08 揺れるエジプトの中で

 十字軍フランクに動きあり。

 そう、ダミエッタのアイユーブ朝側の諜報網からの報告がもたらされた。

 アイユーブ朝のマムルークを統括するバイバルスは、師であるゼノビアからその話を受け、先発として、腹心のカラーウーンをダミエッタに向けて、斥候ものみとして向かわせた。

 カラーウーンは一隊を率いて、ナイルの川岸を疾走し、主立った浅瀬を確認し、今や河口までほど近いところまで来ていた。


「……今のところは、まだ渡河の動きは見えないか」


 カラーウーンは、キプチャク草原出身のマムルークで美丈夫として知られ、エジプトに買われた時も、破格の高額により取り引きされたと言われる。


「逆に、こちらから渡河してみるか」


 かなりの冒険だが、カラーウーンと彼の率いるマムルークの機動力なら、敵地で遅々とせざるを得ない十字軍に追いつかれることはない。

 そこまで胸算用をしたところで、付近の住民から話があると言われ、カラーウーンは即座に下馬し、その住民の方へ歩いて行った。

 住民は馬上のカラーウーンを仰ぐかたちで話すものと思っていたところを、同じ目線で来られたので驚いたが、逆にひざまずいて、こうべを垂れた。


「恐れながら、申し上げます」

「かたくなる必要はない。今は危急の時、礼儀はありがたいが、直截に述べていただきたい」


 住民はさらに頭を下げてから報告した。


「海上に、艦隊が見えます」

「何」

「北から来ております。十字軍の後詰めかと」

「礼を言う。誰か、この者に金貨を」


 カラーウーンは急ぎ馬に乗り、麾下の部隊を海に向けた。

 ひた走り、海岸へ。

 視線の先に、青い海が見える。

 空には、黄金の太陽が。

 地中海の太陽はどこまでも情熱的で、それでいて美しい。

 そして、その太陽と紺碧の海のはざま

 その艦隊は、いた。


「キプロスにいるという、王弟アルフォンス……出てきたか」


 カラーウーンの判断は早く、馬首をめぐらすと、一路、バイバルスの待つ本陣へと疾駆していった。彼の部隊も、何も言わずに、そのあとへとついて、やはり疾風のように駆けて行くのだった。



 バイバルスは先日のゼノビアからのダミエッタの十字軍本陣についての報告に加えて、今、カラーウーンが海上に見た艦隊の艦影の話を聞き、アイユーブ朝もまた、合戦に打って出る必要があると判断した。


「たしかにナイルは減水している。十字軍の渡河は時間の問題だ。ただちに陣容を整え、出陣すべき」


 場は、事実上の国王スルタンである王妃シャジャル・アッ=ドゥッルの御前での会議の席上である。

 シャジャルもまた、バイバルスの進言をうべない、全軍出陣の勅命(の偽装)を宣しようとした。


「あいや、お待ち下され」


 そこで待ったをかけたのは、ファフルッディーン・ユースフ将軍である。ダミエッタから遁走し、その責を問われるところを、国王サーリフの死とそれを秘すという事情により抱き込まれ、更迭を免れえた武将である。

 彼は、この僥倖を自らに運が向いてきたと信じた。それゆえに、軍人奴隷であるマムルークの進言のみで事を急ぐシャジャルに対しても、大きな顔をして、待ったをかけた。


「打って出なくても、たとえばカイロにでも籠城すればよいのでは。彼奴らは異国人。日にちをかければ、いずれ自壊しよう」

「…………」


 ルイ九世は弟であるアルトワ伯ロベールをエジプト王に就ける気でいる。今はダミエッタという都市ひとつのみだが、このたびの進撃で占領した土地をそのまま「新エジプト王」ロベールの領土として、年貢を取り立てそれがそのまま兵糧となり兵站となる可能性は大いにある。

 王都カイロに籠るのも一つの策だが、その結果、カイロ以外は「新エジプト王」の領土となってしまう可能性が高い。

 末弟シャルル・ダンジューのように、敢えてアラビア語を修めて、そのあたりを見すえている油断ならない将帥もいる。


「……そしてそれは、この前での御前会議で話したではないか」


 バイバルスが席上で冷たく言い放つ。


「誰の御前か?」


 うまいことを言った、という風にファフルッディーンは笑った。自分の意見を軽んじると、シャジャルによる国王サーリフの死の隠蔽を暴露するぞ、と言外に言わんばかりである。


「……誰の御前でもかまわん、それよりもけいの軍も動かしてもらうぞ、ファフルッディーン将軍」

「これはしたり」


 くだらん、と言わんばかりにファフルッディーンは憫笑する。


「いつからバイバルス卿は拙者の上に立った? マムルークならいざ知らず、拙者はちがう。拙者は国軍を率いる将軍なるぞ」

「……では、先の発言どおり、カイロに籠るおつもりか?」

しかり」


 マムルークごときと一緒にするな、格はこちらの方が上、とファフルッディーンは言いたいのである。ファフルッディーンから見れば、バイバルスは国王の死を隠蔽する一味であり、ファフルッディーンから見ると、はるかに格下の犯罪者のような存在であった。

 バイバルスはそこまでファフルッディーンの心中を読み取り、そして痛烈な反撃に出た。


「そして、カイロに籠城して、やはり不利とならば、逃げ出すおつもりか? ダミエッタのように」

「愚弄するか貴様!」


 ファフルッディーンとしては、無駄に国軍を損なわずに済ませるための戦略的撤退である。だが一方で、ダミエッタの市民からしたら「見捨てられた」という印象が強く、周辺地域からアイユーブ朝不支持の声が上がっているくらいである。


「いやしくも国軍を率いられるのなら、まずダミエッタの市民にその戦略的撤退とやらを宣言してから実行すべきでしたな。おかげで、逃げたというのがばれて……」

「黙らんか!」

 

 ファフルッディーンが佩剣に手をかける。こいつを斬れば、アイユーブ朝の軍のすべてをファフルッディーンが掌握できる。そういう野心も計算に入れての喧嘩だ。

 それはバイバルスも同じで、この機にファフルッディーンをたたっ斬って、うるさい国軍司令官とやらを亡き者にしてやってもよいか、と考え、剣の柄を握ろうとした。


「やめよ」


 シャジャルの玲瓏たる声が響く。


「両名はアイユーブ朝の軍の両輪。相争うは無意味である」


 美貌の王妃が睨むと、独特の凄みがあり、バイバルスもファフルッディーンも、剣から手を離さざるを得なかった。

 シャジャルはそれを確認すると、瞑目して言った。


「さすればバイバルス将軍、ファフルッディーン将軍の勇気を疑う卿の発言は不穏当である。それを認めよ」


 シャジャルはバイバルスを責めた。ファフルッディーンはそれに気を良くした。

 やはり、何だかんだ言って、女。

 軍の有力者である自分をないがしろにはできない。

 その弱気が、自身の支持者であるバイバルスを責める発言である。

 ファフルッディーンはそう断じた。

 だから、バイバルスの詫びの言葉を受け入れた。


「臣バイバルス、ファフルッディーン将軍の勇気を疑うこと、これあやまちであると認め……」

「ふん、分かれば良いのだ」


 仮にも御前であるのに、敬語を使わない。

 ファフルッディーンはこの機に会議を牛耳り、シャジャルを傀儡にしようと企んでいた。

 手始めに、このバイバルスから臣従させてみるか。

 そう、ファフルッディーンが思った矢先である。


「過ちであると認め……ファフルッディーン将軍にこたびの出陣の先陣を譲る所存」

「そうかそうか……は?」


 バイバルスはもう笑っていない。真顔である。真顔で、礼儀正しく頭を下げ、謝った。

 である以上、ファフルッディーンもまた、それ相応の態度で応じる必要がある。

 ファフルッディーンは突然のことに言葉が出ず、あまつさえ、シャジャルの方を見て、助けを求めるという見当違いの対応をした。してしまった。


「……ふむ。バイバルス将軍の言や良し。女の身であるわらわには分からぬが、察するに、先陣とは武人の誉れであろう。わがつまもよく、そう申しておった……で、受けるか、ファフルッディーン将軍?」


 シャジャルは敢えて命令形ではなく、疑問形でファフルッディーンの意志を問うかたちを採った。

 断れば、たとえようもなく不名誉であり、しかもそれは、戦いによって国王スルタンの地位に就いたサーリフの言葉というかたちで逃げ道を封じられた。


「……く」


 会議の席上の主導権は、いつの間にかシャジャルが握っていた。いや、バイバルスの先の言動からして、仕込みの可能性がある。要は、シャジャルとバイバルスに一杯食わされたわけだ。

 しかし今さら遅い。事ここまで至った以上、出陣を拒めば、今度こそ勇無き者として扱われる。カイロに籠城して、擁する兵力を背景にアイユーブ朝を牛耳る予定だったのだが、こうなっては出ざるを得ない。さすがのファフルッディーンにもそれは理解できた。



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