人斬りの引き際

 ある日、私は刀を卸しに山を下りた。


 桑八の奴はああだこうだ言い訳ばかりしてちっとも修行に打ち込まないので、今日は朝から半刻ほど説教をして無理矢理槌を持たせて出てきたのだ。


 仕事が終わると、お天道様はすっかり沈んでいた。


 その夜は馴染みの主人がいる宿に部屋を取っていた。花街を抜けた先にある宿なので、桑八を置いてきて本当に良かったと思う。


 あちらを向いてもこちらを向いても、天女のように着飾った女達と、それを値踏みする男達で溢れている。


 その趣味を持たない私にとって、白粉の香りが風に乗って流れて行くこの一帯はひどく居心地が悪い。見世から妖艶に微笑みかけてくる女達から目を伏せ、私はそそくさと道を行く。


 と、その時だった。


「この阿婆擦れめ!! 俺を誰だと心得る!!」


 男と女の交わる場所に、争いの火種が燻らぬ道理がない。


 ふと顔を上げれば私の目の前に小さな人だかりができていた。


「いたた……旦那はん、やめておくれ、やめておくれよう」


「黙れ! この俺を袖にするとは端女郎の分際で思い上がりも甚だしいものよ。そこになおれ! 天誅を下してくれるわ!」


 私は苦い気持ちになる。世の常とはいえ、奉行所にも告げずニヤニヤと諍いを見守る連中に、臓腑がキリキリと傷んだ。


 いずれ誰かが場を収めることを祈って、私はさっさと切り抜けようと下手人の側を横切る。


 そして、目が合った。


 男は、居合の姿勢で女に向き合っている。


 ただ、視線だけが私のそれと重なった。


 男はぽかんと口を開けていて、髪を掴まれたのかぐちゃぐちゃな頭をした女はその隙に脱兎のごとく逃げ出した。


 期待していた芝居を観られなかったらしい観客が、口々に不満を漏らしている。


「お主……」


 私は思わず男に呼びかけてしまった。


 男は私の姿を認めると、忙しなく目を泳がせ始めた。


「青野様、これはその、違うのです」


 自分の手から抜け出していった女のことになど目にも暮れず、男は覚束ない足取りで私に近づいてくる。


「これには、その、訳があって」


 その男は、私に仕事を頼んだあの土佐生まれの二本差しであった。


 しかしどうにもつい今しがた起きた痴情のもつれとこの男の姿がすっと重ならず、私は男の歩みに合わせて後じさってしまった。


「!」


 私の足が後ろへ退がったのを目の当たりにした瞬間、子犬のような瞳をしていた男はぎりりと目を尖らせ眉を吊り上げた。


「な……なんだぁ爺、俺から逃げるのか!!」


 花街の浮ついた空気を切り裂いて、男の怒号が飛んだ。


「お前もか! お前も俺を笑うのか! 俺をなじるのか! 俺を責めるのか! クソが!」


 男は居合の間合いに私を入れていた。


 私は何も言えず、何もできず、呆然と立ち尽くす。


 目の前のことが理解できず、口から泡を吹きながら私に怒りを向ける男を見ていることしかできなかった。


「ああ……ちくしょう、ちくしょう……苦しいよぅ……先生……助けてくれよぅ……」


 ひとしきり怒り散らすと、男は肩で息をして、それからすすり泣き始めた。


 赤子のように泣きじゃくる大の男の姿も、言ってはなんだが花街では珍しくない。


 ヘラヘラとした笑いの中心に、男と私はいた。


「……お主」

 

 ややあって、私はようやく口を開いた。


「……今日、人を斬ったか?」


 私は、男と出会ってからずっと自分の中に渦巻いていた疑惑の、ほんの一端を男にぶつけた。


 男はふるふると首を横に振る。そしてだらりと、刀の柄にかけていた手を下ろした。


 私は男の肩をぽんぽんと叩く。


 男は私と共に歩み出した。


 しょんぼりとうなだれる男に覇気はなく、腰の刀が飾りに見えてしまうほどに弱々しく成り下がっていた。


 愉快そうな目でこちらを見る人々を押しのけ、私と男は歩く。


 花街をようやく抜ける頃、男はぽつりと言った。


「俺は、今夜、人を斬るんだ。そうしなきゃいけないんだ」




「実は、お前のために打った刀はもう仕上がっておるのだ」


 私は今夜の宿に男を招き入れた。


 男は畳の上で小さくなっていた。うなだれる顔は月明かりに照らされ、ほんのりと細部が見てとれる。


 なんとも気まずそうであり、頼るもののない、親に悪事を見つかった子供そのものに見えた。


「しかし、お主に売ることはできないな」


 男は顔を上げる。頬に涙の跡があった。


「ど、どうして」


「ずっと迷ってたのだ。お主に、儂が精魂込めて打った刀を渡していいものか……」


 私は、次の言葉を言うに言えず、しばらく黙り込んだ。


 縋るような眼差しを私に向けるこの男。


 私の庵をよく訪れ、日々刀の出来を楽しみにしていた男。


 この男と、人目も憚らず遊女を力で屈服させていた男が同じ人間だとは到底思えない。


 だが同時に––––どこかで、私はこの男が見境を失って往来で暴れる姿に、納得のような気持ちを抱えていた。


「お主は、人斬りが随分怖いようだね」


 私があまりに黙りこむものだから男がソワソワとし出したので、私は観念して口を開いた。


「しかし、お主は言ったな。自分には人斬りしかできないと。人斬りが怖いくせに」


 今、京で噂されるある男の存在。


 道を歩いていると、顔を隠した男がどこからともなく現われる。


 道ゆく者が、あ、と気づいた頃にはもう遅く、必殺の居合が胴を断つ。


 斬られた者は骸となり、道に転がる。夜が明け、仏を見た人々は恐怖に顔を歪ませてその男を呼ぶ。


 京の夜に現われる、恐ろしい人斬りのことを噂する。


「もし儂の打った刀で人を斬ったら、お主はいよいよ終わりなのかと思ってしまってね」


「どうしてそんなことを……俺は、俺の先生が褒め称えていた青野様の剣が楽しみで……」


「最近京を騒がせている人斬りは、お主のことじゃないかと思うてな」


 男の目が大きく見開かれたので、答えは明白だった。


「最初はね、お主の言う人斬りは、要人警護の為だと思っていたよ。お主は武市とか言う男が親玉をやっている、土佐勤王党に飼われている身だろう」


「どうしてそれを……俺が土佐訛りだから……?」


「このご時世、刀なんてバカ高い物を見栄だけで買える武士はそうそういまい。余程の大物に仕えている者でなきゃ辻褄が合わん」


 男は私を穴が開くほど見つめる。


 程なくして、力なく言った。


「俺って本当に阿呆だな……青野様には内緒にしておきたかったのに、青野様は頭からお見通しだったんだな……」


「ぼんやり気づいていた程度だよ。桑八なんぞは端からお主に興味がないから、自分が茶を出した相手が例の人斬りだなんて夢にも思っちゃいない」


 男は笑った。笑う姿は、相変わらずのんびりしてて、しかし今はひどく乾いていた。


 そして、笑い顔に大粒の涙が溜まる。


「……俺、昔から剣は得意なんです。剣だけが取り柄なんです」


 男の涙が頬を伝い、畳に落ちる。夏の雨粒が如く、男の涙は絶えることなく畳から跳ね返った。


「でも、竹刀ですら人を叩いて痛がらせるのは辛かった。相手の身と心に走る痛みが、俺の心の臓に突き刺さるのです」


 時折この手の、生きることに敏感な人間はいるものだ。


 大抵は幼い頃にどこかで折り合いをつけるものだが、人生がどこまで進んでも暗いままで、光を見つけられないうちにとうとう一歩も歩けず座り込んでしまう者もいる。


「何でそんなに苦しいのに人斬りなんてするんだい」


「そりゃあ……先生や仲間が褒めてくれるからです」


 男の頬が一瞬だけ緩んだ。


「弱虫で軟弱者で、生きる能のない俺は、人を斬って、みんなを護って、みんなの敵を屠るときだけ、認めてもらえるんです。こんな俺でも、返り血を浴びて帰って来ればみんながすごいすごいと偽りなく称えてくれる」


 仲間達や、『先生』と呼ぶ人間の賛辞を思い出しているのか、男の目は恍惚となっていた。


「それもこれも、先生のおかげ! 先生は俺の剣の腕を買ってくれた! 野良犬のような俺を、ひとりの侍として扱ってくれたのです!」


 私は、男を見ているのが辛くなった。胸のあたりがムカムカして、胃の中身を吐き出したくなった。


 人生の袋小路に迷い込んでいた気弱な男を担ぎ上げ、これ以上ないほどの汚れ仕事を押し付けてはこっそり利潤を得ているであろう『先生』とやらのおぞましさに、怒りが収まらない。


 私はこれ以上さ迷い続けるこの男を見ていられず、ねじきれそうな腹を押さえながら言った。


「お主、ここいらが引き際だろう?」


 男は淀んだ、そしてギラギラとした目で私を睨んだ。


 これが、この男が人を斬る時の目だろうか––––私は肌が粟立つのを感じたが、それでも言った。


「これ以上人を斬り続けたらお主は壊れてしまう。その上、こうして親しくなった儂の打った刀を使ってしまったら、もうお主の魂は二度と戻れないよ」


 男は唇を噛んだ。唇が赤く染まった。


「––––嫌だ!! 嫌だ!!」


 男は猛烈な勢いで立ち上がり、頭を抱えて髪を掻きむしる。


 男の目は血走った。あの時、遊女に乱暴していた時と同じ目だ。


「俺にはこれしかないんだよ! 人を斬らなきゃ先生に認めてもらえないんだ! そうじゃなきゃあ生きてる意味がない!!」


 男の頭から血が滴る。


 黒髪を振り乱し、荒い呼吸を繰り返すその姿は悪鬼羅刹のそれで、私は思わず両腕で身体を庇っていた。


 私のその姿に男ははっとし、しかし身の内で暴れる力を抑えられず、勢い任せに襖を蹴り倒した。


 そして転がりながら階段を駆け降り、下働きを突き飛ばして宿から逃げていった。


「待て、お主、待て––––」


 男は夜の京の街に向かって走り去っていった。


 老人の脚は屈強な若人に追いつけず、私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。




 私は幾日かの間、男を待ち続けた。


 時間の許す限り待ち続けたが、溜まった仕事を思い出し、重い腰を上げてなんとか庵へと引き返した。


 あの男が庵を訪ねてきてやいないかと少し期待したが、いるのは不肖の後継ぎただ一人だ。


「父上、此度は随分と時間のかかる商いでしたね」


 出迎えた桑八は、私の顔を見てひどく驚いていた。


 それはそうだろう。あの男を待ち続ける間に、ただでさえ老けた顔にさらに皺が刻まれてしまった。


「ねぇねぇ、何があったんですか、聞かせてくださいよ、ねぇ父上」


 この他人への配慮を母親の腹の中に置いてきたような男を殴って黙らせたい衝動を、私は何とか抑えた。


 私はその時、精も根も尽き果てていた。一刻も早く布団をかぶり、世情の一切合切を顧みずに眠りに落ちたかった。


 が、強烈な違和感に襲われ、しばらく庵の隅々を歩き回った。


「やい桑八、儂があの土佐者の為に打った刀は知らぬか」


 なかった。あの男に頼まれ、迷いながらも何とか完成させ、しかし結局渡せずじまいとなったあの刀が。


 桑八は不思議そうな顔で私を見た。いや、阿呆を見るような面で私をじっとりと見ていた。


「あれならば、昨日の夕刻にあのお侍様が引き取りに来たので、丁重にお渡ししましたぜ」


 何を当たり前のことを言っているんだこの爺は、という目つきだった。


 愕然、と言うのはこのことだろう。


 周りの物音が遠くに聞こえるほどの衝撃だった。雷を脳天から受けたかのような心地だ。


「お主、あの男に刀を売っちまったのか!」


「えぇ、見積の倍の金を置いていきましたよ。父上はなんであのお侍様に刀を売らなかったんです?」


 槌で殴るのは勘弁したが、その代わり特大の拳骨をお見舞いした。


 桑八の非難が雨あられと浴びせられるが、そのほとんどが私には届かなかった。


 私はへなへなとその場に座り込む。

 

 あの刀は、あの男を引き際に押し留められる唯一無二の物であったと言うのに!


 私はたまらず庵を飛び出した。


 山を駆け降り、心の臓が破れそうになるのも構わず走り抜け、ひたすら野を下った。


 山の風は冷たい。慣れた冷たさが、私の魂に突き刺さる。


 蹴躓き、勢いをつけて転んだ。仰向けに倒れた私の身体はそこら中傷だらけになり、か弱い老人たるこの身体はあっという間に音を上げた。


 どこかの骨が折れているのかもしれない。呼吸をするたびに脳みそが潰れるほどの痛みが走る。


 しかし私は死にかけのような荒い呼吸をしながら、京の方角へと手を伸ばした。


 ああお主、お主よ。もう人を斬ってはいけない。いけないよ。


 お主はもう限界なんだ。弱いお主はもう、

自分を律することができていないじゃないか。


 笑ったと思えば泣き、泣いたと思えば怒り、老人を気にかけてくれたと思ったら一夜限りの女に乱暴して。


 お主はもう無茶苦茶だ。当然だ。お主は本当は、刀なんて持っちゃいけない人間なんだよ。


 なぁ、聞こえているかい、お主––––。


 そこで私の意識はふっつりと切れた。


 目を覚ますとそこはよく見慣れた庵で、桑八は私の拳骨の恨みを晴らすかのように、私に愚痴愚痴文句を言っていた。


 やれ突然飛び出していくなんてボケたのかとか、庵に運び込むのにえらく苦労したとか、寝ている間の介抱にひどく骨を折ったとか、そんな有様で刀を造れると本気で思っているのか、とか。


 私は呆けた。


 ああ、と声を漏らした。


 もう何もかも、だめだ。




 青野は、気づけば夢中になって初代の日記の頁を繰っていた。


 あの後、初代と親交を交わしたさる人斬りは、世間の土佐勤王党の風当たりが強くなった頃に仲間達と共に捕縛された。


 そして拷問の末、あれだけ人生を犠牲にしてまで大事にしていた仲間達の情報を洗いざらい話し、それが原因で『先生』に見捨てられた挙句晒し首となった。


 初代は、男の訃報を受け取った後、すぐに桑八に跡を継いだ。そして間も無くして、あの男を追うように息を引き取った。


 『引き際を間違えてはいけない』という言葉を残して。


 青野は、初代の遺言を目の当たりにして、日記を持っていた手をだらりと下げる。


 何故か、あの男の遺品の中に初代の打った刀はなく、初代の入魂の一作は行方不明となってしまったという。


 だから後世に残らず、初代とこの男の関係も史実に刻まれる言葉なかった。


 青野の目を光が刺す。


 いつの間にか夜が明けていた。


 青野は山からゆっくりと顔を出す太陽をしばらく見守った。


 辺りがすっかり明るくなると、青野は炉に火を入れ、日記を放り込んだ。


 炎は日記を舐めるように燃やし尽くしていく。


 ふいごで風を送ってやると、さらに勢いよく燃えて、やがてただの炭となった。

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