発露③
自分の部屋に戻ってしばらくするといつものようにトウカがやってきた。さっき水浴び場でアルナに会ったことを告げたミザリに彼女はあからさまに心配そうな顔をして言ってくる。
「あいつ、突っかかってこなかった?」
「じろじろ見てきたけど、突っかかられたのかな。わかんない」
正直に答えつつ、アルナに言ったことも報告しておく。
「あとアルナに、勉強してるとこ見に来てもいいよって言っといた。なんか僕とトウカが何話してるのか気になるみたいだったから」
「何話してるって…… 勉強の話じゃない?」
「アルナと勉強の話でしょ」
当然のようにトウカが言うのでミザリは訂正した。しかしトウカはいまいち意味が理解できていないようで首を傾げる。
「だってトウカ、なんの勉強してても大抵アルナの話になるんだもん。そのせいで僕、変にアルナに詳しくなっちゃった。たいして興味もないのに」
「…… そんなに話してる?」
口をとがらせて文句を言うがそれでもトウカは納得していないようだった。ミザリはしてるよ、ともどかしげにやや声を荒げた。
「このまえなんか植物の勉強しててその植物によくくっついてる虫からアルナの嫌いな虫の話になったし」
具体例を挙げると流石に思い至ったのかトウカはたちまち頬を赤くした。
「それは…… 本当にごめんなさい。今日はちゃんと、勉強の話だけするようにするから」
内心「無理だろうな」と思いながらミザリは教本を開いた。どれだけ進んでいるのか、同年代から見るとどれだけ遅れているのかわからないが、トウカには覚えが早いと褒められた(そこには「アルナと違って」という言葉が付属していたが)。読み書きや簡単な計算は一通りできるようになったし、古代語にも手をつけ始めた。どの分野もそれなりに、いやけっこう楽しい。トウカの教え方が上手いのか、それとも元から好きな質なのだろうか。
兄がいたら、こんなふうかもしれない。勉強を教えてくれたり、不便がないか心配してくれたり、こうして他愛ない話をしたりして。それらは父ともできたことだけど、歳が近い分、気兼ねなく話せる気がする。
結局、父からは何も聞けずじまいだった。母のこと、父自身のこと、ミザリのこと―― たくさんの怖いことが突然降ってきて、本当はずっと怖かった。まだ知らないことがたくさんある気がして、まだ怖い。
そんなことを考えてミザリは視線だけを動かしてトウカを見た。
綺麗だ。
今まで目にした女性たちのなかで一番。
「何?」
視線に気づいて顔を上げたトウカにミザリは素直に答える。
「綺麗だなーと思って」
「何が?」
「トウカ」
言われた当人は一瞬きょとんとして、「初めて言われた」と声に戸惑いの色を滲ませながら言った。
「アルナなんか女の服とか似合わないって言うし…… ていうかあいつ、婚儀のときも何か色々言ってきそうだな…… まだ先の話だけど」
「婚儀……?」
ミザリは耳慣れない単語に首を傾げた。婚儀とは、男と女が家庭を作るための第一歩として挙げるあれだろうか。そうだとして、誰と誰が?
不思議そうに自身が言った言葉を繰り返す従弟にトウカは「言わなかった?」と雑談をするのと変わらない調子で言った。
「私とアルナ、結婚しなきゃいけないの。十七年前にもう一度正式に両国の間で和平が成立したっていうのは、昨日勉強したでしょ? 人間の王族の血を引いてるアルナと、エルフの王の後継者である私とで婚姻を結ばせて、和平の証にしようって話。懲りないよね、二十五年前とまったく同じことして―― ごめん、また話逸らしちゃった」
勉強の続きしようか、とトウカは教本に視線を戻した。
「嫌?」
光の具合か少し赤っぽく見える彼女の長い睫毛を見ながらミザリは言った。
「結婚。嫌?」
トウカは教本から顔を上げないまま頁の上に並ぶ文字を見つめて、白く細い指先で文字をなぞった。
「…… アルナは、嫌かもね」
なんでもないような調子でありながら、ともすればどこか傷付いたような表情に、ミザリの胸の奥で何かがひりりと痛んだ。
「どうして?」
ミザリが問えばトウカは「さあ」と口にした。
「私たち赤ん坊のころから一緒にいるし、ほとんど兄弟みたいなものだしね。兄弟と結婚させられて嬉しいって思うひとはあんまりいないんじゃない?」
「そうかなあ」
ミザリは立てた本の上に自身の顎を乗せた。行儀が悪いとたしなめる者は、今はいない。
「結婚って大好きなひととずっと一緒にいようって約束でしょ? 僕だったら……」
そこまで言ってミザリはふと思い出した。以前、森のなかで父と交わした約束を。きっともう、二度と叶えられることはないだろうけれど。
「そのくらい簡単な話だったら良かったけどね」
言葉の途中で黙ってしまったミザリの前でトウカは頬杖をつくといたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。
「子どもにはまだわかんないか」
「な―― もうすぐ大人なんだけど、僕」
「別に馬鹿にしてるわけじゃなくて実際にそういう説があるの」
からかうような言葉にすぐさま反論してきた少年に、トウカはもっともらしく話し始めた。
「子どもの、もといまだ羽化をしていないエルフには当然、性別がないでしょう。で、十五歳の終わり、年が明けて十六歳になったらみんなそろって羽化をする。…… ところで羽化ってなんのためにするか、説明できる?」
ふいに質問を振られて、ミザリはえーと、と視線を宙にさまよわせた。
「…… 子孫を残すため?」
「そう。かしこいじゃない」
トウカは褒めるのがうまい。些細なことでも褒めてくれるから、ミザリも勉学に対するやる気が増してくる。うまく操縦されているだけのような気もするが。
「つまりね、子どものエルフはその機能がないから、従ってそういう感情がないと言われているの」
「そういう感情っていうのは――」
「誰かと結婚したいとか、一般的に男女の間で発生するとされる気持ちのこと」
ふうん、とミザリはとりあえず返事をした。正直よくわからない。そんなミザリの内心を知ってか知らずか、トウカは「まあ、あくまでそういう説があるって話だから」とつけくわえた。
「じゃあ、人間は産まれたときからそういう気持ちがあるってこと?」
「その説によればね。私たちエルフには知る由もないけれど…… あ、そうだ。アルナならわかるんじゃない?」
「アルナ?」
この話題でアルナが出てこようとは思ってもみなかった。首をひねるミザリに、トウカは
「ほら、あいつ半分は人間だし、ミザリとは違って性別もはじめから決まってたから……」
と、そこまで言って、ミザリの真似をするように眉を寄せて首をひねった。
「いや、どうなんだろ。あいつ私以外の同世代とあんまり喋らないからな……」
同世代と言ってもみな衛士か侍従だけどと言いつつ思考をめぐらせるトウカに、ミザリはつい聞いてしまいそうになるのを必死にこらえていた。
自分はどうなの、と。
だけど、聞いてしまえば望んでいない答えが返ってくるような気がして、ミザリは口を噤んだ。
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