兎を追いかけないアリス 後編

町を出てすぐの背の低い塀の内側にもたれ、二人は並んで適当に足を崩して座っていた。相変わらず、風が時たまそよぐ音しか聞こえない。こんな、人が住んでそうな場所に誰一人としていないだなんて。廃村というにはそれほど古びてもいないし。とか色々考えていたアリス。自分のことを考えようにもその「自分に関する記憶」も手がかりもさっぱりないのだから考える気にもならない。

一方ハミルトンはアリスとはまた違う考え事

をしている。なぜわかるかって?だってさっきからぶつぶつとつぶやいているのだもの。

「静かにするのは逆効果か?というか、これ、塀を挟むようにした方が良かったんじゃ・・・。」

と言っては

「まあ、見える限り、前に人影はなかったし、いっか・・・。」

と納得したり、だ。自分で問いかけて自分で納得してるんだから世話がない。聞かないふりをしながら黙って聞いていると、一通り自分の中で考えがまとまったのかそれとも途中で飽きたのか、更に足を伸ばしてアリスの方を振り向く。

「ねえ、暇だし。時間つぶし程度にはちょうどいいぐらいの事しか知らないけど。僕が知ってる君の話聞く?」

どうも回りくどいというか、スッと簡潔には言ってくれないのでアリスは度々理解するのに少々の時間がかかった。首を縦に振る。


「・・・君の名前はアリス=キャロル。六歳の誕生日に僕が家にやってきたんだからあれから確か七回のクリスマスと、八回目の前に誕生日があって・・・年齢は、十四歳かな。」

いつのまにかアリスはやや前のめりになっている。彼は構わず続けた。

「僕は本当にアリスの部屋からでたことないんだ。箱の中から出たのも君の部屋の中。まあでも・・・子供一人の部屋があんなに広いんだから家も相当大きいんじゃない?」

それを聞くと、実は物だって窮屈な思いをしていたのではないかと少し申し訳ない気持ちになる。同時に、アリスはなんとなく、自分の「中身がなくふわふわした感覚」が薄れてしっかり自分の中に自分が戻ってきたような感覚があった。

「僕の知る限りではパパ、ママ、姉と妹、あと飼い猫。名前は忘れたけど二匹。猫はどっちも僕に興味を示さなかった。毛糸で遊ぶばっかりでさ。」

今度はアリスから顔を逸らし自分の足を伸ばした先にある石ころをじっと見つめる(ようにアリスには見えた)。

思ったよりちゃんとした家に住んでいたらしく、少し安心したが不安にもなった。どうやってこんなところに来たかはわからないが、今頃アリスの家族はどうしているのだろうか。心配させてはいないだろうか。だとしたらそれはさぞ迷惑をかけていることに変わりない。心ばかりが焦っていく。焦ってもしょうがないのに、少なくとも今は。

「・・・ほとんど押入れの中だったけど、寒い時や夜更かしした時は一緒に寝たりしたね。」

急に何を言い出すかと思えば、そんな事。

いや、そんな事ではない。とんでもない事だ。焦りに焦っていた気持ちはどこかに飛んでいったかわりに違う焦りでいっぱいになった頭は大忙しだ。顔がわずかに熱い。頰を覆ってみると嫌でもわかる。

「なんだい。物言わぬおもちゃと寝ることがそんなに恥ずかしいかい。」

・・・そうだ。冷静になれ。アリスが一緒に寝ていたのはただのぬいぐるみなのだ。今の彼とだなんて、お断りだ。

「冗談だよ。」

どうやらアリスの反応は想定内だったようだ。あいもかわらずこにくたらしいったらない。

「もう!そ、それよりハミーさん。あの、私については、何かないの?」

慌てて話をそらすついでに一番気になっていた質問をぶつけた。

「アリスについて、かぁ・・・。」

視線を石ころに落としたまま、つぶやく彼の声色は落ち着いているようにも、気分が乗らないどころか沈んでいるようにも聞こえる。ここまできて少しだけ嫌な予感がした。

「簡潔に言うと、君は・・・。」

「あ、あれ!」

突然アリスはハミルトンの肩を強く叩きながらある方向を指でさす。ちょうどいいところだったのに、とお互いが思っただろうが今となってはどうでもいい。家からなにやら飛び出してきた!・・・しかし、残念ながらただの茶色いネズミだった。少し小太りな。

期待していたのとは大きく外れていただけにやたら大げさに反応してしまったアリスはまたまた申し訳なさから静かに、そっと肩から手を離した。ネズミは騒がしい二人を前にピタリと立ち止まり、こっちを向く。

「まあ!見つかったかしら!」

と喋ったのは、なんとネズミだ。人の言葉を話せる動物となれば別だ。人を見つけるよりレアな物を目の当たりにしてしまった。奇異な目で茫然と見つめるアリス、ハミルトンは湧き上がる好奇心を抑えきれないでいた。アリスそっちのけで駆け寄っては大胆にも固まるネズミを鷲掴みにした。逃げかけたものの、間に合わなかった。

「ぎゃっ!?」

腹あたりを雑に握ってそのまま持ち上げる。

「ちょっとアンタ!離しなさいよ!!」

ネズミは小さい手足をバタバタして抵抗するが全くそれらは意味を成していない。まず足が届いていないし、あまりにも非力だ。

「なんだこれ!喋るネズミなんているんだ!」

アリスからしてみると、喋るウサギも首から上がぬいぐるみ頭で喋るウサギも奇異で仕方がないのだが。

「あの・・・その持ち方はやめてあげたほうがいいわ。苦しそう。」

見ていてとても哀れに感じたので、アリスも腰を上げる。

「なら、そらあげるよ。」

と、なんとハミルトンはそのネズミをアリスの方へ向かって放り投げたのだ。

「わ、わっ!?わわっ!と・・・!」

綺麗な放物線を描いて宙を丸い毛の塊が飛んでいる。あたふたとしながらも腕を伸ばしてなんとかキャッチして手のひらに収めた。流石のアリスも彼の態度には痺れを切らした。

「もう!私が言いたいのは。」

「触りたいんでしょ、どうせ。」

憤懣を溢そうとしたら遮られ、散々だ。怒る事さえ無意味に思えた途端どっとした疲労に変わる。触ってみたいかと聞かれたら、否定はできないけども。

だってほら、手のひらの中の温もりと、毛に覆われた可愛らしい顔の小動物。こんな生き物を見て愛らしいと思わないわけがない。ここに来てずっと緊張状態が続いていたアリスの表情筋が思わず弛む。これでは彼の言葉は

もう全く否定できない。

「か、かわ・・・かわ・・・。」

「相変わらず私をみる人間って気持ち悪いわね!」

今のネズミの一言で少しだけ冷めた。

やはり動物は喋らないほうがいい、と後悔しながら。

「可愛くないねーコイツ。」

喋る上に随分と口と態度が悪い、可愛くないを極めんばかりの誰かさんがアリスの手の中で二足で堂々と立っているネズミの顔を覗いている(というか睨んでいる)。アリスがもう少し気が強い性格なら「お前がいうな」ぐらい言い浴びせている事だろう。しかしネズミの方はそれぐらいでへこむような性格はしていない。

「アンタこそ!その見た目!マジで一般受けしないから!」

ハミルトンの方に完全に背を向けては腕を組み(といってもあまりに手足が短いのでそういう風に見えただけだが)、ネズミのくせに鳩胸気味に上半身をそらしている。この一連の仕草をアリスの手のひらの中で行われているのだ。見ているアリスは釘付けだ。一般受けするかどうかはさておき、見事に反論を食らったウサギの方は心底穏やかではなかったが。

「アリス、それこっちにちょうだい。」

声でわかる。ドスの効いた声とはまさしくこれだ。流石のアリスも察して、ネズミを彼から遠ざけた。

「だめよ!どうせひどい目にあわせるんでしょう?」

図星だった彼は舌打ちだけしてすんなりと諦めた。

「息の根を止めてやろうと思ったのに。」

ほら、言わんこっちゃない。空気を変えるのをついでに話を本題に戻した。

「そういえば、あなたにお聞きしたいことがあるの。」

ネズミは体ごと正面を向いた。

「何かしら。」

「あの家でお茶を飲んだの?」

間髪入れず大きな声が返ってきた。油断していると耳が痛い。

「そんなわけないのだわ!私がそんな器用な真似出来るとお思い!?」

確かに。言われてみたらそりゃそうだ。こんな短い足で人の真似事など一体何ができるというのだろう。想像すらも難しい。

「悪いけどアリス、僕もこれと同意見だ。君はいつからここにいるんだい?他に誰か見なかった?」

アリスでは埒があかないと判断したのはいいものの、これ呼ばわりされたのがあまりよろしくなかったようで彼のほうは見向きもしない。口調が強気なのは相変わらずだ。

「知らないだわさ!私は三月兎を探しにきただけなのだわ!むしろ私が聞きたいわね、誰か見なかった?てさ!」

これはこちらが聞かれたのだろうか?

「なんなんだろう、無性にムカつくわコイツ。」

ハミルトンが何か呟いてるのはおいといて、ここに来るまで他に誰もみていないアリスは首を横に振った。

「そう。見てないなら仕方ないわね。まったく、帽子屋といいアイツといい、何考えてるかさっぱりわからないったら。そもそもお茶会なんてなかったら・・・。」

ついでに愚痴り始めたと思いきや突然、はっと驚いて前足で口元を抑える仕草をする。実際口が大きく開いただけなのだがその表情がなんと愛らしいことか。

「て、いうか・・・ア、アリス!?だとしたらそこにいるのはもしかして白兎!?」

白兎と呼ばれたハミルトンは自分を指差し、アリスは目をまん丸にさせていた。

「アリスだけど・・・。一応。」

「白兎?僕が?・・・だとしたらってどういう意。」

しかし、食いつき気味のアリスに遮られた挙句乗せられてしまう。

「あなた、私のことを何か知ってるの?」

「えっ!?そうなの!?このネズミが!?」

悲壮感を隠しきれない切羽詰まった顔と、(仕様とはいえ)無表情ながら威圧を隠しもしない、そんな二人が一緒になって迫ってきては小さな小さな生き物は怖気付くのも無理はない・・・と、思いきや、彼女が途端に焦り始めたのはそういうわけではなさそうだ。

「アリスなのね!?だとすれば報告しないと!報告しないと!!あっ、私がいまあなたとおしゃべりしたということを誰にも話してはダメよ!!」

手のひらをぐるぐると走り回る。

視線で追いかけてすでに目がぐるぐるのアリスとは反対に冷静だった。頭がぬいぐるみだと、回るような目をしていないだけなのかもしれない。

「その前に教えてくれよ。君が言っている事は僕達にとっても大事な話かもしれないんだ!誰にも話したりしないから・・・わっ!?」

ネズミがアリスの掌から落ちた・・・もとい、後ろ足でおもいっきり蹴って飛び降りた。小さい体を目で捉えた時はもっと小さく、あっという間に一目散に逃げてしまった。

「待て!!」

急いで後を追うが、曲がり角を曲がったらもうとっくに姿を消していた。二人して落胆、肩をがっくりと落とすアリス。ハミルトンは遠く先をみつめて立ち尽くしていた。嵐が過ぎ去った後の静けさにまさに呆然。ただのネズミに振り回された二人の心境は、今の二人を撫でる冷たいそよ風のよう。

「・・・あのネズミ、私の何を知っているのかしら・・・。」

力なく呟くアリス。深いため息の後にハミルトン曰く。

「・・・人違いでしょ。ほら、名前はアリスの金髪碧眼の女の子なんて珍しくともなんともないじゃん。」

あてにならない、そう判断したのか、そう思いたいだけなのか。

「よく考えてごらんよ。君はこの世界の住人じゃないのに、君のことをこの世界の住人が知っているわけないじゃないか。」

と思えば、ちゃんと根拠はあったみたい。アリスにしてみれば、ハミルトンの言う事でさえ信じきれていないのに。でも、彼の情報の方がしっかりしているので信じたくなってしまう。

「うぅ・・・そうなのかしら。はぁ・・・。」

それでも、すがるほど必死だったアリスはわずかでも期待したのだ。残念な気持ちはなくならない。不安でいっぱいの状態ではすぐに思考を前へと切り替えられない。

「・・・ハミーさんのことも、何か知っているみたいだったわ。」

ハミルトンがすかさず首を横に振る。

「まさか。僕は生のネズミすら初めて見たんだ。知らないよ。」

「ならハミーさんも人違い・・・?いいえ、うさぎ違い?」

横から彼の顔を覗き込む。すると彼は俯く。全く、ずっと同じ顔だからなんとなくの雰囲気で察するしかないのが困る。アリスもあまり、洞察力のある方じゃない。いや、今は自分の事でいっぱいいっぱいなだけかもしれない。

「人違いでもうさぎ違いでもないだろ・・・多分、何とも間違えようがないと思うけど・・・っていうか、僕のことはどうでもいいんだよ!全く・・・あっ!」

はっと顔をあげる。何が詰まっているかもわからない耳がぴんと跳ねた。

「白兎で思い出した。」

今度はこっちが思い出すなんて。しかもアリスの方じゃないなんて。でも彼女に責めるなんて選択はない。それどころか、まだ彼の耳に対してびっくりしているようだ。

「君が僕に本を読み聞かせてくれたことがあった事を思い出した。まあ、君にとっちゃ重要じゃないだろうけど。その本に白兎って言葉があったからさ。」

・・・・・・。

しばらく、謎の沈黙。

アリスは眉尻を下げ、どうにも引きつった笑みを浮かべる。勿論、ハミルトンは彼女のぎこちない笑顔の理由を知らない。

「ハミルトンさん、私って・・・ぬいぐるみに本を読み聞かせるような子だったの・・・?」

「それの何がいけないのさ。」

急によそよそしくなるアリス。いや、別にいけない事ではないのだけれど。さすがのアリスも、物言わないぬいぐるみに話しかける様子を想像しては「おかしな子」と直感的に思ってしまった。そこらへん、(そのまんまの意味で)ただの人間の玩具でしかない彼とは考え方が違うらしい。だからこそアリスは否定をしなかった。

「ただ、本の内容をはっきりと覚えているわけじゃないんだ。僕だって忘れたりするからね。せめてタイトルと、うさぎの末路だけは思い出したいものだ。」

「あなたも思い出せるといいわね。」

さっきの忘れたいことは忘れるようにしたようだ。

「そうだね。僕にとってはこれも大事な思い出だからね・・・。さて、ここにはもう収穫はなさそうだから、いい加減ここを出るか。」

両手を上に、うーんと背伸びをして、気持ちを切り替えて。アリスの面持ちも最初ここをきた時よりはだいぶしっかりとしてきた。二人の旅路はまだまだ始まったばかり。こんなところでうだうだしていても仕方ない、二人の考えはきっと一緒だ。そうと決まれば一歩前へ踏み出そう。しかし、だ。またも何者かによる邪魔が二人を阻む。いや、何者ではなく、何か?

「へくしゅん!!」

目の前に濃い色の煙が、どこからかもやもやと漂い、アリスの鼻をくすぐった。

「大丈夫かいアリス。・・・煙?においはしないな、なんだこれ・・・。」

ハミルトンは鬱陶しそうに煙を手で仰ぐ。すると、なんとも不思議なことに、煙が集まって、塊になっていく。

「ひっ・・・!えっ!?ハミーさん!」

うろたえるアリスを後ろに庇うが、彼だってビクビクしている。だって、塊になったそれは段々とどこかで見覚えのある形へと姿を変えていき、やがて・・・煙だったものは猫に変わったのだから。猫と言っても普通の猫と明らかに違うのは、まず空中に浮かんでいる事。とても大きな体と口で、笑っている。はたしてこれは猫なのか?

「は、は、はみ、ハミ・・・。」

指でさしてガクガク震えているアリスは顔面蒼白。片方の手は無意識にハミルトンの方に添えられている。対して彼は・・・一緒になって震えていた。

「おおお、落ち着けコレは猫だ。いや、こんな馬鹿でかい猫がいるか!!」

声まで震えている。虚勢を張るが今度は声がうわずった。

猫は顔いっぱいに裂けた口をゆっくり開いた。

「やあやあこんにちは。僕は猫だよ。チェシャ猫って呼ばれてるんだ、よろしくね。」

「「喋った!?」」

二人はとうとうお互いの身を寄せ合った。

「こんだけ大きなお口があるのに、鳴き声を上げるだけだなんて勿体無いと思わないかい?それはさておき・・・。」

足を動かさず、ふわりと風に乗るように空中を漂う。ニヤニヤ顔はアリスのすぐ目の前にまで迫った。

「さっきのネズミと話しているのを少し聞いてたんだ。そこのウサギは白兎?本当に?」

大きな猫目がぎょろりと動く。

「僕の名前はハミルトン。白兎ってのは向こうが勝手に言っただけさ。」

さすが、もう冷静さを取り戻している。が、逆にものすごく警戒していた。一向に構わずチェシャ猫は続ける。

「へえ、ま、だろうねぇ。そして、君はアリスなのかい?」

真っ赤なおめめに間近でみつめられ、怯えながらもじもじと答える。それでも一応目と目は合わせた。

「う、うん・・・私の名前はアリス=キャロル。だと思う・・・。」

「だと思う?」

即座に返された。

「えっとその・・・わからないの・・・。ここに来るまでとか、私が何者か自分でわからないの・・・。」

自信なさげなアリスを横からすかさずフォローする。

「記憶喪失ってやつだよ。アリスだって、好きでわからないわけじゃないんだ。」

チェシャ猫は大きい目をさらにまん丸に見開いて、これほどないまでに溌剌とした声で

「自分で自分のことがわからない!」

と言った。まるで、からかうみたいに。

「面白いねぇ。不思議だねぇ。うん、君は僕が見てきた中で一番不思議なニンゲンだよ。それに・・・。」

アリスの周りをぐるぐる、次はハミルトンを後ろから首だけで覗き込む。

「君も実に興味深い。頭から綿のにおいがする。おかしいな。があるのは頭じゃなくて体の方じゃないか?」

前足で頬をつつく。煙から実体化したくせに、確かに触られている感触はあった。

「首から上はただのぬいぐるみさ。どうなってるか、僕もよくわからないけど。」

面倒と言わんばかりに、詳しい仕組みなどについては見事に省いた。チェシャ猫が二人と少しだけ距離を取ってふわふわと浮かんだ。

「あっそう。頭には綿が詰まってるから脳無しなのかな?」

悪気があるのか、ないのか。笑顔ではどっちかわからない。少なくともハミルトンは煽られている気がしてならなかった。

「お前・・・!!」

思わず手が出そうなところをアリスに止められた。

「ハミーさん!落ち着いて!」

「さっきのネズミといいなんなんだ!腹立つ!!」

一方のチェシャ猫は空中で一回転して声を上げて笑っていた。これは明らかに、からかって反応を楽しんでると言わざるを得ない。アリスもうんざりした。

「あははは、思いついたことを言うぐらいしか脳がない猫だからね、僕・・・おっといけない。君達とこんなことを話すために現れたわけじゃない。」

チェシャ猫は空中で一回転。どうも落ち着いてはいられないらしい。

「僕はね。特別変わった君たちには言うけどね。「アリス」と名乗る少女を見つけたらある人物の家に行くまで後をつけなくてはならないんだ。」

アリスはきょとんとしたまま突っ立っている。しかしこの猫、言っていることに明らかな矛盾がある。アリスもしばらくしてから気づいたがハミルトンはすぐに理解した。

「後をつける相手に今からお前の後をつけますって言ってどうするんだよ。」

確かに、自殺行為もいいところ。

「僕もいつもならそうしてるのさ。煙のように、靄のように。君の吸っている空気に、もしかしたら僕の一部が混じっているかもしれないね。」

そうやっていちいち余計な無駄口を挟むせいで話が頭に入りにくい・・・と、いっても聞き捨てならない。もしチェシャ猫の言うことが本当ならとんでもない!

「勘弁してくれよ!・・・アリス!?」

ハミルトンはあまりこたえてなかった。でももう一人は違う。冷や汗という汗が流れるアリス。今の彼女の頭は今まで以上によく働いていたと思う。有害なのかとか、体の中で実体化しないかとか、彼の体は今完全の状態ではないのかとか。ぐるぐると色々な思考が巡る。

「冗談だよ。」

杞憂に終わった。あっさりと。

徐々に顔の色が元に戻っていった。さて、ハミルトンも一安心だ。自分より気がかりだったから。

「ある人物の家までには、アリスには「物語通りの」道筋を辿ってもらわなくてはいけない。そこに猫は現れてはいけないのさ。「物語」では登場しないからね。」

「もの・・・がたり・・・?」

アリスにはいまいちピンとこなかった。ハミルトンはお利口にして聞いている。チェシャ猫は続けた。

「この国の女王様が言っていることさ。「物語」という名の法律、とでも思っといてくれ。ここの住人は「アリスと名乗る違う世界からやってきた少女の前では「物語」通りの行動を取らなくてはならない。それだけさ。」

それでもまだ、彼は何を言っているのだろうという状態のアリス。彼は理解したが、理解した上でいみがわからないようだ。

「その物語がこの国の決まり事だとしたら、他にも存在するのかい?・・・例えば、大人にならないとしてはいけない事があるかどうかとか。僕らのいた世界にも沢山・・・。」

ハミルトンは何かを思い出すたびに指折り数える。そんなたった十の指で世界の決まり事なんか数えると一体何周するのやら。一方チェシャ猫は真面目に聞く気はないようだ。

「君、おしゃべり好きなのかな?」

「得体の知れないモノと話すのは嫌いだよ。」

即答。アリスが横でヒヤヒヤしていた。

「そこのウサギの言う通り。」

チェシャ猫はお腹を上に向けて前足、更に後ろ足を組んだ・・・ように見えた。

「じゃあ君が僕らの後をつけるのも、その物語通りなのかい?」

尻尾がゆらゆらと動く。

「いいや、それは違う。ある人物に頼まれてるだけ。いつもなら君達が迷子になりそうな時にのみ姿を現すことを許されている。」

しばらくしてハミルトンとアリスがお互いの顔を見合わせた後にほぼ同じタイミングで首を傾げた。別に釣られたわけじゃないだろう。だって方向は真反対なのだもの。

「ややこしいな。チェシャ猫、君は今どっちに従っているんだい?」

チェシャ猫の動きがピタリと止まった。耳から尻尾の先まで、まるで時間そのものが止まったような。さすがの二人もびっくりする。でも、時間は動きだした。不気味な顔がぐるりと二人を捉えた後、体を捻っては空中でうつ伏せの状態でふわふわと優雅に浮かんでいる。

「さあ、どっちだろうね。猫もわからないや。」

一瞬固まったもんだから、何か納得のいく答えが得られると思ったらこれだ。考えた末にわからなかったのなら、仕方ないけれど。

「あっ、そう・・・。」

ハミルトンも面倒になって追及するのをやめてしまった。

「はい!・・・あの、チェシャ猫さん。」

アリスがおずおずと右手を上げる。

「猫でいいよ。」

「嫌よ。名前はちゃんと呼んであげたいわ。」

彼なりの気遣いを断固として拒否した。このアリス、気弱そうに見えて意外とそうじゃないらしい。

「気になったことがあるの。もしも、その物語通りにしなかったらどうなるの?」

するとチェシャ猫が、二人の周りをぐるぐると、空中にもかかわらず見えない道でもあるかのように歩き始める。

「そりゃあ、決まり事を破ったらそれにふさわしい処罰が与えられるのは人の住む世界であるならどこでも同じ!物語に背いた罪人はみんな死刑!首をはねられ、おしまいおしまい!」

なんだか今までで一番、楽しそうに話すではないか。声もとても溌剌としていて、アリスにしてみれば横を通りかかられると耳が痛いほど。だけど残念、アリスには首をはねるというのがどういう意味かわからない!

「首をはねられるって、何?」

それにはハミルトンが教えてくれた。チェシャ猫が口を開きそうだったのを感じて。

「首を切られる。即死だね。」

アリスの思考が固まる。次第に理解が追いついた途端、顔から一気に血の気がひいていく。それもそうだ。そんな、聞くだけでゾッとする話。ならば、尚のことチェシャ猫の愉しげにしているのも意味がわからない。

「まあ・・・なんてひどい!」

「にしては、君は随分と他人事みたいに話すんだね。」

至極真っ当な反応のアリスとは対照的にハミルトンは冷静だった。いや、よく聞けば声が僅かに低い。アリスは察した。

「僕には関係ないからね。だって僕、はねる首がないからね。」

そう言った後、次にアリス達の前に出てくる時には首から上が綺麗になくなっていた。やはりこの光景にはいまだに慣れないアリス、少しのけぞり気味になる。

「だから物語に従わなくてもいいんだけど、女王様に目をつけられると不自由にもなるから仕方なく、話しかけたくても見守るだけの退屈な猫さ。」

煙が首から上に集まり、塊がだんだんと元のニヤニヤ顔を張り付けた猫の頭になった。首がない間はどこから声がしたんだろう、なんだか変な感じだった。

「でも君たちは今までのアリスとは違う。だから僕は君をアリスという名前のお客さんとして接しているわけだ。」

今度は突然、毛繕いを始めた。ようやく猫らしい動作を見た。そういえば猫だった。

「つまり物語を守らなくても堂々とできるだろうと、いつもはこそこそ隠れてるけど僕たちの前に姿を現したって事かい?」

ハミルトンの問いに、短く「うん。」と答えた。話すときはとことん話すのに、本当に気まぐれだ。

「あの・・・私にも、物語通りの道筋をって仰ってたけど、私もそうしないと・・・。」

おそるおそる訊ねるアリスにハミルトンが続く。

「僕はどうなるのさ。斬首刑に限るなら僕だって関係ないだろうけど。」

自分たちの命に関わるなら気になるのも当然だ。それに、二人は物語を具体的に知らない。そこまで言ってくれるなら、最低限のことぐらい教えてくれてもいいのに。

「言ったろう?君はアリスかもしれない、でもアリスでもないはぐれもの。というか、アリスは特別なのさ。「君たちが歩んだ物語が一つの物語になる」のさ。」

いつの間にかアリスの頭の上に座っていた。不思議なことに全く重さを感じない。ハミルトンが睨んでいる(顔ではわからないが、すごいトゲのある視線をアリスは肌で感じていた。)

「君は他のアリス同様、思うままに冒険すればいい。」

「は、はぁ・・・。」

アリスは少し疲れた様子だ。そして、さりげくはぐれものと呼ばれて落ち込んでもいた。

「なんとかなるさ。今まで死んだアリスは一人もいない。さすがにアリスをすぐに処刑にはできないらしい。女王に対してよほど失礼なことしない限りなんとかなる。」

そう言って、今度は二人の目の前に飛び降りた。といっても空中にだが。

「本当は僕が無事辿り着かせなくてはいけないある人物の所までには幾多の冒険スポットがあるんだが・・・ま、たまには後回しでもいいだろう。」

「それも、チェシャ猫さんの気まぐれかしら?」

アリスの問いに、尻尾を揺らす。

「まあね。だとしたらそう遠くない。僕の後をついてくるといいよ。」

と言うと少し先にある木の枝に軽々とジャンプした。またも猫らしい動作を目の当たりにしてまたまた驚く二人であった。

「後をつけていた奴の後をついていくなんて、おかしな話だ。」

なんて呟くハミルトンと、まだチェシャ猫への接し方にどこか不安を感じているアリスは不思議な猫に導かれるままに次の目的地へと向かったのであった。

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