発露①
翌朝、ミザリは小鳥のさえずりで目を覚ました。昨日までとは違うすっきりとした目覚めだった。緩やかにその身を起こすと、カーテンから漏れる朝日が柔らかくミザリの半身を侵した。
「おはようございます、ミザリ様」
挨拶とともに入ってきたティティは、水の入った桶を乗せた台を寝台のそばまで持ってきた。
「今日の朝食は近隣の湖で採れた魚でございますよ。ミザリ様も食欲がありましたら……」
「うん」
肯定の意味で答えるとティティがはじかれたように顔を上げた。驚きに紅潮しているその顔に向かって、
「食べるよ」
とあらためて伝えれば、彼女は今度は顔を喜びに赤く染めながら何度も頷いた。
「ただいま兄が取りに行っていますので…… えっと、先に水浴びをなさいますか?」
「そうする」
再びミザリが頷くとティティもまたにっこり笑って準備を始めた。昨日あんなことがあったにもかかわらず、水浴びをする間も丁寧にミザリの体を流す手伝いをしてくれた。ミザリだったら、自分を怒鳴りつけた相手にこんなふうに笑いかけたりしようなんて思えない。そもそも旅をしていたからひとつのところに長く滞在することもなく、父以外と交流することもあまりなかったけれど。
水浴びを終えて、新しい服を着せてくれるティティの袖の入り口からふいに傷痕のようなものが見えた。ミザリが反応するより先に、ティティはあ、と漏らし裾を伸ばした。
「…… 怪我?」
「ええ……、自分で、うっかり―― 不注意で。…… 申し訳ございません。お見苦しいものを」
袖口から少しだけ視界に入ったそれは、細かい火傷がいくつも連なっているように見えた。
「多分それと同じのを、前に見たことがある」
「……」
「大きな店の下働きの子が、女将に煙草を押しつけられてよく作ってた」
「…… ティティが悪いんです」
ミザリの服を着せる手を再開させながらティティは呟いた。
「ティティが悪い子だったから、ティティのために父は仕方なくこうしたんです」
まるで自分に言い聞かせるように話すティティの手は、ひどく荒れていた。幼い頃からあちこちを旅し続けてきたミザリよりもずっと。なんとなく、触れるのがはばかられるような気がした。
「べつに、悪い子だとは思わないよ」
大人しく彼女にされるがままそう言うと、ティティはまた先ほどと同じ笑顔を浮かべた。
「だったらそれは父のおかげです。一生懸命この屋敷でお仕えして、恩返ししないと」
結局一から十までをティティにやってもらったミザリは、部屋に戻って食事の席に着いた。
―― ティティが悪いんです。
たった今耳にした言葉を頭の中で反芻してその言葉を口にした当人に目をやると、彼女は目をふわりと細めた。
「ミザリ様、カーテンをお開けしてもよろしいですか?」
ミザリが頷けば部屋のけして大きくはない窓を覆っていた布がゆっくりと部屋の隅へ追いやられていった。同時に、強い光が差し込んでくる。
「…… ごめん。昨日は」
ミザリが目を細めつつ小さな声で言うと、ティティもまた小さな声でいいえ、と返してきた。
「今日はいい天気ですよ、ミザリ様」
部屋が光に満たされてミザリはようやく朝だ、と思った。
◇
ミザリがこの屋敷へ来て六日が経った。かつての王候補でありながらエルフ史上で最強とうたわれたアイオの子ども。いかに人間の血が混ざっていようと、その魔力は計り知れないだろうと誰もが考えていた矢先の出来事であった。
まさか王息を―― 人間の血が入っているとはいえ、仮にも王息を殴るなんて思いもしないじゃないか。一体何を考えているのかわからない。
トウカは頭を抱えて本棚に寄り掛かった。そんな相手に何を教えられるというのだろう。考えていることがわからないという点ではラウナも同じかもしれない。
言葉より先に手が出るような相手に勉強を教えるくらいなら今の仕事が倍になって寝る間もなくなる方がずっとましだ。
そんなことを考えながらトウカは選んだ書物を腕に抱えると書斎を出た。すると廊下の向こう側から見慣れた顔が歩いてくるのが見える。
「これから講義か?」
「からかわないで」
あからさまににやにやしながら言ってきた従弟にトウカはとげついた声で返した。
「そんなに立派なものじゃない。日常生活に困らない程度に教えるだけ」
「日常生活ね」
アルナは鼻で笑いながらくりかえした。
「どうせここから出られないんだ、必要ないだろ」
「わからないでしょ。アルナみたいに…… どこか別の所に行くことになるかもしれないし」
「だとしても変わらないだろ。俺と違ってどっかの王族の血が混じってるんでもなし」
「れっきとした先代国王の孫で、現王の甥でしょ、彼は」
「でもそれだけだ。俺と違って」
こちらの揚げ足を取るような言い方にトウカは足を止め、男を振り返った。
「今急いでるの。突っかかってこないで」
「話してるだけだ」
「あとにして」
きっぱりと言って再び歩き出したトウカの腕が後ろから捕らえられる。トウカが抗議のためにもう一度振り返ると、アルナはじっとこちらを見下ろしていた。二年ほど前にアルナはトウカの背を越した。トウカも男になればすぐに追いつくよと言われたが、ああして肩を同じ位置に並べて歩く日はおそらくもう二度と来ない。
「…… ついてこないで」
トウカは黒い瞳から目を逸らしながら言った。この腕をつかむ手も、昔はこんなふうではなかった。
「俺が、あいつと仲良くなったら困るから?」
からかうような笑みを浮かべながらこちらを試すように見つめてくる目も、昔見たようないたずら少年のそれではなかった。トウカが黙ったまま何も言わないのを見てアルナは腕をつかむ手をわずかにゆるめた。
「心配しなくても、俺の一番はこれからもずっとトウカだよ」
瞬間、トウカは男の手を振り払った。
「―― 適当なこと言わないで」
そのままアルナを顔も見ずに踵を返す。追いかけてくるかと思ったが、そんな気配はない。所詮その程度なのだ。
トウカは頭を振って、思考を切り替えることに専念した。ミザリの部屋は屋敷の隅、廊下で繋がってはいるが別棟の最上階にある。十六年前には彼の母アイオが幽閉されていた場所らしい。ラウナに直接聞いたわけではないけれど、母や侍従らの話の断片を組み合わせていったらそういうことになった。
見張りの衛士の前を通りすぎて、部屋の扉に相対した。ひとつ息を吐いて扉を叩く。返事はない。しかし彼がこの部屋を出たような形跡もないのでかまわず扉を開けてみる。
そこで目にした光景にトウカは目を見開いた。
「誰……?」
ぐったりと寝台に横たわった体がわずかに動いてこちらを見た。その顔は青ざめるを通り越して白くなっていた。額にはじんわりと汗がにじんでいる。
「―― だれか」
「まって……」
尋常でない様子に人を呼ぼうとするが弱々しい声で止められた。
「すぐ、おさまるから…… いい……」
そう言いながらミザリはゆっくりと体を起こした。言った通り収まってきたのか荒い呼吸が自然なものになっていくのを見ながらトウカは寝台のそばまで寄った。
「…… あなたは……」
「私はトウカ。あなたのひとつ歳上の従兄。アルナと同じ。昨日会ったでしょ?」
「ああ、うん」
ミザリはそういえば王が来るって言ってたな、などと呟きながら右手の甲を反対の手でさすった。原因はこれだ。
「今みたいなのはよくあるの?」
「ん…… これつけられてから気分もあまり良くなくて。制御できるようになったら外れるって言われたんだけど」
「そう」
ずいぶん強力な枷だ。これだけ強い枷をつけられているのなら、この子が持つ魔力はどれほどのものなんだろう。考えるだけでぞっとする。本当なら、制御させる術を教えるのは彼より強い魔力を持つ者であるべきなのに。
「じゃあ早く外れるように頑張りましょう」
「うん……」
鼓舞するつもりで言うとミザリはあまり気の進まないような返事をした。
「勉強や訓練は苦手? 大丈夫、わかるところから少しずつ――」
「そうじゃ、なくて……」
ミザリは目を泳がせながら言った。
「王、は魔力が制御できるようになれば屋敷の外へ出してもいいって言った。…… 確かにここは出たい。けど僕はもう、行くところがないから」
少年は何かにおびえるようだった。
「出してもいいってことは居てもいいってことでしょ。伯母さんは突然あなたを追い出したりしないと思う」
ミザリはまだ安心できないようで、抱え込んだ膝に顔をうずめた。
「もし万が一そうなりそうなら私が伯母さんに掛け合ってあげる。これでも一応、王候補だから聞いてくれるでしょう」
嘘は言っていない。すべては保証できないが。
それでも事実だけを述べたのがミザリを安心させたのか、彼は小さく頷いた。
たったひとつしか違わないのに、なんだか放っておけないな、とトウカは思った。ミザリが落ち着いたのを確認してから隣の部屋で待機していた侍従に茶を淹れさせた。
「あ、勉強……」
「少し休憩」
ミザリが血の気が引いた白い顔のまま腰を上げようとするのを手でおさえながらトウカが言うと、ミザリは意表を突かれたような顔をした。
「まだ始めてもないのに?」
「そうだけど」
その顔がなんだかおかしくて、少し笑いながら返すとミザリもぎこちなく笑みを浮かべた。
「アルナに叩かれたところは平気?」
ミザリの頬はもう赤みもなくなっている。ミザリは「そんなに痛くなかった」と言って笑った。
「ちょっとむかついたけど、最初に殴ったの僕だし、なんならあいつが来る前からむしゃくしゃしてたからあいつが来なかったら別のものとか…… 人に当たってたかもしれない」
そう、というトウカの穏やかな相槌を聞きながらミザリはふとアルナに言われたことを思い出した。
『自分がこの世でもっとも不幸な存在だとでも思っているのか?』
ラウナは彼を、可哀想だと言った。
「あいつの父親って」
湯気を立てるカップの中身を見つめてミザリがこぼすとトウカは「ああ」と言った。
「伯母さんに聞いたの? まあ、先王―― 私たちのおじいさまが戦争を始めたときに亡くなったって、まあなんとなくうやむやになっちゃってるところではあるけど。あの戦争、エルフも人間もけっこうな数の犠牲者が出てるし、私の父も亡くなってるしね。会ったことないけど。あの年――、ちょうどあなたが産まれた年か―― の災害がなかったらどっちも滅びてたかもね」
トウカは笑いながらカップに口をつけ、中の茶を啜った。
「本当、さっさと滅びればいいのに。こんな国」
そういう彼女の瞳は暗く、光が灯っていなかった。冗談のような軽さで吐き出された言葉にはどこか、呪いのような重たみがあった。
「…… あなたも、あいつが可哀想、っておもう?」
ぽつりと落とされたミザリのうかがうような問いにトウカは首を振った。
「可哀想じゃないよ、全然」
少しもね、とトウカはきっぱりと言いながら、カップを置いた。
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