これからのこと 後編
「・・・・・・。」
時間は深夜。ヘレンと少女は熟睡中。アリスも疲れが溜まっているので早く眠りに落ちた。が、夜中に目が覚めてしまった。ゆっくり体を起こす。
「あれ?」
目隣のベッドにいたはずのハミルトンがどこにもいなかったので、起きたついでに彼を探すことに。なるべく足音を立てない様細心の注意を払って部屋を出る。照明も全て消されて自分の足元すら見えない廊下を、部屋にあったランプで照らして歩く。
「行くとしたら・・・。」
この宿屋はフェンスで囲まれた屋上があり、店主の許可さえあればいつでも入れることをヘレンから聞いた。いるとしたら、そこだろう。階段を上り、扉を開ける。優しく柔らかい風が肌を撫でる。しかし、真新しい服の絹の肌触りがこそばゆい。寝巻きの服は宿屋がサービスで用意してくれたものだが当然下着の替えまではなく。どうしようもないものは仕方がない。
「ハミーさん?」
街は深夜だというのに、酒場などはまだ明かりがついている。さらに今日は満月。上と下からの光に照らされてフェンスの外を眺めている小さな背中にすぐに気がついた。
「月ってあんなに綺麗なんだね。」
ハミルトンは振り向かない。異世界の月も、綺麗な丸い形。
「そうね。ハミーさんは寝ないの?」
隣に並ぶと宿屋からの賑やかな声が聞こえる。アリスにとっての夜中は、明かりひとつもない部屋で一人ぼっちの記憶しかない。夜にはこんな世界もあっただなんて、瞳には違う輝きが灯る。
「寝れないんだ。」
ちょっとの間沈黙が続いた後、ハミルトンの方から聞いたのは。
「アリスは本当にこの世界にいたいの?」
俯くアリス。どこか浮かない顔で。
「私は・・・。」
あの時、衝動的に口走ったのも否めない言葉。戻りたくない気持ちは変わらない。でも、彼女の中の「常識」に伴う「理性」が「本当にそれでいいのか」と問いかける。自分一人だけなら今ほど思い悩まなかった。勝手に彼まで巻き込むような言い方までしてしまったことを悔いていた。
「・・・君がこの世界にいたいだけなら僕がいなくても平気だよね。」
呟いたのは静かな空間でさえ聞き取りづらい独り言。
「なんて?」
アリスが聞き返すと、へそをひん曲げたような声で返ってきた。
「僕がいなくてもこの世界に居れたらいいんだろ?」
「そんなこと・・・。」
なんでそんな返事が来るかすぐに理解できなかったが、察したつもりだった。
「ハミーさんは元の世界に帰りたいの?」
ハミルトンが首を横に振る。
「僕は君と一緒にいられたらどこでもいいよ。アリスがこの世界にいるなら僕だっていたいんだよ。でも、ここに留まり続けると、僕が僕じゃなくなるんだよ?」
アリスは思い出した。自分も全く聞いていないわけではなかった。ジャックが言っていた言葉を反芻する。
「ジャックの話は本当なんだ。この世界のことなんかわからないのに、教えてもらってもないのに、ありもしない記憶が踏み込んでくる。」
迷い込んだ世界が彼をおかしくさせた。鮮明に形となった自身の記憶が知らない誰かのものに上書きされようとしている。アリスも想像できない苦痛の中でもがいている
「ここにいると僕は違う誰かになってしまう。元の世界に戻ったらそれはなくなるのかもしれない。けど、あの世界に君がいないと僕の意味がない、でも君は帰りたくない。」
そして、アリスまでも彼を苦しめていた。戻れる方法はまだ見つかっていない。しかし、自分がわがままを言わなければここまで追い詰められなかっただろう。どんな答えを出したら安心してもらえるのか、アリスにはわからない。
「あなたがあなたじゃなくなっても大丈夫よ、私は・・・。」
優しく諭そうと肩に添えた手を、叩き倒すように振り払われた。
「僕が嫌なんだよ!」
肩が激しく上下に動く。行き場を失ったアリスの両手はゆっくりと元の位置に戻った。
「アリスのことまで忘れてしまうのかと思うと耐えられない!君がここにいるのに、僕は君のことを忘れるなんて・・・嫌だよ!それなら僕、消えた方がまだいい!」
自我を失っていく苦痛、記憶や存在そのものを上書きされる恐怖、大切な人の幸せを願う故に一縷の望みも捨てて仕舞えばあとは時間と共に蝕まれていくことによる絶望。我慢していた感情を全て吐き出した。それさえしないとおかしくなりそうだった。我慢していた全てを吐露した後にこぼれたのは弱音。彼には泣くことができない。でも、震える声は確かに泣いていたんだろう。
「この世界は僕らをどうしたいんだ?ねえ・・・どうしたらいいの?」
「・・・。」
アリスは完全に返す言葉を失ってしまった。二人の間を通る夜風がひどく冷たく感じる。
「どうしたんだい。こんな美しい夜空の下で言い争いとは。」
なんと、下からチェシャ猫がよじのぼってきたではないか。ふさふさの毛を靡かせながらひょいっと地に足をついた。声から先に気配を感じさせたのでさほど驚きはしなかったものの、登場する場所が場所なのでアリスは軽く引き気味。それはそうと、ややおぼつかない足取りだ。
「ヒック、水と間違えてお酒飲んじゃってさぁ。いや、美味かったからやめられなかった。すごく気分がいいもんだ、クセになるね。」
いつもと変わらず饒舌だが、話し方だけでもだいぶ違いがわかった。
「聞いてたよ。聞こえてたから。皮肉なもんだね。アリスは記憶を戻していく中で君は記憶を失っていく。」
アリスの周りをぐるぐると、歩き回る。高みの見物客みたいな言い方。口角が上がっているから自然に楽しそうな声になる。一体何をそんな面白いことがあるのだろうか。しかし、いつもならこういう時だからこそハミルトンの噛みつきそうな声が返ってきてああ言えばこう言うの末に癇癪起こすのがお決まりなのだが、うんともすんとも言わない。アリスは戸惑うばかり。
「ふふん。僕だってさ、こーんな話耳にしといて無駄口叩きにだけにやってくるほど無神経じゃないさ。」
歩き回るのをやめて、尻尾を優雅に揺らす。
「どういうこと・・・?」
アリスの問いかけにチェシャ猫はここ一番の笑顔を見せた。
「そこの白兎。もしかすると、記憶の浸食を止めるどころか、そうなる前の状態に戻せるかもしれない。」
つぎの瞬間ハミルトンは音が鳴りそうなほどの勢いで振り返った。
「本当!?」
「あくまでかもしれない、という話だ。やってみなけりゃわかんない。」
屋上のフェンスに軽々と飛び乗った。普通、あんなでかい体だと大分重くて、乗った衝撃でうるさいほどの振動と音を鳴らすのにまるで空気みたいにふわっと足をつけた。
「明日、教えてやろう。」
逆光に照らされて尚、目と歯が光って、二つとも不気味に吊り上がる。ハミルトンはチェシャ猫が先ほど歩き回っていた所まで早足で駆けつけた。
「今教えてくれたっていいじゃないか!」
「大抵の物は一晩寝かせたらより良いものになる。人の感情もよく出来たカレーも僕にとっちゃどっちも一緒。」
急に関係ない話が出てきて、反論する頭さえ回らない。さらにチェシャ猫は続ける。
「酔ってる猫をあまり当てにしないでほしい。僕もさっき何を言ったかわかってない。」
「待てよ。じゃあさっきのも・・・。」
ハミルトンの制止もむなしく、チェシャ猫は言いたいことだけ言ってフェンスから飛び降りた。宙に浮かんで移動できる彼は問題ないが見ているこっちは慣れないものだ。
「・・・・・・。」
乱入者に振り回されたふたりは夢見心地のようにぼーっとした顔で立ち尽くしている。部屋に戻ろうとしたのは一際冷たい風が吹きつけてきた時のこと。
「さむっ・・・。」
アリスが身に纏う薄っぺらい生地は簡単にめくりあがる。おさえたところで一度中に入り込んで感じた肌寒さはどうにもならない。
「もういいや。戻る。」
呆れと諦めを含んだ声でそう言ってアリスを横切って宿屋の中に戻っていき、他に用事のない彼女もあとをついて自分達の部屋を目指した。部屋に着くまでのあいだに二人の会話はない。逆にどんな話でも気まずくなるぐらいに、自分、そしてお互いを心配していた。軽い足音を神経質な足取りが追いかけてくる。アリスが出てきた時みたいに他の仲間に気を遣って静かに部屋に入ると、そこからは無遠慮。ハミルトンはベッドに体を投げ出し、仰向け。アリスは横に寝転がり、毛布を肩までかぶって窓の方を向いた。五分、十分、三十分・・・。アリスの瞼は半開きのまま。
「ハミーさん。」
反対側を向いた。隣は変わらず大の字で天井を眺めていた。
「なに?」
「その・・・おね、が・・・い、いや。なんでもない。」
アリスはひどくもじもじしている。しまいには毛布を頭の先まで被ってしまった。
「そこまで言っといてそれはないだろ。」
ごもっともである。無理に聞くつもりはないが。それに応じたアリス、少し考え込んだあと毛布をめくりあげて、なぜか自分のベッドに空いたひと一人分ギリギリぐらいのスペースを手で軽く叩いて・・・まるで誘ってるみたい?でも、ハミルトンには彼女の意図を理解できなかった。だって真顔だし。
「えっ?」
目線を下に逸らして、小さな声で。
「一緒に・・・。」
とだけ言ってようやく理解した。
「はぁ?なんで。」
彼に悪気はない。アリスもダメ元だったらしく。
「やっぱいい!」
尚も小声で、毛布を頭上まで覆ってそっぽを向いてしまった。一瞬のぞいた顔はとても焦っていたから、やっぱりさっきの真顔は作り物だったのだ。
「あーわかったってばもう!」
嫌なわけではなく、彼女をこのまま放っておかなかったハミルトンはアリスのすぐ隣に並んだ。小柄な彼でも元々一人分のベッドに収まるには厳しく、大の字どころか腕は上に乗せるしかない。
「なんなんだ?」
心の中で呟く。漏れてはいないのに反応した如く、背中を向けていたアリスがこっちに寝転んだ。
「・・・・・・。」
この状況をより予期するための気の利いた言葉など浮かんでくるはずもなく。例えるなら棺の中で手を重なって寝かせられているあの体勢で固まっていたのだ。ものすごく近い距離から視線を感じる。アリスはまた無表情だ。しばらくして、彼女の方から口を開いたのだった。
「これで、怖い夢を見て目が覚めても平気ね。だってあなたがいるもの。」
少しずつ、ほんの少しずつ首を動かして、表情がうかがえる所で止めた。力の抜け切った柔らかい声で話しかけると思いきや、アリスの顔も安堵を浮かべていた。眉は開いて、目や口、全てが穏やかな弧を描いている。くわえて彼女の優しがにじみ出ているので子供に絵本を読み聞かせる母親のような顔だ。
「怖い夢を見たとき、決まって起きるわ。しかも深夜。部屋は真っ暗。・・・その時にね、誰もいないと、不安になる。」
その口から語られたのはお伽話ではなく、自分の辛い思い出。でも、声や表情に変化はない。それこそお伽話みたいに、今や昔の話、自分に起こったことじゃない話し方だった。
「せめてお気に入りのおもちゃかぬいぐるみと一緒ならいいのに。それじゃあ幼稚だってママに怒られるの。」
ハミルトンには大人と子供の精神的な境界線なんて知らない。何が幼稚とか、何が正しいとか知らないからアリスを諭すこともできない。まあ、こんな雰囲気で正論を言うほど無神経ではないのだが。アリスに対しては。
「僕は君のものだ。どこにいたって変わらない。・・・君が望むなら、今夜だけはただのぬいぐるみでいてあげる。」
アリスは微笑みを浮かべたまま、同じように上を向いた。少し間をおいて、違う話を始めた。
「チェシャ猫さんの言ってたの、本当だといいね。」
「うん。」
会話はこれで終わり。心の奥にまだ、ほんのひとさじの不安を残したままアリスはやがて深い眠りに落ちていった。
ここは夢の中。
目に映る全てのものが淡い色調でできているパステルカラーの世界をアリスは歩いていた。地面はふかふかのカーペットで、それを裸足で踏んでいく。自分のふんだ後がへこんで、違う色に染まっていく。どこかうっとりした気分で歩いていると、いつのまにかアリスは大きな紙の上にいた。いや、これは本だ。真っ白なページの、なんにもない本。
「私なりに努力してきたのに。」
後ろから声がしたから振り返ると、なんと自分がもう一人いたのだ。
「私がふたり?あなた・・・誰?」
そんな当たり前の疑問も聞き流されて、もう一人のアリスが不気味に笑う。
「いい子だって、できる子だって少しは褒めて欲しくて。でもダメ。何をやってもダメ。私そのものがダメな子だもん。なんにもできないダメな子。」
アリスは話の途中で逃げ出した。せっかくいい気分だったのに現実に突き落とされる気がした。もっともアリスにとっては今が現実なわけなのだが。逃げる、逃げる。目を見開いて血の気の引いた顔で。
「はぁ・・・はぁ・・・。」
息を切らし、立ち止まる。追いかける足音もしないので振り返ると。すぐ後ろにいた。思わず飛び退く。
「いや・・・。」
逃げても無駄だ。なんでかすぐ追いつかれる。絶望で動かない足。すると、アリスそっくりの少女は怯えるアリスの手を引いて抱き寄せた。頭が真っ白な彼女に偽者は囁いた。
「ねえ、誰にも期待されないんだったら、頑張るだけ無駄だよ。元の世界に戻ったら好き勝手やったらいいじゃん。」
アリスはそんなこと言わないが、否定もできなかった。
なんで、今まで報われないとわかっていて頑張っていたんだろう。
それを無駄だと言われて、無意味だと改めて気付かされ、虚しさとともに自分の中の何かがすっと落ちていく感じがした。
「それでもいいんだけど。どうせなら誰かに望まれた方がいいよね?あなた、誰かから求められたこと一度でもあった?」
少女は続けた。
「その鍵を持っているからだけじゃない。誰にだって使える代物じゃないんでしょ?あなたならみんなを解放してあげられる。自由にしてあげられる。それがどういうことか、わかるでしょ?」
少女は突然姿を消して、手に握られていたのは自由の鍵ではなく、ペンだった。
「これは・・・。」
足元に、一文字ずつゆっくりと字が浮かび上がった。
あなたは 世界を 、える。
そんな文字が目の前に現れた。ちゃんと読むには難しく、不自然な空白があった。でも構わない。何をするべきか、すぐに理解したから。
「私が・・・。」
アリスは笑った。消えてしまった偽物と全く同じ顔で、さらには見る人を芯からざわつかせるような狂気を孕んで。
「私 が 必 要 な の ね ?」
ペンを執り、書き殴る。字を形成していない、ぐちゃぐちゃの線の塊だった。
「やっぱり私が必要なんだ!いいよ!救ってあげる!!感謝されなくたっていい、望まれなくたっていい、そんなのいらないだってこの世界は私が望むようにだってできるんだから。」
恍惚の笑みで口の端を歪ませ、白いページを汚していく姿はまるで・・・。
眠れないハミルトンは、天井、窓からの景色、アリスの寝顔を気が向いた時に色々と眺めていた。
「ふふっ。・・・はは。」
突然、隣から笑い声が。寝る前は怖い夢を見たら、なんて言っていたアリスがなんとも幸せそうな笑顔で寝ている。
「びっくりした・・・。」
ハミルトンにとっては長い長い夜が明けて、陽の光がさした頃、一番早く目が覚めたのはヘレンだった。
「うーん、よく寝たわ。・・・あら。」
お行儀よすぎる寝相のハミルトンと目があったヘレンは、大袈裟に口元を覆ってベッドの中で後退りした。
「まあまあまあまあ、まあ!皆が寝静まった頃を見計らって、まー!!」
朝っぱらから一人コメディに、寝起きじゃないとしてもとても付き合いきれないハミルトンはわざとらしく深いため息をついた。
「詳しいことはアリスに聞いてご覧。」
ついには投げ出してしまった。本音では、質問責めされて慌てるアリスの反応が見たいなんてちょっとした悪戯心があったり。
「わかった!」
嬉々として鼻から息を吹き出してガッツポーズのヘレン。アリスの運命やいかに。
「チェシャ猫ちゃーん!」
楽しみを控えたヘレンは忙しなく、部屋を後にした。癖なのか、まだお眠り中の人がいるのに勢いよくドアを開け閉めしたものだからそれにつられて目を覚ましたのが一人。
「うーん・・・。」
アリスだった。おかげさまでぐっすりと熟睡できたようで、起きてからも寝ぼけ眼をこすって顎が外れそうな大きなあくび。
「ふぁ、おはよう・・・。」
「おはよう。爆睡してたよ。寝言で笑ってたし。」
しょぼしょぼした細目をぱちくりと見開かせる。
「笑ってた?私が?・・・どんな夢だったか全く覚えていないわ。」
「まあ、いい夢だったんだろう。」
呑気な会話を、ドタドタとうるさい足音に遮られた。こちらへ向かってやってくる。
「大変!!!」
力任せに叩きつけるかの如くドアを開け、ヘレンが戻ってきた。これには部屋にいる全員が心臓ごと飛び上がった。ひとり、起きないネズミの少女を除いては。
「なになに、どうしたんだ、うわっ!?」
大股で歩み寄り、持っていたチラシをハミルトンに見せた。近すぎてなんで書いてあるかわからない。
「クロケー大会が中止になったの!!」
「・・・は?」
興味がない、あるかの問題ではない。
どんな事でも急に飛び込んできたら、間抜けな返事しかできないものだ。
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