発露②
つまるところ自惚れていたんだろう。
トウカの友であるのも、兄も、弟も、すべて自分ひとりなのだと思い込んでいた。いや、実際それに近いところはあったのかもしれない。でも違った。本当に弟のようにかわいがるというのは、本当の兄弟のように仲睦まじいというのは多分ああいうことをいうのだ。
このひと月かふた月の間、雨がやけに多い。そもそも雨が少ないこの地域では雨の日が続くどころか一日中雨が降っていることさえも珍しいことだ。それも天気雨。陽光のすき間からきらきらと雨が光りながら落ちてくる。露台から手を伸ばすとたちまち手はしとどに濡れた。
子どもの時から雨に濡れるのが好きだ。
雨は精霊の恵みだとも言うから、きっとそのせいだ。精霊がエルフにもたらす最大の恩恵である魔術を、自分は扱うことができないから。
人間たちは天気雨をエルフが魔術で起こしているのだと思う者もいるらしい。エルフのなかには人間たちを野蛮な獣のように思う者たちが多いが、人間からしてみればエルフこそおそろしいのだろう。
実際、トウカによれば天気なんて大きなものは、王ほどの大きな魔力があっても簡単に動かせるものではないらしい。動かせるとしたら、この世界の創造主だとかそれくらいの大いなる存在だろう、とも。
「アルナ様」
部屋のなかから聞きなじんだ低音が聞こえたが、アルナは無視して雨に没頭する。
「そろそろお戻りください。お風邪を召されるといけませんから」
風邪ね、とアルナは濡れた手のまま風になびいた髪をかき上げた。
「さてはて、吾輩が病に伏したところで困るものはどれだけあるだろうか」
振り返りつつ大仰な仕草で両手を広げてみせると、
「たくさんおりますよ。私も含めて」
と、目の前の男は真面目に答えた。アルナは苦虫を噛み潰したような顔をしながら「テクリフィカだ」と腕を組み言った。
「それくらいわかるだろう、リーテ」
「『吾輩が姿を消したところで困る世界はどれほどのものだろうか』―― ですね。失礼、詩の暗唱のようには聞こえませんでしたので」
リーテが答えると、アルナはふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ何に聞こえたって言うんだ」
「申し上げてもよろしいんですか?」
王息は再び苦虫を噛み潰したように顔をしかめながら「水浴びをする」と言って部屋のなかに戻った。あらかじめ準備をしてあったのか、リーテはアルナの体を大きめの布で覆いやさしくぬぐった。
「母上についていなくていいのか」
王の側近である男の本来の役割を考えて言えば、リーテは口角をわずかに持ち上げた。
「その陛下から、向こうに行かれるまではアルナ様のお傍にいるようにと申し付かっています」
「ご苦労なことだな、それは」
彼とてできることならラウナの傍で仕えたいだろうに。そう思って口に出したがリーテは「いいえ、少しも」とよどみのない声で言った。
「おそれながら、お生まれになったほんの小さい頃からお世話をさせていただいたものですから、あなた様のことはなんだか己の子のようにすら思えて…… これから先このような機会がなくなると思うと、名残惜しさがこみあげてまいります」
「よくそんな恥ずかしいことが相手の目を見て言えるな……」
アルナは思わず目を逸らした。
「もう会えなくなるかもわかりませんから」
そっぽを向いた顔に笑いかけながら幼い頃からそばにいる男は言った。その表情はどこかしら寂しげでもあるような気がして―― いやそうであったらいいのにと思いつつ、アルナは嘆息した。
「どうせ結婚って言ったって形だけのものだしな。俺も向こうに行ってわざわざこっちに戻ってくる気はないし、あいつがわざわざ俺の顔見に来るとは思えないし」
「…… どうでしょう。トウカ様は」
「ああ、まったく会わないってのは外聞が悪いのか。あいつ変なとこで真面目っていうか、計算高いから」
「アルナ様」
リーテが呼び止める声も聞かずに、水浴びのための簡単な着衣に着替えるとアルナは部屋を出た。廊下の向こうからひとりの侍従が焦ったようにこちらへ走ってくるのが見える。彼はアルナをちらりと見てからリーテに事の次第を耳打ちする。全部は聞こえないが、そのなかでミザリの名を耳にした途端アルナは水浴び場へ足を進めた。制止の声も無視してそこへ飛び込むと水浴びをしている当人より侍従の方が驚いて手を止めた。
「俺も使う。いいな」
「べつにいいけど……」
町や村には大衆向けの水浴び場があると聞くから、それで慣れているのだろう。ミザリはアルナを見て驚きはしたが追い出しはしなかった。そもそも、こんな無駄に広い場所でいちいちひとりずつ時間をずらして使っているのが馬鹿馬鹿しいと思う。侍従は複数人で使うようだが。アルナは濡れた服を脱ぎすてながら離れたところで水浴びをしているミザリを見た。トウカもほんの数か月前まではああいう体をしていた。
「なに? 気持ち悪いんだけど」
「…… なんだ気持ち悪いって」
あまりに長い間見ていたのか、ミザリが棘のある口調で言ったのでアルナもつい険のある態度で返した。
「いや、そういう趣味の人も時々いるから気をつけなさいって、父さんにいつも言われてたから」
ミザリの言葉にアルナの顔が瞬時に赤くなる。
後ろでティティが絶句し、部屋の入り口ではリーテが小さく噴き出したが、誰も見ていなかった。
「おまえッ……」
ひとこと言うためにミザリの前へずかずかと歩み寄ったアルナの脳内であらゆる感情と言葉が飛び交う。
「トウカの前でそういう話をしてないだろうな……!?」
最終的に出てきたのはそんな言葉だった。詰め寄るアルナにミザリは気圧されることなく呑気に首を傾げる。
「そういう話って?」
「だからそういう……、そういう、おかしな話だ」
「さあ」
「なんだその態度は」
「自分がしてる話がおかしいかどうかなんてわかんないよ」
はっきりしないミザリの態度に痺れを切らしたのか、アルナは後ろでなかば怯えながら様子をうかがっていたティティを見た。突然鋭い視線で睨みつけられたティティは小さく悲鳴を上げ、
「あの…… 普段はお呼びがかかるまで隣の部屋で待機しているのでお話までは…… その、わかりません……」
と罪を告白するかのように言った。
「ちょっと、ティティのこと苛めないで」
ミザリが自らの侍従を守るように肩を押されたのが癇に障ったのかアルナは「苛めてない」と言い返してミザリの腕をつかみ上げる。これでは先日と同じことになる。見かねたリーテが割って入ろうとするのと同時に、ミザリが口を開く。
「そんなにトウカが心配なら見に来たらいいでしょ」
「…… 別に心配なんかじゃ」
「じゃあ何なの」
以前会ったときにはこんなに言葉ではっきり言う印象はなかった。誰の影響か、答えは明白だ。
アルナが口を閉ざす前でミザリは自らの手で手早く濡れた体を拭った。
「来たいならくれば。トウカも嫌がらないと思うし。来なくてもいいけど」
それじゃ、と衣類をさっさと身にまといミザリは部屋を出た。
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