アンサー

西野 夏葉

第1話

 スカーレットに塗られた、丸ノ内線の電車を降りた。ドアが閉まって、再び走り出してゆくアルミの箱の中には、くたくた、うとうと、いきいき、色とりどりの顔がおさまっていた。

 仕事がある日に限って言うと、下手をすれば家で風呂に入っている時間よりも長く、僕はこの電車に揺られている。だからか、妙に落ち着いてしまうのがいけない。途中で記憶をなくして、知らない間に終点に着いていたことは、一度や二度ではなかった。うとうとどころじゃない。ぐうすか、という方が正しいだろう。




 東高円寺ひがしこうえんじ駅の出口から這い出て、すぐ隣にある蚕糸さんしの森公園の中を、僕は家へ向かって歩いた。社会人になって2年ほどが経ち、もう何度ここを歩いたかを考えようとするだけでも、うんざりする。陽が完全に落ちる前に、職場からの帰宅のためにここを歩けたことなど、ほぼない。スズカケの枝葉の隙間を縫って降り注ぐ、月の光を浴びながら帰ることがほとんどだった。

 そして朝は、公園のそばにある小学校の子供たちよりも早く、この場所を歩いて駅まで向かっている。家を借りるのがあほらしくもなるけれど、それでも自分がありのままでいられる場所を持っておくのは大事だと、最近はよく思った。




 僕は高校を卒業したあと、大学生活という4年間のクッションを置いて、社会人の仲間入りを果たした。その4年間は何物にも代え難い大切な時間だった。

 今もやりとりをする友達はほとんどこの4年間に出会った連中だし、やっていることが同じ学業ということであっても、一番色濃く思い出に残ったのは大学での4年間だったし、それはこれからもずっと変わらないのだろうと、卒業の日に学位記を受け取った時になんとなく感じたのは、まだ記憶に新しい。



 けれど、あんなにも強く輝いていた日々の記憶が、最近になって少しずつ、少しずつ、光を失くしてゆくのがわかるのだ。あの頃は楽しかったなあ、くらいならよくあることだ。あの頃と比べて、今はなんて辛いんだ。そう思うからこそ、いま、苦しいのだ。たいしたこともしてないのに、たいしたことをした気になって、それでも周りがちやほやしてくれていたあの頃と今では、明らかな違いがある。


 親に学費を出してもらったり、はたまた将来の自分に債務を負わせて4年間は遊ぼう……ということだったり、僕たちは金を払う対価によって、あの日々を色づけていたと言ってもいい。けれど今は、仕事をした対価として、給料を受け取る。当然仕事をしなければ給料はもらえないし、そうすると食べていかれない。だからどれだけ嫌でも、虚しくても、耐えしのがなければならない。年に何度かの試験だけパスすれば、自分の居場所を守ることができていたあの頃とは、違う。そう思えば思うほどに、僕は一番大切だった時期に一体何をしていたんだ……と思ってしまうのだ。





 僕は一応、そこそこ名の知れた大手企業に滑り込むことができた。大企業がどこもかしこも労働環境は真っ白けかと問われれば、明らかな嘘だ。つまりは僕が入った会社は、嘘をつく方の会社だったのである。それでもまだ、残業代がしっかり出るだけマシかもしれない。だが、僕は金なんかちょっとあればいいから、まともな時間に家に帰りたかった。けれどそれはどうも、向こう数十年は叶いそうもない願い事だった。




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「おかえり」




 間抜けなことに家の鍵を忘れていったので、マンションに着いて、部屋のインターホンを鳴らした。これが独りぼっちだったらどうするつもりだったのかは甚だ疑問だけど、不幸中の幸い、僕には同居人がいた。吉村聖花よしむらきよかは、僕と同棲を始めて、まもなく1年ほどになる恋人だ。会社は違うけれど同じく東京に出てきた僕らは、もともと同じ大学の同級生で、まるで夜が明けるように自然に恋人同士になった。

 ……というのは比喩であって、僕がどうしても毎日聖花のことばかり考えてしまうことに気づいて、思い切って清水の舞台からダイブするような気持ちで告白をしたら、聖花が「いやあよかった。いっそ早くこうなったらいいなあと思ってたんだ」なんて、ずいぶんとのんびりした返事をしてきたのだった。




 聖花はドアをひょいと開けてから、僕が、後ろ手でドアの鍵を締めるまで待っていた。まだ部屋着に着替えていないところをみると、聖花もついさっき帰ってきたところだったのだろう。思いながら、僕は、鍵を締めたとたん自分の胸板の辺りに抱きついてきた聖花の髪をなでる。なぜだか、そうすると、少しばかり気が楽になるのだった。

 あたたかい陽の光を浴びて、縁側で猫でも抱いているような気持ちになりながら、僕は訊いた。




「聖花、いま帰ってきたの?」

「んーん、1時間くらい前? 今日はちょっと残業したからね。すぐ夕飯の準備してた」

「お疲れさま」

「ふん。きみのほうが疲れてるくせに」




 そうこたえた聖花は、なぜかむくれていた。確かに僕は疲れているけど、それはどっちも同じことのはずなのに、不思議なこともあるものだ。

 大喧嘩こそないものの、ちょっとした小競り合いは、たまにある。それでも、いつまでも引きずらないで割とすっぱり仲直りできるのは、僕らふたりのいい武器になると思う。

 どこで使う気だ、という突っ込みが頭をもたげてきたものの、自分自身に知らないふりを決め込むのは、僕は比較的得意な方だった。




 さってと、と気合をいれるように言った聖花は、キッチンのほうへ駆けてゆく。トマトソースのにおいがした。パスタでも茹でるのかな、と当たり障りのない推測をしながら、僕はネクタイを緩めつつリビングへ向かった。




 そして予想通り、今日の食卓に並んだのはアラビアータだった。


 おいしかった。




 なんか、むちゃくちゃ辛かったけど。



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