第63話 お前って呼ばないで。今度は本気だから
文化祭の後片付けも粗方終わって、閑散とし始めた中庭で、初めて『放課後ボカロッカー』を聞いたときのことを思い出していた。
ベンチにポツンと置かれたスマートフォン。そこから流れる音楽。今でも目をつぶれば、聴こえてくる旋律。歌声。
しかし、俺の脳内で流れる歌声は、いつの間にかあの日の歌声とは違うものになっていた。ステージ上で聴いた──、そして一緒に演奏した月華の歌声。情緒にあふれ、抑揚を付けて俺たちに寄り添うように歌う月華の声は、人間と変わらない説得力を持っていた。
あれはどういうことだったのだろう。
それまでに聴いていた月華の歌声とは明らかに違っていた。直前になって、千冬が打ち込みをし直したのだろうか。
今にして思えば、あれも俺たちを動揺させ、演奏をトチらせかねないものだった。だとすれば、あれも千冬が予告した『ライブを失敗に追い込んでしまうかもしれないハプニング』に含まれていたのかもしれない。
「いいニュースと悪いニュース。どちらから訊きたい?」
突然聴こえた
「またそれですか?」
振り返りながら言うと、佐々木先生は「何か文句が?」と無表情で返す。怖いから、それ以上は突っ込まない。
「じゃあ、いい方のニュースを」
渋々そうオーダーすると、佐々木先生はほんの僅かに口角を上げる。いつもの不気味な笑顔。
「ロミ研の存続が正式に決まった」
声の調子は淡々としていた。
「えっ……。本当ですか!?」
思わず前のめりになってしまう。自分でもこれほど嬉しいとは思っていなかった。
「本当。さっき理事長から直々に言われた。君たちのライブは大変盛況だった。この短時間に内外から反響とともに、ロミ研を廃部にしないよう頼む嘆願書が理事長の元に届いたらしい」
良かった、とシンプルにそう思った。もちろん仮に廃部になったとしても、俺たちがバラバラになることはない。そう確信したのは本心だ。それでも、学校に居場所があるというのは何物にも変え難い。
「それで……悪いニュースっていうのは……?」
「これほどの反響を生むなら、そのロミ研を最大限使ってこの学校の宣伝をするように、と言われた」
「それのどこが悪いニュースなんです?」
「私の仕事が増える」
先生は白衣のポケットに手を突っ込んで、また不気味に笑った。
そして、「そういうわけで、私は忙しい。みんなには
安堵が薄れ、嬉しさだけが残る。自然と笑みが溢れた。
「何一人で笑ってるの?」
振り向くと千冬が立っていた。
「一人で笑ってたらダメなのか?」
精一杯虚勢を張る。千冬は何がおかしいのか、クスクスと肩を震わせていた。
「そんなに驚かなくても。別に悪くはないけど。傍から見てて、気持ちのいいものではないよ。それに、私は以前、
「俺はそんな失礼な物言いはしないぞ」
「はいはい。分かった分かった。それで、なんで笑ってたの?」
「あぁ。ロミ研。廃部にならなくて済むってさ」
「それ、本当?」
千冬はさっきの俺と同じような反応を示す。
「佐々木先生から聞いた。佐々木先生は、理事長から直接言われたらしいから間違いないだろ。あの人が嘘をつくとも思えないしな。ロミ研を使って学校の宣伝をしろって言われたらしい。実に光栄なことだな」
冗談めかして言うが、千冬はクスリともしない。「そっか」とだけ言った。
「まぁ、佐々木先生は、仕事が増えるって嘆いてたがな」
「
千冬はそう言って、今度は呆れたように笑う。
「お前な。仮にも一応は、たぶん、きっと、おそらく、先生だぞ? 『百合葉ちゃん』はないだろ。失礼だぞ」
「なにそれ。如月くんの方がよっぽど失礼だよ。──ていうか、お前って呼ばないで」
不意に千冬の雰囲気が変わる。
「……お前って、呼ばないでよ」
もう一度、今度は弱々しくそう言った。
何度も言われてきた言葉だ。けれど、いつもとは様子が違っていた。いつもなら、一応言っておくが、結果は期待していない、そんな雰囲気のある、言うなれば形式ばったものだった。しかし、今のはそうじゃなかった。
本当にそうしてほしい。切にそう願っているのが分かった。
こんな風に言われてしまうと、いつものように流してしまうことはできなかった。
「でも……。じゃあ、なんて呼べばいいんだよ」
実に情けない声が漏れる。
「そ、そんなことは、自分で考えてよ。好きに呼んでもいいけど、お前はダメ」
「何でだよ。好きに呼んでいいなら、お前でもいいだろ?」
「お前はダメ。ダメなの」
「なんだよそれ。ワガママなやつだな」
何となく苦手な雰囲気になりつつある。空気を変えようと若干大袈裟に冗談めかして呆れたそぶりを見せるが、千冬はそのまま真面目な顔で応えた。
「そうだよ? 私はワガママなの。音楽にだって妥協はできないし。今日の演奏だって。ライブ自体は上手くいったけど、サビのところで如月くん、フレーズ。一個飛ばしたでしょ?」
「ぐぬっ……。細かいことはいいんだよ。少しは妥協しろよ」
「できないよ。妥協なんて、できない」
自分に言い聞かせているようだった。同じ陰キャだからだろうか。千冬は今、自分を奮い立たせているのだと分かる。
「――ねぇ?」
「な、なんだよ」
ありったけの勇気を振り絞ったように言う千冬に、俺は気圧されていた。だから、次に続く言葉にあまりにも無防備だった。
「私たち、今日から付き合ってるってことでいいんだよね?」
俺と千冬、二人だけの中庭にザザッと強い風が吹く。目の前の千冬は、節目がちに風に吹かれていた。黒い髪が風に流されてなびく。
千冬は顔にかかった髪を丁寧に指でかきあげる。黒い髪の向こうに消えた節目がちな瞳が、次に現れた時には真っ直ぐに俺だけを見ていた。
「おまっ……ちょっ……なにを……」
無防備だった俺は、完全に動揺してしまった。整理のつかない頭で、千冬の言ったことを必死で噛み砕く。
「だって、如月くんは私のことが好きって言ってくれたよ? 私も如月くんが好き。今日、そう言った。お互いに好きと言い合った男女は、付き合っているという状態になるんでしょ? でも──」
千冬は、俺の頭が追いつくのを待つかのように言葉を切った。そして、俺の頭をさらに混乱させるようなことを言う。
「でも、如月くんがさっき言ったように、私はワガママなの。どうしようもなく頑固でワガママで素直じゃないの。そんな子は……やっぱり嫌い?」
「そ、そんなことは……ねぇよ」
嫌いだなんてことはない。かろうじて、それだけを言うことができた。
「それじゃあ……付き合ってるってことで……いいんだよね?」
「あ、あぁ……。まぁ、お前が構わないというなら……俺もやぶさかじゃないというか……。お前が彼女だったら……その……嬉しい……というか」
我ながら、しどろもどろもいいところだ。
自慢じゃないが、俺はこういうシチュエーションに慣れていない。恥ずかしながら、生まれて初めてのことだ。
誰に言い訳するでもなく、自分自身に言い聞かせる。千冬はちょっとアレだから、こういう物言いになるだけなんだ。落ち着け、落ち着くんだ、俺。
慌てふためく俺の前で千冬は、頬を膨らます。
「付き合ってるのに『お前』なんて嫌なの。だから、お前って呼ばないで。今度は本気だから」
「す、すまん」
素直に謝るも、千冬は頬を膨らませたままだった。「どうするの?」とその目が訴えている。
「もういいから行くぞ? ほら──」
すこしの時間も目を合わせていることができず、誤魔化すように千冬に背中を向ける。
「いくぞ――、千冬」
意を決して言うと同時に千冬に向けて右手を差し出した。照れ臭すぎて、顔をまともに見ることはできなかった。
まだ、頬は膨らんでいるのだろうか。
「──うん!」
そのまま固まっていると、弾むような声がして、すぐに千冬の体温が俺の右手に伝わってくる。雪のように白い肌には似合わない、熱い千冬の体温。
また、ザザッと強い風が中庭を駆け抜ける。けれど、全神経を右手に集中している俺には、風の感触なんか少しも感じることはできなかった。
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