畳みかけるように言う。
「なんでそんなに意地悪なの? 言いたいことがあるならはっきり言ったらいいのに。トウカが僕にお兄さんみたいにするのが気に入らないんなら――」
「あいつはおまえの兄じゃない」
「みたいだって言ってる!」
「みたいでもない」
「思うのは自由でしょ―― あっ」
扉の外へミザリを押しやりながら、その手から本を取り上げる。
「返して!」
「おまえの本じゃない」
大人と子どもの力量の差か、ミザリはあっさり部屋の外へ追いやられた。
「恵まれてるからって調子に乗るなよ」
ミザリの目の前で低い音を立てて扉が閉まった。
意味がわからない。
恵まれてるのはそっちの方じゃないか。
ミザリはふつふつとわきあがってきた怒りを足に込めて扉を思いきり蹴った。
「―― ミザリ? なにかあった?」
後ろから掛けられた声はどこかで聞いたことがあった。
「アルナ様になにか言われたかな」
その男は、以前会ったことがあった。父と何かから逃げるように旅をしていたとき。父がまだそばにいたあのとき。
当時のことを思い出した瞬間、目の奥から涙があふれだした。
ずるい。
アルナはずるい。
「おっ…… と……」
瞳をこれ以上ないほど潤ませた子どもの姿に、リーテはやっぱりか、と思う。そもそも、リーテはアルナとミザリとが仲良くできるとは思っていなかった。あのアイオと、ほかでもないラウナの息子たちが仲良くできるはずもないのだ。
ラウナのことだから無意識にしたことだろうと思うが、それならばかえってたちが悪い。そう思ったところで、彼女に大した反抗どころか意見することもかなわない自分も大概だ。
「ごめんね、アルナ様がなにか、あなたが傷つくようなことを言ったんだよね」
ごめんね、と繰り返すリーテの横でミザリは鼻をすすった。
「どうしてあなたが謝るの」
ミザリが尋ねると、リーテはどこか困ったように微笑んで、ミザリの背中を押した。そうしてリーテはミザリをなだめながら部屋まで送ると、その足で王のもとへ向かっていった。
報告を聞きおえるとラウナはそうか、と呟き深いため息を吐いた。
「互いにいい影響を与えられるかと思ったんだがな」
逆効果だったか、と項垂れながら机の端に置かれたカップに手を伸ばす。机に伏した姿勢のまま茶を啜ろうとすれば「陛下」とたしなめるような声が前方から飛んでくる。ラウナは不快感をにじませた顔を隠さずに男へと向けた。
「ラウナ、だ。リーテ。二人だけの時くらいそうしてくれと前にも言っただろう」
「いたしかねます、と申し上げたはずです、陛下。いくら幼なじみといえど」
「昔はそう呼んでいたじゃないか」
「あなたも私も、もうとっくに大人です。子どもじゃありません」
リーテは毅然とした態度できっぱりと言った。
「誰も見ていないとしても、いえだからこそ、しっかりするべきなのではないですか。我らエルフの民の王たるあなたを呼び捨てるなんて、誰であろうと許されないことですよ。あなたの父君や、あるいは伴侶であるならいざ知らず――」
「じゃあ結婚してくれ」
あやうく抱えた重たい資料を足の上に落とすところだった。資料をその手にしっかりと抱えなおし、細く長く息を吐き出して自身を落ち着かせる。そうして再び前を向くと、思い悩んだふうの幼なじみと目が合う。アルナが産まれる前からこういった表情は見せていたが、このごろ考え込むことがぐっと増えた。
「間違いだったかな。あの二人を結婚させようなどとするのは」
「…… 陛下」
「いやそもそも和平が時期尚早だったかもしれぬ。せめてそれぞれの里の後継者がもう少し育って、いつサヴェラナーニ王家が滅んでもいいように――」
「陛下」
リーテは固く握られたラウナの両手の上に自らの右手をかぶせた。
「何事も、あなたのお考えになるままになさってください。私はそれに従います」
ラウナは眉間に皺を寄せた苦しげな表情のままリーテの手を握り込んだ。そしてそのまま己の額に祈るようにおしいだき、短い沈黙のあと「わかった」と声に出した。
「アルナの出立を予定より少し早める。七日続く祭日の二日目。これを正式な決定としてあちら側にも伝える」
「かしこまりました。アルナ様にはご自分でお伝えになりますか?」
「ああ、そうする。できれば明日にでも。トウカにも私が伝える」
わかりました、とリーテは頷き身を翻した。ラウナの指の間から男の手がすり抜けていく。
「なにか温まる飲み物をお持ちしますね。指先が冷えていらっしゃるので」
静かな扉の開閉音とともに側近は去って、王は部屋にひとり取り残される。手のなかにわずかに留まっているぬくもりがラウナの自嘲的な笑いを起こさせた。
「…… 自業自得かな」
笑みを浮かべたままラウナは呟くと、椅子の背もたれに体を預けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます