南の里①
緑の匂いがする。
ぼうっとする頭でなんとか目をこじ開け、あたりを見まわした。
「お目覚めになりましたか」
いまだ曖昧な視界と意識の中で、男の声がした。
「…… ここは……」
「南の里アロイシカ、サヴェラナーニが屋敷にございます。ただいま陛下をお呼びしたので少々お待ちください」
「父さん、は?」
見当たらない父の安否を問うと、男は口ごもった。
「死んだよ」
女性の声がして、ミザリは振り返った。肩を流れる蒼い髪に一瞬どこか懐かしいような気配を感じたが、それは次に浴びせられた言葉によって霧散した。
「河辺にお前だけが打ち上げられているのを見つけた。…… あの大雨だ。遺体は見つかっていないようだが、精霊のもとへ還ったと思った方がいい」
その音は、確かに耳に届いているはずなのに、意味のあるものとして頭に入ってこない。呆然と自分を見返す少年に、女性は再び口を開いた。
「本来そのような待遇は認められていないが、特例だ。彼の者は我が民として手厚く葬ることとした。エルフと同様に…… 多少ささやかなものになるが、葬儀をとりおこなうことと――」
「…… うそ」
ちいさなつぶやきが部屋の中に落とされた。
「嘘ではない」
「嘘!」
きっぱりとした口調に、ミザリは声の主を睨みつけ寝台の上で膝を立てた。
「僕がっ……、僕と父さんが邪魔だったんでしょう! だからあんなっ――」
と、立てた膝がぐらりと揺らいだ。体にうまく力が入らない。目の焦点もなんだか定まらなくて、頭痛もする。寝台に手をついて四つん這いになったミザリの頭上から「悪いな」と感情のこもっていない声がした。
「魔力を封じさせてもらった。制御ができるようになれば自然に外れる」
淡々と告げられるのを耳にしながら、痛む頭を押さえようとして、手の甲に何か妙なしるしが刻まれているのに気づいた。これのことを言ってるのか。首筋にじわりと汗が浮かんでくるのがわかる。
あらためて自身を見下ろす女性をきっと睨みつけると、彼女はにやりと笑った。
「お前の母親も似たようなものをお前が産まれた時に施したはずだが…… まあ、いくら鬼才とうたわれたエルフでも出産直後の気力では命と引き換えてもあれが限界だな。お前も女を選ぶなら気をつけた方がいい。体力もごっそり奪われるぞ、あれは」
ほんのひと月ほど前までミザリの手の甲にこれと似たようなものがあったが、徐々に薄くなってやがて完全に消えた。カーリは大人になった証だと言っていたけど。
彼女の言葉を信じるなら、かつて母に唯一授けられたものがあった場所をミザリは朦朧とする意識のなか震える指先でなぞった。
女性が寝台のそばの椅子に腰を下ろし、さて、と口にした。
「名乗るのが遅れたな。私はサヴェラナーニのラウナ。アイオは私の兄にあたる。本来エルフの王となるはずだったが、あるときお前の父親と駆け落ちして―― あとはわかるだろう。お前が産まれ、私は割を食って王座についたというわけだ」
「…………」
悪い夢を見ているみたいだった。父は半分は人間で、その父が、元はエルフの頂点たる存在だった母と――。
「先ほど、自分とあの男が邪魔だったのかと言ったな」
なにもかも、すべてがどこか他人事のように聞こえてくる。
「それは違う。半分人間で、中途半端にしか魔力を使うことのできないお前の父親と、強大な魔力を持ちながらそれをまったく制御できていないお前がもし万が一人間に見つかったらどうなる? 目玉を抉られ、髪は毟られ……、文字通り食い物にされるだろうな。それどころか、戦の兵器にされるかもしれない。これは保護だ。私とて、まがりなりにも自身の甥にあたる子がそんなふうになっては夢見が悪いからな。…… さて、今後の話だが」
ラウナはそこでようやく言葉を区切りミザリを見た。そして、唇を薄く開いて何度か何か言いかけてから「いや」と言って立ち上がった。
「その話はまた後ですることにしよう。今日のところはゆっくり休むといい」
彼女はそう言って踵を返し、去り際部屋の入口付近で控えていた男にあとは頼むと言い残して部屋を出ていった。部屋の扉が開閉した音を聞きつけて、男によく似た女性が顔を出した。男は彼女にひとつ頷いて見せると、二人は寝台の前に並んで立った。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。侍従のティリオと申します。弟と二人でミザリ様の世話係をさせていただきます」
ティリオは定型通りの言葉を述べたあと、横の女性を促した。彼女はもとから赤い頬をさらに赤くさせながら、「あのっ」と前に進み出た。
「ティティです、ミザリ様。一生懸命お世話をさせていただきますので、なんでもお申し付けください」
ミザリは反応を返さなかった。
頬が引きつれるような感覚から、自分がいつの間にか泣いていて、それが乾いたのだと知った。それを知ると同時に、ミザリは再び泣き出した。
わけがわからなくて、泣いた。
三日三晩、泣き続けた。
三日も泣き続けると、涙というものは出なくなるらしい。涙が涸れてもなお、ミザリは寝台のなかでうずくまったまま一日を過ごしていた。
「ミザリ様、どうかお水だけでも」
運ばれてくる食事や水には一切手をつけないミザリを見かねたのか、ティティがうったえるように言ってきた。答える余裕はない。寝台で横になったまま無視していたが立ち去る気配がない。
「どうかお願いします。このままでは……」
「うるさいな」
たまらずミザリは頭を上げた。
「食べ物や水が喉を通るように見える? もう放っといて」
「でもこのままだと――」
「放っといてって言ってる」
「でも」
「放っといてってば! どうせ僕の気持ちなんか分かんないんだから!」
ミザリが声を張り上げた瞬間、部屋の中に笑い声がこだました。顔を上げ声のした方を見ると、ミザリとそう変わらない歳の男がいた。少年では、多分ない。おそらく青年と呼ぶにふさわしい彼の表情はどこか幼さが残っているくせに肩幅はミザリよりもいくらか広く、それでいて手足が細長くてなんだかアンバランスだった。
「自分がこの世でもっとも不幸な存在だとでも思っているのか?」
青年はからかうように言ってミザリの顔をまっすぐ見た。
「なるほど。話に聞く通り人間とは厚かましいものだというのは本当だったか。それだけのずうずうしさであれば子に受け継がれるのも当然だろうな。親の――」
青年の声は半端なところで途切れた。
後ろでティティが息をのむ音がした。
ミザリの左こぶしは本人の思った以上に勢いよく、そして力強く彼の頬を打った。青年は頬に受けた衝撃に流されるまま、壁に頭を打ちつけた。そうして彼はずるりと壁沿いに座り込み、呆然とした様子で頬に手をあてた。
「喧嘩を売ってるんなら買う。けどそうじゃないなら帰って、今すぐに」
自身を見下ろしながら言うミザリを、青年は信じられないというような目で数秒見つめた。そして素早く立ち上がってつかつかとミザリに歩み寄り、流れるような仕草でその頬を張った。大した威力も勢いもなかったそれはしかし、不意打ちには十分だった。前触れのない衝撃に、ミザリの体は寝台へと倒れた。
「人間は野蛮だ。暴力で何か解決したことがあったか? それで俺が黙ると思ったか? 実際のところ黙ったか? そしてお前はこれで黙るのか?」
どうなんだ、と詰め寄る青年の襟首をつかんで引き倒す。そこからはまさに泥沼状態だった。衛士が飛んできて引きはがされるまで続いたそれは、ミザリの体に思ったほどの傷を残してはくれなかった。
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