第57話 黒く滑らかな髪の毛越しに

 あの日──、公開オーディションを見に行った日以来、部室に現れない千冬ちふゆだったが、教室ではいつもどおりだった。だが、もともと教室での千冬は、幽霊みたいに存在感を消している。具合が悪そうだとかそういう様子はないが、それ以上のことは分からなかった。


「部室。来ないのか?」


 この一声が、かけられなかった。教室の外では、自分でも驚くほど自然に話しかけることができるのに、教室ではそれができなかった。


 唯一、千冬の連絡先を知っているタムは様子を尋ねるメッセージを送ったようだが、無視されていた。タムは、「きっと色々考えがあるんだよ。信じて待とう」と言って、しつこくメッセージを送ることはしなかった。

 フリーが俺たちの教室まで押しかけてこないのも、タムの意見に倣ったからだ。意外にも、フリーはタムのそっとしておこうという意見に諸手を上げて賛成していた。


 俺はというと。このままではまずいような気がしていた。このままでは千冬が俺たちの仲間ではなくなってしまうような気がしていた。

 根拠は公会堂で見た、どこか思いつめたような白い顔だ。


 放課後になると、どうしても千冬の動きが気になってしまう。こっそりと視線を送ると、一人で黙々と帰り支度をしている。そして、俺には一瞥もくれずに教室を出て行ってしまった。この日も部室に向かうことはないのだろうと思う。

 もともと一緒に移動したりはしていなかったくせに、去っていく背中を見るとなぜだか喪失感があった。

 ここ数日、俺たちロミ研は、千冬の来ない部室で千冬の作った曲『放課後ボカロッカー』を千冬に言われたとおりの方法で練習していた。今日もそうなるのだろうと思うと、胸のあたりにモヤモヤとした不快感が表れる。かきむしりたくなる。そんなどうしようもない不快感が千冬を探そうという気にさせた。


 公開オーディションを見て、千冬が何を思ったのかは分からない。俺はデス・サスペンデッドの演奏を単純にすごいと思ったし、圧倒された。けれど、千冬は違うのだろう。あの顔は、決してポジティブなものではなかった。

 千冬は俺なんかよりずっと、音楽に明るい。悔しいが、それは認めざるを得ない。

 そんな千冬があの演奏を聴いて、俺と同じような感想を持つことはないのかもしれない。案外、大したことないと思ったのかもしれない。部室に来ないのは別の理由からかもしれない。

 あるいは、そんな大したことない演奏に圧倒されている俺を見て「その程度なのか」とがっかりしたのかもしれない。その可能性がゼロかと言われたら、そんなことはないように思う。


 けれど──。


『あの子を頼んだよ』というリサさんの声が、突如頭の中で響いた。


 ──そんなわけないだろっ!


 という俺自身の心の声が続いて聞こえる。どちらも無意識に俺の脳が再生した声だった。

 ゆっくりと目を閉じると、落胆し、思いつめた表情の千冬が瞼の裏に映る。そこには何かを期待する感情は微塵もない。


 気がつくと、俺の足は中庭に向かっていた。

 初めて『放課後ボカロッカー』を聴いた場所。千冬から姉のことを聞いた場所。千冬が、実はロックが好きなのだと知った場所。

 その中庭に千冬はいた。両手で包み込むように持ったスマートフォンを見つめながらベンチに座っている。


「なにしてんだ?」


 自分でも驚くほど自然に声をかけていた。教室ではできなかったことが、すんなりできてしまう。少し間を空けて、千冬が顔を上げる。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。今にも零れ落ちそうな涙に千冬の大きな瞳は濡れていた。


「な、なんだ? 泣いてるのか? なにか、あったのか? 誰かに何かされたとか──……まさか、不審者じゃないだろうな」


 思いがけない千冬の涙に動揺してしまう。せっかく上手く話しかけることができたのに、台無しだ。

 取り繕うように辺りをキョロキョロ見回す。そんなことをしなくても、ここには俺と千冬しかいないと分かりきっているのに。


「ちがうよ。ちょっと……ね」


 そう言って、涙の浮いた目でぎこちなく笑う。泣いてること自体を否定することはしなかった。


「ちょっと? ちょっと、なんだ? ちょっと……お腹でも痛いのか?」


「お腹? お腹は痛くないよ」


「──ごめん」


 あまりに真面目に返されたものだから、反射的に謝ってしまう。千冬は僅かに首を傾げながら、また視線を手元に落とした。


「……ショックだった」


 少しの沈黙の後、再び口を開いた千冬は震える声で短くそう告げた。


「そうか」


「何が?」とは訊かなかった。

 千冬に話す気がなければ、いくら訊いても話してはくれないだろう。見るからに傷ついている目の前の千冬にそれを訊くのは、傷口を抉る行為に思えた。

 そして、訊かなくても今がそのときなら千冬は話してくれるだろうとも思った。

 再び沈黙が訪れる。

 千冬は下唇を噛んで必死で何かを堪えているようだった。それが次第に緩み、やがて


「やっぱり……私の曲じゃ、軽音部には勝てない。勝てないよ。あのボーカル。あれは本物だよ。見学したときとは全然違う。当たり前だよね。別人なんだから。あんな芯の通ったボーカルに月華では絶対に勝てない。勝てるわけがない。私の曲では、軽音部に勝てない。ロミ研は廃部になっちゃう。私のせいで。私の作る曲がダメだからっ! ロミ研が無くなっちゃうっっ!!」


 次第に語気が強くなり、しまいには叫ぶようだった。前触れもなく、堰き止めていたものが壊れ、千冬の目からはとめどなく涙が零れ落ちる。

 かける言葉を見つけることができない俺は、無意識に千冬の頭をそっと撫でていた。黒く滑らかな髪の毛越しに千冬の熱が感じられる。雪のように白い肌からは、想像できないほど熱い千冬の体温。


 咄嗟に撫でてしまったものの、すぐにとんでもないことをしているのではないかと思い始めた。自分自身の無意識下の行動に、ただただ驚いていた。意識していたら絶対にしないし、できない。

 そして、困ったことに、この後どうしたらいいのかが分からない。普段のように「何してるの? その汚い手をどけて」とでもクールに言ってくれれば、手を離すキッカケにもなったのだろうが、その気配はない。

 千冬はただ黙って俯いている。頭越しに涙がスマートフォンを濡らすのが見えた。


 頃合いを見て、そっと手を離せばいいのかもしれない。だが、頃合いっていつだ? 手を離してしまったら、千冬の頭を無許可に撫でたという事実が確定してしまう気がした。

 “撫でる”以外の行動に移るのが怖かった。


「──ありがとう。もう大丈夫」


 手首から先以外、固まってしまった俺の体を動かしたのは、情けないことに結局千冬の言葉だった。

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