さよなら風たちの日々 第8章ー2 (連載26)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第26話


             【5】


ジャズが流れているのに気づいた。

 ヒロミは着ていたセーラー服の乱れを直し、上体だけ起こして声を殺して泣いている。

 そのヒロミに、ぼくは訊ねた。

「何て曲だよ。誰の演奏だよ」

 涙目のまま、髪をかきあげながら、それでもぼくに負けまいとしてヒロミは言う。

「アルバートアイラー。サマータイム」

 少し前、ぼくはまわりの空間が一瞬のうちに凝固し、それが巨大な鈍器で打ち砕かれた錯覚に襲われていた。

「卑怯です。好きでもないくせに」

 その言葉によってぼくは、ようやくわれに返ったのだった。

 

 そしてぼくは思い出したのだ。上野公園でヒロミが話していたヘンな超能力。

 そう。ヒロミはやはりヘンな超能力者だったのだ。ヒロミと一緒にいると、その相手は自分が隠しておきたい嫌な性格を、白日のもとにさらけ出されてしまうのだ。

 これか。これがあの日、ヒロミが話していたヘンな超能力だったのか。

 けれど男はずるい。卑怯そのものと言っていいかもしれない。

 男が女を泣かすとき、それが浮気だろうと、暴力だろうと、金銭がらみだろうと、その根底にあるのは男の身勝手なエゴだ。そして男はそれを糊塗するために怒る。自分の醜い本質に触れられたため、怒る。自分を正当化しようとして、あるいはそれを誤魔化そうとして怒る。分かっているのだ。分かってはいるのだ。


「また泣いてるのか」

「おまえの涙なんか、もう見飽きてるんだよ」

「帰れよ」

 ぼくは顔をそむけたまま、ヒロミに言った。

 それに答えず、ヒロミは涙目のまま、顔を左右に振りながら言う。

「好きだって言ってください。それだったら、わたし」


 沈黙が流れた。。カセットテープから流れていたアルバートアイラーのサマータイムも、いつの間にか終わっている。

 モノにはすべてに重さがあるように、この沈黙にも重さがあった。それは無限とも思えるような重さだった。


 そしてぼくはもうひとつ思い出したことがあった。

 信二と話ていた、あの体育館での体力測定の出来事。

 あんなことで泣く女、今どきいないよ。あれは人間国宝だね。無形文化財。生きている化石。シーラカンス。

 そう。ヒロミは好きな男にキスさえ許そうとしない、生きているる化石、シーラカンスだったのだ。

ヒロミに、ぼくは怒鳴った。

「帰れ。もう二度とここに来るな。この、シーラカンス女」

 シーラカンスって何ですか、と震える声でと訊くヒロミに、ぼくはまた暴言を吐く。

「そんなの、勝手に図書館で調べろ」

 ヒロミは涙を浮かべながらゆらゆら立ち上がり、首を少し傾けたまま、敬礼した。

 その敬礼は今にも消え入りそうで、そして片頭痛を押さえる、それに似ていた。

「先輩殿」

 ここでヒロミは言葉を選びながら、

「先輩殿。シーラカンス女。帰ります」

 学生カバンと布製バッグを持ち、ヒロミはぼくに頭を下げてから部屋を出て、階段を下りた。

 やがて階下からも、音がしなくなった。出ていったのだ。

 

 その後しばらくは、ぼくの部屋は静まりかえっていた。

 やがてやり場のない怒りがこみあげてきた。それはヒロミに対する怒りではなかった。

 ぼくはヒロミが置いて行ったカセットテープを、力いっぱい壁に叩きつけた。

 その瞬間、部屋に甲高い音が響き、カセットテープはケースと本体がバラバラになって、床に散華した。


 終わった。すべてが終わってしまった。

 窓の外を見た。

 そこに見えたのは窓枠に切り取らた空を、飛行機雲が音もなく切り裂いているところだった。





                           《この物語 続きます》





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さよなら風たちの日々 第8章ー2 (連載26) 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7

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