第58話 お前の曲は、俺にめちゃくちゃ響いたんだ
「……ありがとう」
千冬は、今度はしっかりと俺の目を見て礼を言った。瞳はまだ潤んでいたが、もう泣いてはいなかった。
「あの……さ。思った……っつーか、思ってたんだけどよ……」
「──ん?」
千冬に触れてしまった気恥ずかしさが拭えない俺と、それを全く意に介さないいつもどおりの千冬。千冬が変に意識した素振りを見せないおかげで、俺も段々と普段どおりの自分を取り戻していく。
「勝つ必要なんか、ないんじゃないか?」
「……えっ?」
千冬は、何を言われているのか分からないといったふうに声を漏らす。
「いや、お前、お姉さんに勝てないとか、ボカロじゃ本物の人間に勝てないとか、自分の曲じゃ軽音部には勝てないとか……。ずっと勝てない勝てない言ってるがな、そもそも、音楽に勝ち負けなんかあるのか? お前にとって、音楽は誰かと競うためにあるものなのか? 音楽ってもっとこう……違うだろ。音楽って、誰かと繋がるためにあるもんなんじゃないのか? 音楽を勝ち負けのツールにしちまうと、誰かと対立するためのものになっちまうだろ? 上手く言えないけど……それは、違うんじゃないか?」
今までの千冬の発言。公開オーディションのこと。その二つが俺の頭の中をぐるぐると回る。ぐるぐると回るそれらを捕まえられないまま、胸に宿る思いを千冬にぶつけていた。
自分でもどうしたいのかよく分からなかったが、千冬にどうしてほしいのかははっきりしていた。音楽で勝っただの負けただのにこだわることがどういうわけか許せなかった。
千冬は何かを考えるように黙っている。
そして、
「お前って呼ばないでってば」
と思い出したように言った。それからまた少し黙って、またおもむろに口を開く。
「誰かと繋がるための……ツール……?」
俺が言ったことを噛み締めているようだった。
「そうだ。現に、紆余曲折はあったにせよ、俺とお前が知り合って、こうやって話せてるのも音楽のおかげだ。音楽がなければ絶対にありえない。ロミ研の他のメンバーと仲間になれたのだってそうだ。自分で言うのもなんだけど、ぶっちゃけ全員陰キャで、癖の強い俺たちが集まって、毎日放課後一緒になって一つのことに打ち込んでる。奇跡みたいじゃないか。これって、音楽のおかげだろ?」
「──でも、音楽には誰かを勇気づけたり、誰かの背中を押したり、誰かに寄り添ったり……。そういう力があるでしょ?
意図することは不明だが、言っていることは正しいと思ったので黙って頷く。
「音楽には力がある。力っていうのは、どうしたって強弱ができてしまうものでしょ? 例えば、私の創る音楽で救えない人が、お姉ちゃんの音楽では救えるかもしれない……ううん、きっとお姉ちゃんの音楽は私には想像できないくらいたくさんの人を救えている。お姉ちゃんの音楽には、私なんかの音楽より多くの人を救う力がある。これが勝ち負けじゃなかったら、なんだっていうの?」
千冬は淡々と告げた。感情を表に出さないよう努めているようだった。
けれど、俺には千冬が心の底では否定してもらいたがっているように思えた。だから──、
「お前は馬鹿か!」
と短く、しかし強い口調で言う。
突然の罵倒にポカンとしている千冬に向かって、続けて自信満々に言ってやる。
「お前は、犬と猫どっちが可愛いか、なんて議論に意味があると思うか? そりゃ、犬に癒されたいという人もいれば、猫に癒されたいという人もいるだろうよ。それで犬の方が優れているだの、猫の方が優れているだの、そんなことを考えるか? どっちも可愛いっ! それでいいだろ」
「い、犬……ね……えっ?」
突然罵られたからか、それともあまりにもくだらない屁理屈だからか、千冬は困惑しているようだった。
「──同じなんだよ。一口に音楽って言ったって、ロックだったりヒップホップだったりカントリーだったりクラシックだったり……。色々だろ? さらに、ロックっぽいヒップホップだの、全部詰め込みましたみたいなポップスだの、境界線なんかどこにもないんだ。お前はそこにいちいち勝手に線を引いて優劣をつけるのか? それなら、そんな作業は、はっきり言って不毛だ。ただ、楽しめばいいんだよ。楽しめなくしているのは、お前自身だぞ。それに、お前の曲は、俺にめちゃくちゃ響いたんだ。それだけでいいじゃねぇか! 何人に響いたかとか、だれかの曲より多くの人を救ったとか、その結果だれの曲に勝っているとか……。そんなことは知ったこっちゃない。間違いなく俺という一人には確実に響いたんだ。そんな曲を作った本人が、勝ってるとか負けてるとか、納得いってないとか、そういうこと言うなよ。俺はお前があの曲を作ってくれて本当によかったと思ってるんだぞ」
「でも……」
まだ、ごちゃごちゃ言おうとする千冬に向けて、最後に本当に俺が言いたかったことを、「お前の曲が好きだ」と告げようと顔を上げる。
千冬とまともに目が合った。これから俺が言うことを受け止める。何を言ったとしてもそれを否定せずに聞き入れる。無表情であるにも関わらず、千冬の黒く澄んだ瞳はそんなふうに見えた。
目が合った瞬間から千冬の黒い瞳とは対照的に、俺の頭は真っ白になっていく。そして、俺自身も自覚しない感情が真っ白になった頭に色を付けていった。
そして、次の瞬間。
「──俺は、お前が好きだ」
言ってしまってから、ドキッとする。俺は何を言っているんだ。
自分でも突然すぎて、訳が分からなくなる。あくまでも千冬の創る曲、音楽のことを伝えたかったはずなのに──。だが、本心じゃないとも言い切れない言葉だった。そのせいで、飛び出した言葉をすぐに打ち消すことができない。
まごついている間にも、俺の言葉は千冬に届いてその黒い瞳に吸い込まれていく。咄嗟に目をそらす。これ以上見ていたら、俺のすべてを吸い出されてしまうように思えた。
それでも──、と思って視線を戻すと、普段あまり感情を表に出さない千冬の表情がみるみるうちに変わっていく。それは静かな水面に波紋が広がっていくようだった。そして、水面の下に潜んだ淡い色が浮かんでくるように千冬の頬がゆっくりと紅潮していく。
「………………ありがとう」
たっぷり、間をとって千冬はそう告げた。
今まで聞いたどの声よりも柔らかく穏やかだった。
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