第2話

 二人で寝るためには作られていないベッドに、僕らは一緒に横になって、あとは眠りに落ちるだけ……というところまで進んでいた。目が覚めたらまた、夜が明けていて、いつも通りに仕事に向かうことになる。それはそれで仕方のないことだけど、ハナからひどくつまらないとわかっているゲームの「NEW GAME」と書かれたボタンを押すような感じで、気が乗らないのは正直な感想だった。



 だからせめて、僕は少しくらいそれを忘れたくて、へらへらとしながら、四角い天井に向かいながら言う。




「僕、いまだに口の中がひりひりするんだけど」

「うんうん。それはよかった」



 ん?



「何がどうよかったと?」

「わたしの気持ちを味わえていただけたかな? 水原佳孝みずはらよしたかくん」

「気持ち? というかどうしてフルネームを――」

「きみ、第二外国語なんだったっけ」

「え、中国語だよ。知ってるだろ。ついでに言うなら聖花はスペイン語だ」

「じゃあ、問題出すね。アラビアータってどういう意味でしょうか。シンキングタイムは10秒あげよう」

「ってか、そもそもアラビアータは間違いなく中国語じゃな―――」

「じゅーう。きゅーう。はーち……」




 だめだ、なんだか人間と会話している気がしなくなってきた。



 仕方がなく、僕は残り少ない脳みそのリソースを食いつぶしながら考えを巡らせる。アラビアータか。辛いトマトソースだってイメージしかないんだけど。そもそもこれ、どこの国の料理なんだ。まともに考えたことなんか、これまでに一度もなかった。ソースをパスタやペンネにからめるのだから、イタリアだろうか。それがわかったからって、どういう意味なのかなんてさっぱり分からないわけだが。




「ゼーロ」




 なんの役にも立たないモノローグを頭の中で垂れ流したところで、シンキングタイムは無情にも終了した。さあさあ答えたまえよ、となぜか聖花は愉快そうだ。僕は少しばかり考えるふりをして、白旗をあげた。




「で、答えはなんですか。聖花さん」

「正解はですね。『怒り』です」




 あ、はあ。



 思わずそうやって口をついて出てしまって、それを聞いた聖花は「親に向かってなんだ、そのリアクションは」と怒ってきた。そもそも親じゃないだろ、という僕の反論は、急に引き寄せるようにハグをしてきた聖花に阻まれて、喉の奥に呑み込まれていった。




「……きみさあ、最近、無理しすぎ」




 聖花は言う。




「サークルの時から、いっつもそうだよね。全部一人で、自分でどうにかしようとして。全部抱え込んで、そのくせ指の隙間から全部こぼれてるのに、それでも誰かに『助けて』って言えないんだよね」




 僕は「そうだ」とも「そうじゃない」とも、結局は何も言えなかった。




 いま僕がいるプロジェクトは、炎上しかけて、というかキックオフ前から燃え上がることが最初から明白なプロジェクトだった。既にたっぷりの油がしみ込んだ木造の家に、めらめらと燃えるたいまつを持って踏み込むようなものだ。それでもそれが仕事だ、社会人としての責務だ……と諭されれば、たとえせいぜい2年目のペーペーでも、血気盛んに飛び込んでゆくようにできている。


 あれもやります、これもやります。自分がこの後やっときます。


 最近の僕の職場での口癖はそんなものだった。穴のあいたコップから零れた水を、再び穴のあいたコップで受ける毎日だ。気づいたらそんな毎日が、僕自身を少しずつ、消しゴムみたいにすり減らしていた。



 聖花は、顔を見せないままで言葉を続ける。




「ねえ。きみにとって、わたしといるメリットって、何なの」

「え?」

「きみが本当に辛いとき、寄りかかれない、頼りにならない、甘えられないわたしなら、要らないんじゃないの」

「そんなわけあるか」




 僕はさすがに、少し強めに言い返す。




「僕はいつも聖花に助けられてるよ。甘えられてる自覚はないのかもしれないけど、僕は相当に聖花のことが好きだし、溺れているに近いくらいだ。帰ってきたときに冷たい部屋が出迎えるだけの毎日なら、とっくの昔に荷物をまとめて実家に帰ってただろうな」

「だからこの場所を守るために、頑張ってるの?」

「そうだよ」

「身も心もさんざん痛めつけられて、それでも?」

「そうだ」

「本音」

「え?」

「だから、本音。はよ」

「今のが――」

「そんなわけない」




 聖花はそんな一声だけで、喉元をぐいと押さえつけたような感覚を、僕に味合わせる。いつもは少し高くて、歌うような声が、夜に沈んでいるように、低かった。




「ね、辛いなら、辛いって言ってよ。そこまで無理なんかしなくていいんだから」

「いや――」

「わたしには、きみが本当にどれだけ辛いのかなんてこと、いくらきみの話を聞いてもわからないんだ。結局わたしは、きみじゃないから。それはどれだけきみのことが好きでも、覆せない現実なの。どれだけがんばっても、わたしたちが全てを分かり合うことは、きっとできないの」

「……」

「でも、だからこそわたしは、きみのそばにいたい。全部わかることができなくても、限りなくその全部を分かち合いたい。素直にそう思ってる。……だから、できるだけ、言葉にしてほしいんだ」

「言葉に」

「好き。嫌い。楽しい。悲しい。小さなことでも、口に出して伝えてほしいんだ。わたしもそうする。無言でも通じ合う関係なんて、妄想の世界だけの話だから。わたしは、きみに『これくらい、恋人なら何も言わなくても察せよ』なんて言うつもりないからさ」

「……じゃあ逆にきみにとって、僕といるメリットって、何なんだ」

「へ?」




 そこでようやく、聖花は僕の腕の中で、顔を上げる。目尻がきらきらと光っていた。どんなに「泣ける」と評判の映画や演劇に連れていっても、瞳が潤むことすらなかったのに、聖花は今、涙を流していたらしかった。



 そんな顔をしながら、聖花はアンバランスに、ぽかんとした表情で言った。




「そんなの、きみのこと、好きだからだよ」

「それだけか」

「それ以上の何か必要なの?」

「いや、そういうわけじゃ」

「……ぷふっ」




 あっはは、と聖花は笑い飛ばした。今度は僕が呆気にとられる番だ。一体どうしたことだろう。さっきまで、バックでピアノのインストが流れていてもおかしくないような場面だったはずなのだけど。



 ひー、と余韻を少し引きずったあと、聖花はそろりと「好きな人じゃなきゃ、こんなこと言わないって」と呟いた。




「普段だったら、めそめそすんなら勝手に一人でいつまでもそうしてれば、って思うよ。でもわたしは、きみのことが好きだから。そんな人が悲しんだり苦しんだりしてるのに放っておくの、嫌だからね」

「……そういうものか」

「というか、もったいないよ。きみって本当はすごい人なのに、後ろ向きのままでいるのは」

「後ろ向き」

「確かに、今のきみを作り上げたのも、わたしたちが出会うきっかけもあの4年間だったけどさ。今はもう違う場所にいて、違うことをして生きてるんだから。過去を正解にするのはかまわないけど、もう通り過ぎた場所を人生のピークにしちゃだめだよ」

「……」

「きみには、そういうことができる力が、本当はちゃんと備わってるんだよ。きみが毎日を自己犠牲に費やしたりしなくても、いいの。過去じゃなく、いつだって今が一番楽しくて、輝いてるなーって思えるような毎日にしたいと思わない?」




 言葉が切れた。


 僕はなにも、言葉を差し挟まないで、続きを待った。




「……そして、できるならきみがそう思う毎日の中に、これから先もずっと、わたしのことも混ぜてほしいなー……って思う。それが、ずっときみを近くで見てきた、わたしの願いごと」




 ううむ。


 そう来たか。




 口にせず、僕は心の中で腕組みをしながら、少しの間、考えを巡らせる。





 僕は元来、こういう観念的というか、どこか絵空事のような話をする人のことを好きになることができなかった。そういう、どこか斜に構えて物事を見るクセみたいなものが、いつの間にか備わっていたのだと思う。



 けれど(こんな言い方をすると、きっと女の子は怒るから口にはしないが)、ただ恋人がひとりできただけで、そうした気持ちが少しずつ変わり始めているのは事実だ。


 僕は結局、非情になりきれなかった。どんなに冷めた、一歩引いた立場を気取ろうとしたって、青空を見たら気持ちは晴れやかになるし、恋人から甘い言葉やぬくもりをもらえれば、死んでもこの女を守らなければ……という気持ちになる。

 それは、人間がみな持ち得る「愛」という感情であって、自分にはそんな気持ちを抱く権利も機能もない……なんて、中学2年生男子が夜な夜な考えていそうなことを、僕はこの歳になるまで、ずっと勝手に考え続けていた。



 きっと、さっき聖花が言った「後ろ向きでいるのはもったいない」という言葉は、本当はそういうことを指しているのだろうと思う。

 ずっと前からそれを分かっていたから、聖花は、変わらずに僕の横に居てくれていたのだろう。




 もう少しくらい、自分の人生、自分の思うように泳いでいいんじゃない。



 口にこそしなかったけど、そっと、そんな言葉を添えられた。


 気がした。


 というか、きっとそうだろう、と思う。




 思わず、ふーん、という感嘆が唇の端から漏れていった。




「なに」




 もぞ、と聖花は僕の目線の高さまで頭の位置をずらしてきた。




「なんかございましたか、そこのお兄さん」

「……聖花ってさ」

「ん?」

「本当に僕と同い年なの。浪人とかじゃないよね」

「は? 現役だわ! このやろう!」




 聖花が、ゆるい握りこぶしで僕の薄っぺらい胸板を叩くたび、ぼこぼこ、と乾いた音を立てた。二人で笑いながら肩を震わせているとき、僕は久しぶりに、声をあげて笑っていることに気づいた。




 音はなくても、少しずつ、埃をかぶりはじめていた心が、輝きを取り戻してゆく。



 毎日が特別じゃなくても、いいことばかりじゃなくても、いま生きていることだけで十分なのかもなあ。



 なおも続く聖花の抵抗を胸で受けながら、僕はそんなことを考えていた。




 それでいいや。


 寝よ。




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アンサー 西野 夏葉 @natsuha

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