第17話 心からのありがとうを伝えたくて
「──なに?」
振り向いた
さっきのしおらしく、どこか愁いをおびた姿は、幻だったのではないかと思えてくる。だが、耳にこびりついて離れない「ありがとう」という声が、それを全力で否定していた。
「いや……。なにってことはないんだけど……」
ノープランで肩を叩いてしまったものだから答えに窮する。それでも千冬は、一応、立ち止ってくれた。
俺たち二人を気にすることなく、佐々木先生とフリーはどんどん先へと進む。タムだけは、一度ちらりとこちら——、主に千冬を一瞥したが、何かを言うでもなく先を行く二人に遅れて階段を降りて行った。
俺は、数段の間隔を開けて千冬と向かい合う。あまり背の高くない千冬は、普段以上に上にある俺の顔を、見上げるようにして立っている。
「なに? なにか用があるんじゃないの?」
相変わらず素っ気ないが、辛抱強く俺の答えを待っている……ように見えた。それならば、と勇気を振り絞って
「さっき……ありがとうって言わなかったか?」
「…………言って、ないよ」
真っ直ぐ向けていた視線。それをゆらゆらと泳がせ、そしてはっきりと逸らした。ノーと答える言葉とは裏腹に、態度がイエスだと雄弁に物語っている。
「嘘つけ! フリーの大声に紛れて、油断したら聞き逃すところだったぜ。けど、数々のロックを聴きこんできた俺の耳を舐めてもらっては困るな。確かに聴こえたぞ? 『如月くん、ありがとう……』って」
声真似を交えて、茶化すように言ってみるも、千冬は目を逸らしたまま黙っている。
「なぁ……。なにか言ってくれよ。リアクションがないとさすがに恥ずかしい」
降参の意味も込めて両手を小さく上げると、千冬は観念したようにクスッっと笑うと、逸らした視線をゆっくりと戻した。
思うに一度ノーと答えたのは、千冬なりの冗談なのかもしれない。悪いが、全く面白くはない。
「言ったよ。ありがとうって」
「やっぱりか。あれは、どういう意味なんだ?」
目と目がまともに合う。
「どういう意味って……? 如月くん、まさか『ありがとう』の意味を知らないの? それは、言われたことがないから?」
「いやいや。さすがに言われたことくらいあるわ!!」
「それは本当に? 意外……」
失礼すぎる言葉に文句をつけようと思ったところで、微かに微笑んでいた顔を真顔にして、間髪入れずに千冬が続ける。
「それじゃあ、『ありがとう』と、心から誰かに言ったことは?」
そこで会話のキャッチボールが途切れてしまう。ボールは俺が持っている。だが、すぐに投げ返すことができなかった。
もちろん、俺だって「ありがとう」と言ったことくらいはある。でも、それが心からだったか? と問われると即答できなかった。
誰かに「ありがとう」と言うときに、それが心からかどうかなど意識していない。ただ漠然とそう思ったから口をついて出た、というのが正確なところだ。心からだったこともあるだろうし、そうじゃないこともあっただろう。
だから、俺が返球を躊躇しているのは、過去に数えきれないほど口にしてきた「ありがとう」が、心からだったかどうか悩んでのことではない。そんなことは、正直どうだっていい。なんなら、「当然だ!! 全部心からだったぞ」と胸を張って返球することだってできる。
すぐに返球できないのは、今まさに心から伝えたい「ありがとう」を胸の中に抱えているからだった。
「自信がなかったの……」
いつの間にか俺からボールを奪った千冬が、いつになく重たい変化球を投げてくる。
「自信? なんの話だ? ありがとうの話じゃなかったのか?」
「ありがとうの話だよ。如月くんの質問に答えるなら、『自信になるような言葉をくれてありがとう』って伝えたかったから、になるのかな」
「ハッキリ言って、全く心当たりがないんだが……。俺、そんな言葉あげたか?」
本気で思い当たることがない。
「くれたよ。その自覚がない分、むしろ、本気で言ってくれたんだと思うと余計に自信になる」
「その自信ってのは、あの曲に関係あるんだよな?」
千冬は、静かにうなずく。
「私の作った曲で、誰かの意識をポジティブに変えることができるんだって分かったから。しかも、私を私と認識していない人にそう思ってもらえたのが嬉しかったし、自信になった。だから、心からのありがとうを伝えたくて。その相手が如月くんなのは、大いに
「それはもう手放しで褒めてやるよ。あの曲はすごい!! 俺が知ってる曲の中でも割と上位に入るな。まぁ、俺もあの曲をお前が作ったとは思わなかったし、
売り言葉に買い言葉。千冬の嫌味に嫌味で返す。受けた嫌味には、不思議と不快感はなかった。それはどうやら千冬も同じようで。
「上位……なの?」
口をとがらせて不満そうにしているところを見ると、なぜ一位じゃないのだとでも思っているのだろう。
「
「プロだけど?」
平然と即答する千冬に一瞬言葉を失う。その間隙を縫うようにして、千冬は恥ずかしそうに続けた。
「けど、自信がないっていうのは、何もあの曲に関することだけじゃないの。自分に自信が持てないっていう意味では、あらゆることに自信がない……かな」
「そんなもん、俺もだ。自慢じゃないが、俺には自信があることなんて一つもないぞ」
「あれ? ロックには、自信があるんじゃないの?」
「それは……。そうだけど……。つーか、自信がないのなんてみんなそうなんじゃないのか?」
「
言われてみればそんな気がする。よく言えば天真爛漫、悪く言えば傍若無人なあの振る舞いは、自信があるからこそだ。
「言われてみれば……。まぁ、あいつは特殊だろう……」
なぜだかもう一人、自信にあふれた特殊な男の姿が脳裏に浮かぶ。その変態の姿を振り払うようにして、もう一つ、千冬に確認したかったことを投げかける。
「そういえば、ロミ研はどうするんだ?」
「どうするって、なにが?」
「残るのか? とりあえず、部の存続は決まったわけだし、佐々木先生の罰ゲ……もとい、指導は、終わりっちゃ終わりだろ? それならもうロミ研に残る意味はないんじゃないか?」
どういう風の吹き回しだろうと自分でも思う。千冬が抜けたら、結局また部員が足りなくなってしまう。廃部を避けるためには、さらに部員を集めなければならなくなる。
「そうだね。指導は終わりかも。だけど、ロミ研には残るつもりだよ」
「いいのか? 無理に残らなくてもいいんだぞ? まぁ、部員が減って、また廃部の危機に陥るのは困るけど……。でも、フリーもタムもいるし、なんとかなるだろ」
客観的に見ても、俺がそこまで千冬のことを気に掛ける理由はない。千冬もさぞかし気持ち悪がっていることだろう。あるいは、出て行って欲しがっているように映っているかもしれない。
「田村さんは、私が抜けたらいなくなっちゃうんじゃない?」
なかなか痛いところをついてくる。千冬が部長だから入部した、と公言するタムが、千冬のいないロミ研に残るとは考えにくい。
「それは……全力で引き留める!! ドラムを叩けるってのは貴重な戦力だからな」
「そっか。でも、う~ん……。やっぱり、私はロミ研に残るよ。田村さんにも悪いし、それにボカロミュージック研究会に変えるっていう野望もあるし」
照れ隠しのような千冬の軽口を無視して伝える。
「そうか……。その……ありがとうな」
初めて千冬に対して、素直に心からの言葉が言えた気がした。そこには、あの歌声を聞かせてくれたこと、自分を変えようと思う後押しをしてくれたあの歌声と曲を作ってくれたことへの感謝も含まれている。だが、そんな細かい事情はもちろん、千冬には伝わっていないはずだ。
そんな俺の勝手な事情を知らない千冬は
「どういたしまして」
と、眉間にしわを寄せ、怪訝な表情を浮かべながら答える。
千冬にそんな表情をさせないために、もっとしっかり理由も含めて理解してもらった上で、感謝の気持ちを伝えたい。でも、今の俺にはこれが精一杯だった。
今のところは、礼が言えただけでも自分に起きたポジティブな変化だと考えたい。
千冬は、ロミ研に残る。
ということは、ロミ研の活動に参加する限り、嫌でも顔を合わせることになるということだ。それならば、もっとしっかり礼を伝える機会がいずれ訪れる。いや、いつだってその機会になりえる。
あとは俺次第だ。
肝心のところでやっぱり陰キャな俺は、無責任にも未来の自分に期待するのだった。
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