このお話は誰の物?
「ここはどこだろう。」
誰もいない。何もないのに不思議と怖くも寂しくもなかった。むしろ懐かしささえ感じた。真っ暗なだけの空間なのに。
「わっ!」
いきなり空間全てが明るくなった。さっきと同じ場所と思いきや、違うところもある。チェスを模した像は二メートルないし自分と同じぐらいの高さに縮んだ人の姿に変わっていて、どれもこの国に来てからであった人達にそっくりだった。
「よく出来ているわ。」
最初に身近にいたのはヘレンの像だ。髪の束も細かく、服のディティールの再現度もなかなかの物。光も反射しない無機質な素材で、掌を触れるとひやりと冷たい感触が心の奥まで染み渡る。
「素敵なお話!」
「わっ!?」
だだっ広い部屋いっぱい空っぽのガラスのカップの縁をスプーンで叩いたみたいな甲高い少女の大声が広がった。なんの予兆もないのだもの、体が勝手に反応して全身飛び上がるほどびっくりした後は力が抜け切って茫然と立ち尽くす。鼓動は気持ち悪いぐらい速まる一方で。
「何度も何度も読んじゃう。」
アリスはすぐに違和感に気付いた。声は上から聞こえる。天井は無く真上には、とてつもなく大きな自分の顔がこちらを覗いていたのだ。立っているアリスが手のひらサイズになるぐらいの巨大なアリスが自分の部屋で寝転がり、爛々と目を輝かせ、頰をつき、右手にペンを持って見下ろしている。
「わ・・・私!?」
夢見心地気味のうっとりとした声、恍惚と潤んでぼやけた瞳。
「いいなぁ。」
大きなアリスは見向きもしない。気づいていないわけでもない。彼女の視界は別の景色を見ているのではないだろうかと思える。
「こんな世界から抜け出して絵本の世界に飛び込んでみたい。」
夢中でペンを走らせる音だけが耳に残る。アリスは黙ってその様子を見守っていた。
「夫人は赤ちゃんのお世話さえなければ、ヒステリックにはならないわ。猫を飼っているなら気が合いそう!」
彼女の声はなぜか、自分の頭の中からも響いた。同時に映像までも脳裏に流れてくる。同じ声が二つの方向からぴったり重なって聞こえ、同じ光景は視点を変えて視界に映り頭に映る。
感覚がおかしくなりそう。何を遮れば正解なのだろうかわからない。とりあえず目を逸らそうと視線を下ろすと、近くにあったヘレンの像に変化が生じたので注意を向けた。ヒビが入り、瞬く間に全身に広がり、沢山の石の塊を成してぼろぼろと壊れ落ちた。
「ヘレンさん!?」
そこらかしこに埃が舞った。足元に転がる空ろな目が見上げてくる。
「私猫を飼っているのよ。手懐けるのは得意なんだから、きっとすぐ懐いてくれるわ。」
楽しげな声とペンの音は止まらない。
「待って・・・ねえ、待って!」
ようやく彼女の言葉を聞き取れる余裕ができたアリスは叫んだが届かない。ヘレンの隣のチェシャ猫の像も瞬く間に崩れていった。
「わざと誕生日だって言っちゃおう。お茶会は私のための誕生日パーティーに変えちゃおう。帽子屋・・・この人・・・。」
今度はマーフィーの像がガタガタと揺れる。ジャスミンの姿が見当たらないと思えば彼の肩にネズミが乗っかっていた。アリスが駆けつけた頃には原型も留めぬ屑山がそこにあっただけだった。
「あーあ、こんな毎日愉快な人がパパだったらいいのになぁ。」
「それはちょっと嫌かも・・・ああっ!」
気のせいだろうか、ニコラスの像はやたら壊れるスピードが早かった。
「私、良い子にするのも得意だから女王様をご機嫌にだってできるわ!」
危惧していた、一番遠くのフィオーナの像は・・・変化は見られなかった。
「うふふ、空想だと私は誰からも愛される幸せ者になれるの!素敵!」
弾んだ声が外と中でディレイのように聞こえたあと、頭上はただの真っ白な天井へと変わった。アリスの周りには随分背の低い不気味な山がいくつも出来ていた。ただの像だとわかっていても、形が無くなるごとに増していった罪悪感が拭えない。向こう側にいたアリスが具体的に何をしたかがわからないけど、すごく残酷な行為に及んだ気がしてならない。落ち着いたらわかるはず。アリスは自分の感情を一旦置き去りにした。
彼女はキャラクターを自分好みに改変していった。極端に言えば王子様とお姫様が結ばれず悲恋で終わる最後もねじ曲げられる。だが、誰かが報われるならまだしもこんな「無意味で空っぽで甘ったるいだけの誰もが得をしない面白くもなければ終わりもない物語」。妄想で済めばいいものを、妄想が物語を変えてしまったとなれば、他の誰が許す?まさか、童話の世界が実際に存在して、本当にその通りになっているなんて彼女を含め誰も思わないだろう。でも、実際に起こった。彼女がしたのはそういう事なのだ。
フィオーナの言葉を思い出す。
フィオーナはアリスがかつてぶち壊したキャラクターを元通りにし、二度と改変されないよう守っていたと言った。かなり強引で、倫理を無視したやり方が多い故に不満を持つ者も多い。アリスがあんな事をしなければ、もしかすると今みたいな事態にはならなかったのでは?
「あなたは
フィオーナの像が動いた。彼女は像ではなく本物で、振り返るとこの中で見たどの像よりも像にふさわしい生を感じない無表情だった。ヒールを鳴らして歩み寄る。
「みんなの好きだったお話を返して。」
のっぺりとした抑揚のない声で迫る。
「私の好きな物語を返して。」
相手はこちらに近づいてきて、その分だけやや大げさに後ずさる。後ろめたさと、人形が動いているかのような不気味さに慄いて足が勝手に後進してしまう。いつまでもこうしているわけにはいかないと頭の片隅が叫ぶがアリスの大半を恐怖が占めていた。
「元に・・・戻して・・・。」
フィオーナの体が斜めに傾いた。さらさらと音が聞こえる方を見てみると、つま先から砂に変わっていった。前に進もうとするも形状の変化のスピードの方が異様に速い。アリスは足を止め、砂時計の積もった砂のような山が出来上がる。もう自分を責める人は居ないのに、尚更おぞましさで身が凍った。
果たして、女王として振る舞う彼女は本当にフィオーナだったのだろうかと考えてしまう。もしかして、フィオーナも自分と同じ読者で、違うのは純粋にこの物語そのものを愛していたのだろう。アリスの考えすぎかもしれないが、それを前提とするならフィオーナの違う世界から来た人となってしまう。どちらにせよ、フィオーナの「元に戻して」の願いは叶わない。アリスがしているのは物語の修復ではない。
–私がするべき事は、これではないはず–
「あっ、そうそう。」
アリスの考えを押し除け、頭の中に違う景色が割り込んでくる。思い出したのだ。いつも閉じこもっていた子ども部屋、親がいなくて姉は遊びに行っている時は部屋をおもちゃで散らかして、好きな者で溢れさせて、ベッドのそばでは絵本を夢中で読んで・・・。アリスは確かに自分の記憶として蘇ったのだと理解した。
「白兎はこの子がいいわ!」
アリスに寄り添う形で転がっていた真っ白な白いウサギのぬいぐるみに話しかけた。
「この子が私をこの世界に連れてってくれるの!それでね、はなればなれにはならないわ。一緒に冒険するのよ。」
部屋が真っ暗になった。壁や床や天井の境を見分けられないほどの漆黒の闇に覆われ、遠近感も狂ってしまう。
間もなくしてアリスだけにスポットライトが当てられた。こんな暗がりでは慎ましげな光でさえ眩しく感じた。照明は見つからない。
五メートル程離れた場所でスポットライトが照らし出したのは背中を向けて立っているハミルトンだった。思わず名前を呼び、彼の元へ駆けていきたかったのを踏みとどまった。
「懐かしいな。物言わぬただの玩具だった頃。ああやって絵本の中の登場人物になりきって下手な芝居まで見せられて、僕まで巻き込んでさ。アリスったらその日の気分で僕の役柄や名前をコロコロ変えるんだもん。」
下手な芝居と言われるとちょっと恥ずかしくなる。彼は思い出話を懐かしみながら語り続けた。
「この物語での僕ずっと白ウサギって名前なのさすがに納得いかなかったからお気に入りの名前をつけてやったんだ。この名前で呼ばれるときの僕は・・・なんでもない僕だった。まあ名前のくだりはこれぐらいにしておこうよ。」
声が優しさで満ちていた。アリスにとってはほんのお遊戯でも彼にはアリスが考えている以上の特別な意味があった。おもちゃ達も無碍に扱う者より大切に愛でて楽しい時間を分かち合える者を愛おしく思い、また、愛される為が存在理由だと思えたらどれだけ幸せだろう。
「・・・僕もね、実は君と絵本の世界を冒険したかった。アリスの願いは僕の願いを最高の形で叶えてくれた。君と並んで歩ける、君に気持ちを伝えられる。だから・・・ちゃんと伝えないと。」
ハミルトンはアリスの方を向いた。
「君が好きだ。」
アリスは脳に厚みのあるものを叩きつけられた衝撃を感じた。不思議と彼の告白をすんなりと受け入れられそうな自分がいる事に驚いている。なぜなら彼の「好き」は愛の告白とは別の、他の意図があるように思ったからだ。
「恋人として、友人として、好敵手として、家族として、今は等身大の存在として・・・生まれてきてくれてありがとう。アリスに出会えて良かった。」
胸がじんわりと熱を纏う。どんな時も彼はアリスを想っていた。そんな彼の、どの役でもない彼の本当の気持ちはアリスには有り余るほど大きいものだった。
「元の世界の僕には絶対に何もいうなよ。じゃあ、また会おうね。」
再び背を向け、向け歩き始めると彼を照らすスポットライトが消えた。
「待って!」
アリスの声も虚しく響くだけ。誰一人いない空間で自分だけを意味もなく照らす。この世の全てに取り残された虚しさと後悔に愛おしさが重なっていっぱいになり、心で抑えきれない分が涙となって外に溢れた。
「私をいつも見ていてくれたのね。私も・・・貴方がいて・・・いっぱい救われていたのに・・・貴方がいたらそれで良かったのに・・・。でも・・・。」
とうとう箍が外れて泣きじゃくってしまった。涙を拭いとった細い腕が涙で濡れる。
「貴方の願いを叶えてしまった。」
後悔するには遅すぎた。
彼に最高の贈り物を渡してしまった後で、自らの過ちを清算するために取り上げるなんて、ハミルトンの気持ちを聞いた後ではとてもできなかった。
–何が正しいなんてことはない。私が全部悪いんだ。–
目の前にスポットライトが灯される。アリスと同じ姿をした少女が二人、それぞれ反対方向をさす看板のそばに立つ。少女は顔に影がかかっていて、唯一鮮明に見える口元は裂けそうなほど横に唇を伸ばし釣り上がっていた。
「こっちを選ぶと元の世界に戻れるよ。」
アリスから向かって左に立つ少女がさした看板には
←「全てを解き放つ」
と書いてあって。
「こっちを選ぶと元の世界に戻せるよ。」
右に立つ少女がさした看板は
「全てを閉じ込める」→
と書いてあった。
じっくり慎重に考えていたい所だった。でも時間が解決してくれそうにはないし、引く道も逃げ道も無さそう。どちらかを選ぶ以外の利巧な考えが浮かぶほどアリスの頭は出来ていなかった。
「私は・・・。」
アリスが選んだのは・・・。
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