忘却の森
アリスの意識が戻り、ちくちくする目を開けると、綺麗な砂浜。目の前を小さな蟹がアリスなど素知らぬ顔で横切っていたから頭の中が冴えないうちはぼーっと眺めていた。
「げほっ・・・う、うぅ・・・。」
溺れたのは事実、喉も痛く、気分も悪い。自分の体がいつのまにが元に戻っていたが、それを気にしている余裕はなかった。
「死んだかと思った・・・。」
溺れたけれど自力で意識が回復したのは奇跡だ。なぜなら見渡す限り誰もいないし、ハミルトンはあの頭なので人工呼吸ができない。
「そうだ・・・!ハミーさん・・・!」
ぐっしょり濡れて重たくなった服に砂がまとわりつき、払うことさえ嫌なほど不愉快極まりない状態のまま立ち上がり、同じく流されたハミルトンを探す。
「ここだよ!」
岩陰の裏にいたハミルトンが姿をあらわした。
「まったく、酷い目にあった。アリスは大丈夫?僕は全然平気・・・。」
アリスは口元を押さえて震えはじめた。もちろん、ハミルトンはなんでかさっぱり。
「なんだい?」
「ふふっ・・・ふ・・・。」
この状況で、なんと笑いを堪えていた。でも無理もない。ハミルトンの頭は布と綿で出来ているため、水が浸透して上からぺしゃんこのシワシワの状態だったのだ。一応喋れるみたいで、どこからどう言葉を発しているのかも気になるところだが、見た目の滑稽さの前ではどうでもよくなってくる。
「頭が濡れて・・・雑巾みたい。鏡があったらいいのに、すごく面白いことになってる・・・あははは。」
アリスのツボにハマってしまった。しまいには我慢できず、声をあげて笑った。
「うぅ〜・・・。」
納得いかないハミルトンだったが、この世界に来てからこんなに笑ったアリスを見るのは初めてなものだから、複雑な気持ちながらも今は反論せず、彼女の笑い者でいてあげることにした。濡れているのは嫌なので、せめて余分な水分だけでも除こうと自分で自分の頭をまさに雑巾の如く絞ったらアリスの笑い声はより一層大きくなった。
「ん・・・ふぁぁ、なんだ?」
「わああっ!?」
岩が動いて喋った。いや、違う。岩肌に似た柄の布がずれ落ちて、大きくなる。そこにいたのはなんとグリフォンだった。
「化け物!正真正銘の化け物!!」
固まるアリスの背中に慌てて隠れる。隠れたところでアリスにもどうすることもできないのに。
「僕が化け物だぁ?」
丸い目が鋭い眼光を放つ。
「だってお前、グリフォンだろ!?グリフォンは空想上の生き物じゃないのか!?」
「そうなの!?」
アリスは知らなかった。むしろハミルトンが知っているのかが不思議なところだが、ひどく狼狽る二人も、自分が実在しない生き物だと言われても大した反応は見せない。
「この世界ではグリフォンは実在する生き物だ。現に僕がここにいるからね。化け物というのなら、さっきまでここにいたウミガメモドキがそうだろうなぁ。」
海の方を眺めるグリフォンの目は、伏せ気味で目蓋も落ちる。ウミガメモドキはハミルトンも聞いたことのない名前だった。
「ウミガメモドキ・・・?」
もどきというから、ウミガメの偽物なのだろうかとしか考えられないが姿形までは想像できないでいた。
「あぁ。お前さん達が来る少し前に捕獲された。アイツがいたら面白い話もいっぱい聞けただろうに。」
二人は何も言わなかった。捕獲されてその後なんていい話は聞けやしないだろう。今はそんな話聞きたくなかった。静寂の中に小波の音が心地よい。黙っていても苦にはならなかったが、今は一日のうちに何もない時間を費やすわけにはいかない。
「私たち、忘却の森を目指してるの。」
「あっ、そう・・・ふぅん。ここからだと遠いなあ。」
一筋縄で行かないなんて覚悟は決めていた。せめて行き方だけでも教えてくれたら御の字といったところだ。
「森の入り口まで連れてってやろう。中にまでは入らないからな。」
「ホントに!?」
これには二人も想定外。
「ホントだ。最近荷物運びの仕事もなく退屈してたんでね。」
その大きな背中には小柄な二人が乗ってもまだ余裕がある。しかも、翼は飛ぶためにあるもの。天気も良く、余計な障害物のない空を飛んで渡れば大幅な時間の短縮にもなる。運転の必要もない。幸いにもアリスとハミルトンは高いところに抵抗はないみたいだ。手を取り合って喜んでいるもの。早速一番手に乗るのはハミルトンで、彼の手を掴んでアリスが後ろ。ふさふさの毛が素足に触れるのは少しくすぐったいが、慣れると絨毯の上に足を広げているような感覚だった。
「しっかり捕まってろよ。落ちても知らないからな。」
翼が動き出す、跨っていても宙に浮かんでいるのはわかった。
「うわっ、うわっ。」
浮いて、浮いて、いつのまにか海を真下に見下ろせるぐらいの高さにまで浮いたあと、空の中にポツンと浮かぶ影はまっすぐ、勢いよく飛行を開始。
「うわー!!」
「やああああーっ!!」
さすがの二人も最初はびっくりして、ハミルトンは背中に、アリスは彼の腹部に腕を回してしがみついた。
「すごい!ハミーさん!私達、空飛んでる!!」
「僕ら落ちてばっかだったもんね!ヤッホー!」
慣れてくると、二人は大はしゃぎ。濡れた頭の片耳、アリスの長い髪も向い風に激しくはためいている。気のせいかハミルトンの頭も若干乾いてふくらみを取り戻しかけていた。木々の上を、小さな影が滑走する。やがて街に出たりもしたが、上を二人の乗せた獣が空飛んでるとは思わないはずだ。
空を移動して約三十分、グリフォンが降り立ったのは鬱蒼とした森の前。
「ありがとう!」
「森はな、赤い実がなっている木を頼りにしたら出られる。まあ、気を付けろよ。」
丁寧にアドバイスもくれたグリフォンは元来た道を飛んで行った。この時グリフォンは忘れていた。今行った助言も中に入れば一緒に忘れるので意味がないということを。
さて、いよいよ忘却の森。暗いだけならぬ、霧までかかって視界の悪さと薄気味悪さに拍車をかけている。
「入ったら、あなたのことも忘れるのよね。いざとなると怖いな。」
「入ったら、どうなるんだろう。」
ちょうど同じタイミングで呟いたから被ってしまった。似たような事を言っていたのだが。
「きっと森を抜けたいって気持ちで意気投合して、一緒に行動するんだと思うよ。」
ハミルトンの言葉に、少し不安が取れて軽くなった。アリスは彼が差し出した手を握った。
「一人じゃないから怖くないわよね。」
ふたりは何もかもを忘れてしまういわくつきの呪いの森へと歩み始めた。
「あれ・・・わたし、何でこんなところに?」
森へ入って早速、今までのことが頭から抜けてしまった。ここまで綺麗に忘れてしまうなんて、心の準備のしようもない。
「私は、だれ?ここはどこ?」
記憶喪失の少女がそれらしいことを喋っている。一方ハミルトンも、彼女から手を離した。
「君は誰?」
と、尋ねる。
「なんにもわからないの。」
気まずい沈黙が流れた。お互いが自分のことだけならぬここにいる理由もわからないなんておかしいと感じるのはお互い様だ。
「こんな気味悪いとこいたら余計怖いよ。とりあえず抜けよう。」
「うん。」
アリスは再び彼の手を握った。
「これは。」
何もなかった森の中で変わったものを発見。覗き込むと。
「きゃあああああ!!」
アリスが悲鳴を上げてその場に崩れた。それもそのはず、落ちていたのは白骨化した人の死体だったからだ。見た感じ、子供に見える。暗い森に人骨、まるでお化け屋敷を彷徨っているかのよう。
「もうやだぁ。ちびるかと思った。」
「そうなっても僕はどうしてあげられることもできないや。」
ハミルトンは至って冷静だ。アリスは小鹿のように震える足で立ち上がり、二人はまた歩み続ける。
「あの赤い実のなった木はなにかしら。」
今度はまともなものを発見。木の実自体はとても背が高くて取れやしない。アリスはお腹が空いていないし、知らない果実をとって食べる勇気もない。
「わからない。あっ、向こうにもある。」
その木はまるで、道標のように前に続いていた。
「目印にしてみない?あてもなく彷徨うよりマシだと思うよ。」
「うん・・・。」
死体を見るよりは、確かにマシだ。
案外迷うことなく、出口を見つけることができた。二人の目的はそもそも森の中にはなく、森に入ってから抜けることに意味があるわけであり、長居したくもない。森を抜けると、またも道が続くが何もない、芝生の中に無理やり舗装された綺麗な道。
「あれ・・・僕、一体・・・。」
急にいろいろなことを思い出したハミルトンは情報量の多さに混乱したが、どれも自分に関する当たり前の、ありふれた記憶だったのですぐにいつも通りの落ち着きを取り戻すことができた。当然、森に入る前の出来事や、アリスのことも。一方、アリスは。
「アリス、どう?そっちは・・・。」
力なく座って、俯くアリスは口は半開き、瞳孔が大きく開いていた。明らかに様子がおかしい状態にどう声をかけていいかわからないハミルトンは、しゃがみ込み、アリスの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?・・・ねえ、アリス・・・。」
「思い出した。」
彼女の口から譫言のように漏れた一言。
「よかったじゃん、僕も。」
「帽子屋さんの言っていた通りだわ。私のこと、全部思い出した。」
ハミルトンの耳が真上に飛び跳ねた。それがなにを意味するかはわからないが、感情が大きく反応したのは確か。アリスが今まで忘れていた記憶が蘇ったというのだからハミルトンにとってもこれほど嬉しいことない。
「本当に?記憶が戻ったの!?やったね!ほんとよかった!!」
まるで自分の事のように大喜び。しかし、当のアリスはほうけたまま。何の感情も示さない。そこでハミルトンはここ一番の気遣いを見せた。
「一度にいろんなこと思い出して混乱してるんだろ、僕もそうだったもん。ゆっくり頭で整理したらいいさ・・・おっと、ごめんしゃべりすぎた。」
わざとらしい咳払いで一区切りしたあと彼女の隣に立った。
「今すぐ動く元気がないなら、少し休んで行こうよ。こんなところだけど、誰もいないしさ。」
アリスとハミルトンの目的は元の世界に戻ることと、アリスの記憶を思い出させること。後者は元の世界に戻れば何とかできるかもしれないが異世界にいるうちに叶ったので、問題が一つ片付いて心の荷が軽くなったよう。
「それにもう少しここにいれば僕の頭も元どおりになったりして。」
口には出さなかったが、自分に関してもちゃっかり考えていた。頭というのも、物理的な意味で。
「ハミーさん、私・・・。」
「ん?」
あれから時間も経って、そろそろ記憶の整理もできた頃だろう。ハミルトンは胸に期待がいっぱいだった。元いた世界でも過ごした時間は限られていた。彼の知らないアリスも、彼女自身の口から聞けると思うと楽しみでしかたなかった。でも、アリスは全然嬉しくなさそうだった。その時点ではまだわからなかった。
「元の世界に帰りたくない。」
「・・・アリス?」
耳を疑った。記憶が蘇った途端、なんと目的を否定したのだ。
ハミルトンは知らない。アリスが、記憶が戻った事を喜ぶどころか後悔している事を。ハミルトンは自分と一緒に楽しく遊んだアリスしか知らない。だから、世界と視野の狭いただのぬいぐるみは「アリスは幸せ者」だと思い込んでいた。だってそうだもの、あんなに楽しそうな笑顔を見せてくれる少女が幸せじゃないなんてあり得ない。でも違った。逆だから、だったなんてきっと今でも考えられないでいる。
「おいおい、どうしたんだよ。そんな・・・家に帰りたくない理由でもあるの?」
もう一度しゃがみこみ、かける声は聞いた事のないほど穏やかだった。アリスは思う。「こんな声でこんなふうに話しかけられたことなど一度もない」と。そう思った瞬間、無意識に涙がこぼれ落ちた。
「わっ、泣くなよ!じゃなくて、えーっと、アリス?どうしたの?」
だが、彼が対応できる状況には限りがあった。どうすればアリスを悲しくさせる気持ちから救えるのか、そればかり考えていてこっちに向かってくる足音にまるで気づかない。
「・・・白ウサギ。」
振り向くと、またまたジャックがいた。ついに彼も笑顔で取り繕うのはやめていた。
「ねえ、君さ。少しは空気を読むとかないわけ?」
ハミルトンの彼に対する感情はもはや完全なる嫌悪だった。アリスにかけた声とは打って変わって低く唸るような、苛立ちを無理やり押し殺しているような声。
「大人を梃摺らせると、痛い目を見ますよ。」
指を鳴らすと、空間から兵士が次々と現れアリスたちを取り囲んだ。
「言ったでしょう、鍵を渡せと。渡しさえすれば、今後一切あなたたちには干渉しないことも約束します。」
ハミルトンはアリスを庇うように前に立ち塞がる。アリスは抜け殻のように、恐怖の色さえ見せない。
「やれやれ・・・。あぁ、干渉はしない、と言いましたが。ハミルトン、貴方とはこれからお城で一緒に仕事をするんですから、仲違いもできればしたくないのです。」
ここでにっこり微笑むジャックの不気味さたるや。いや、それより彼は今信じられない一言を放った。
「は?なにいってるかさっぱり意味不明なんだけど。」
アリスも顔を上げた。
「ハミルトン、もとい白ウサギ。いい加減お気づきになられているのでは?明らかにあり得ない記憶が溜まっていく、違和感に。」
「勿体ぶらないではっきり言えよ!」
ハミルトンの苛立ちは限界を超えた。その反応さえ、ジャックはむしろ愉しんでいる。
「・・・いいでしょう、どうせ貴方たちは逃げられない。話して差し上げます。」
そして、説明口調で彼の真実が明かされる。
「異世界から来たにもかかわらず、この世界に関する記憶が何故か蘇る事があったでしょう。それは首から下の体の持ち主の記憶が貴方の記憶を蝕んでいるのです。」
「・・・。」
理解しようとしても、心が拒む。受け入れたら、自分がなくなりそうな気がした。
「この体の主は白ウサギ。人の姿にも変身できる力がありましたが・・・。彼は、ある日、何者かによって殺されたのです。物語および世界を機能させる為の重要な役割を担っていた彼の代わりとなる誰かを探す必要がありました。」
長々と説明したあと、一息ついてまた続ける。二人のことなど構いもしないで。
「私の魔法もダメ元でした。魂の宿ったままのものを結合させ、どちらかの記憶を消し去る禁忌の魔術。しかし、成功しているみたいですね。あと一つ、条件としては、この世界が「あなたを白ウサギとしてふさわしい」と認めること。」
ジャックは少し背の低いハミルトンに視線を合わせるため浅い会釈のように前のめりで一歩距離を詰める。
「理解できませんか?別にしていただかなくて結構。する必要もなくなります。・・・あなたがあなたでなくなる前に元の世界に戻れたらいいですねぇ。」
ジャックは元の位置に戻って手を二回叩いた。
「あとはお願いします。渡さないのなら奪い取りなさい。それ以上の行為は認めませんからね。」
兵士は一切の躊躇いも慈悲もなく、二人の腕を掴んで強引に引っ張る。ハミルトンはアリスから距離を離すため、羽交い締めで引きずられる。
「離せ!この野郎!!」
屈強で全身を硬い鉄で覆った男たちに抵抗の術もなく、ただ従う意思のない気持ちだけは頑なに見せ続けたいためひたすらもなく。
「アリス!!」
ハミルトンの呼びかけにも無反応のアリスはされるがままに腕を持ち上げられ、まるで糸で吊られた人形のよう。
「おとなしいですね。初めからそうしてくれたらよかったのに。」
服を探られ、兵士が取り出したのは自由の鍵ではなくニコラスが彼女に贈った懐中時計だった。どうやら間違えた様子。だが、間違えたならもう一度探せばいい。時計を投げ捨て、ついには服さえも脱がされかける。
「アリス・・・!」
叫んでも意味がない、伸ばした手も届かない、どうしようもないこの状況を一つの銃声が邪魔をした。
「・・・?」
アリスを捕まえていた兵士の一人の兜に、弾丸で撃ち抜かれた痕が。見るからに頑丈な鉄を貫くなんて、よほど火力のある銃でないと不可能だろう。いや、そんなことは置いといて。頭まで貫かれたらしい兵士は後ろにぐらりと傾き、土埃を立てながら倒れた。
「な、何者・・・ぎゃああ!!」
騒ぎ立てた兵士は腕を撃たれた。今度は血を噴き出し、必死におさえてもがき苦しんでいる。ジャックも急な事態に取り乱しこそしないものの、ひどく焦っていた。
「高いお金出して、一番火力のあるものを買って大成功!ついでにネズミを追いかける猫に乗っていただけでこんなところに来ちゃった!」
場違いな、嬉々とした溌剌な声とともに現れたのは、アリスに自由の鍵を渡したきっかけにもなった公爵夫人ことヘレンと彼女のペット、チェシャ猫だった。しかもヘレンは腕にライフルを抱え、銃口からは硝煙が漂っていた。
「公爵夫人・・・。」
思わぬ乱入者に、ジャックの表情が曇る。対してヘレンはすでに勝ち誇ったかの如く、幼い顔には似合わない不敵な笑みで顔のあらゆるところを釣り上げた。
「女の子に乱暴するなんて、あなた一生幸せになれないわよ。」
そう言って、再び銃口をむけた。
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