この日は、江戸時代においても長閑な時間が過ぎていた。秀之進と二人、ノンビリと道行く人々を眺めながら、菊乃は「うん・・・」と伸びをした。

 楽し気に語らいながら過ぎて行く人。何か深刻そうな面持ちで歩く人。何処かに急いでいるのか、早駕籠に乗った裕福な人。重そうな大八車(荷物運搬用の二輪車)を牽く人。それぞれが、それぞれの生活を背負って、必死に生きている。その中には勿論、重右衛門と秀之進の親子二人家族も含まれているのだ。

 農作物の豊穣は化学肥料やバイオテクノロジーにではなく、八百万やおよろずの神に祈りを捧げることで享受できるものだ。石油燃料を使った動力を得る内燃機関も無ければ、最新のエレクトロニクスを駆使した通信機器も無い。高度な数学に裏打ちされた人工知能も無ければ、世界を揺るがすようなグローバル経済の欠片も存在しない。星は愛でたり願を掛けるものであって、決して訪れる所ではない。そんな時代なのだ。

 それでもそこには、様々な庶民文化が ──令和の時代には忘れ去られてしまったものも多いはず── 息づいている。和服を着て日本髪を結い、街には棒手振ぼてふりの物売り(てんびん棒の行商人)の声が響く。現代であれば銃刀法違反でたちどころに身柄を拘束されるであろう殺人兵器、日本刀を腰に据えた侍たちが闊歩する社会。こんなにも荒々しくて血なまぐさく、それでいて心が和んで魅力的な世界が、あと百年も経てば跡形も無く消え失せてしまうなんて、時間とはなんと無慈悲なものなのだろう。その時を超えて過去と現在の橋渡しを行い、その両者の安定を図ることこそが、自分たちが密かに成している裏稼業なのだ。そんなような感傷が菊乃を包んでいた。

 そんな彼女の心持ちも知らず、秀之進が悩み事を打ち明けた。

 「渋谷のおじさんが、自分が作る菓子には、自分だけの独自の発想を取り入れろって言うんだ・・・」

 秀之進が作った鶯餅うぐいすもちを食べながら、菊乃はそれを聞いていた。秀之進には才能が有ったのだろう、彼の作る和菓子はなかなか上等で、最近では菊乃が働く茶屋の看板商品になりつつあった。今はお茶請けとして提供する形の「甘味処」のような営業形態だが、いずれ彼が和菓子本舗として店を構え、独立するのは時間の問題だ。それは拓海から聞いた歴史の一部でもある。

 今となっては、秀之進のお仕着せ(丁稚奉公の子供が着る前掛け。当然ながら、武家の子供が着ることは無い)姿も堂に入ったもので、何処から見ても町人の子だ。時代は着実に変わりつつあった。

 「おとっつぁんが? 独自の発想だって?」

 茶屋の軒先に出した腰掛けに並んで座りながら、菊乃が聞き返した。

 「うん。つまり、教えられたものをそのまま形にするんじゃなく、もっと工夫を凝らした菓子を考えろって。菓子を使って何を表現するのか、その新しい発想が大切らしいんだ」

 「工夫ねぇ・・・」

 つまり史人が言っているのは、和菓子に独自のモチーフを織り込めと言っているのだ。あのオヤジ、こんな小さな子供になんという難題を課すのだと思わなくも無かったが、ここは和菓子作りの先輩として、的確なアドバイスを与えねばなるまい。

 「そうさねぇ、菓子に織り込むものには色んなものが有るんだよ。例えば鶴亀や兎といった縁起のいい生き物。富士山や雪、月といった風景もあるね。草木で言えば桜や桔梗、牡丹とかの花だけじゃなく、松や竹、紅葉のようなものも有る」

 秀之進は菊乃の言葉を一言一句漏らさぬよう、真剣な面持ちで聞いているが、彼は菊乃のことを菓子作りの先輩だと誤解しているに過ぎない。だが実際のところ、菓子作りにおいては、秀之進の技量は既に菊乃のそれを大きく越えていることを、この二人はまだ知らないのだ。彼がお手本とすべきは菊乃ではなく、史人や拓海なのだ。

 「そ、そんな発想が有るなんて、考えたことも無かったよ。さすがお菊姉ちゃんだ」

 そういった誤解は遠からず解けるであろうことには考えが及ばず、菊乃は偉そうな先輩面で鼻息が荒い。

 「まぁね。いつだって相談にのるからね。遠慮するんじゃないよ、秀坊」

 「うん!」

 そこに拓海が駆け付けた。随分と泡食った様子だ。

 「た、大変だぁ!」

 拓海は二人が座っている腰掛に雪崩れ込んでくると、カラカラになった喉を潤すために、秀之進の持っていた湯飲みを奪い取り、お茶を一気に飲み干した。それでもゼイゼイと肩で息をしている様は、まるで某時代劇の「なんとか八兵衛」のようではないか。

 「何よ? どうしたってぇのよ? 騒がしいわね」

 菊乃はそんな拓海を横目で見ながら、お茶の入った湯飲みを美味しそうに傾けた。

 「こ、今度のターゲットはアメリカ大統領らしい!」

 ぶぅーーーーっ!

 菊乃が思わずお茶を吹き出すと、江戸の澄み切った青空から降り注ぐ陽の光を浴びて、そこに小さな虹が架かった。それを見た秀之進の顔がパッと明るくなる。

 「新しい発想が閃いたでございます!」




【参考文献・資料】

野火迅 『使ってみたい 武士の日本語』  (朝日文庫)

中山圭子 『事典 和菓子の世界』 (岩波書店)

御菓子司 亀屋芳邦 『和菓子用語集』 (Webサイト)

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時空を斬る刃 大谷寺 光 @H_Oyaji

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