拍手と歓声に包まれる一群から抜け出てきた重右衛門は、どこかに隠れてトランスポンダーのボタンを押せる所は無いかと、辺りをキョロキョロと見回した。すると視界の隅で手招きする男がいるではないか。目を凝らすとそれは、菊乃の父親である史人だ。彼はケータリングのテントの下から、しきりに腕を振って重右衛門を呼んでいるようで、押し殺した声でこう言っている。

 「こっちだ! こっちに来い、重右衛門!」

 手招きされるままに近付いてきた重右衛門が言った。

 「これはこれは、渋谷どの。そなたもこちらに来ていたのであるか?」

 「あぁ、ちょいと野暮用でな。そんなことより、頃合いだ。その物陰に入って、さっさとトランスポンダーのボタンを押しちまいな」

 そう言ってケータリングのテーブルの陰を指差した。重右衛門は「うむ」と言って、そこに身を沈めてボタンを押そうとしたが、はたとその動きを止めた。

 「渋谷どの。一つ気に掛かることが有ったのだが・・・」

 「気に掛かる? 何だい、藪から棒に」

 「先ほど、気味の悪い顔をした花魁おいらんを見かけたのだが・・・」

 「花魁だって?」史人は目をパチクリした。

 「うむ。何やら奇妙な声で『ちくしょー』と叫んでおった」

 「そりゃ、コウメ太夫だな。あいつ、こんな席に招待されてたのか」

 勿論、重右衛門がコウメ太夫を知っているはずは無い。

 「太夫!? この国では、あのような妙ちくりんなのが太夫(美貌と教養を兼ね備えた、最高級の遊女に送られる称号。現代で言えば、ミスユニバース日本代表のようなもの)を名乗っているのか!? 信じられぬ・・・」

 説明するのが面倒臭くなった史人は、重右衛門を促した。

 「まっ、んなこたぁどうでもいいから、さっさと文永寺に帰んな」

 「うむ。確かに頃合いの様だ。それでは渋谷どの、お先に失礼する。貴殿も気をつけられよ」

 「あぁ、判ってるよ。今日は戻れねぇかもしれねぇから、お菊に宜しく言っといてくんな。あっ、それから秀坊にもな!」

 「かしこまった。では」

 重右衛門が赤いボタンを押すと「びよよーーん」という例の音と共に「ボンッ」と煙が立って、彼の姿が消えた。


 いつまで経っても起き上がらない安本に、拍手を送っていた連中も、さすがに様子がおかしいと思い始めた。客を愉しませる為の余興ではなかったのか? そして二人のSPが駆け寄り、うつ伏せになっていた安本を抱え上げて仰向けにする。トリックだと思われた傷口は本物で、そこから噴き出た鮮血もトマトケチャップではなかった。安本の顔面は蒼白だ。もう助からないだろう。すると安倍は消え入りそうな声でこう言った。

 「馬鹿野郎・・・ 俺を助けろ・・・ この・・・ 間抜け・・・」

 それを聞いたSPは、もう一人の方に視線を向けると、いきなり安本の身体を、ドサリと地面に落とした。手が滑ったのだろうか?

 「うぅ・・・」

 呻き声を上げる安本の元へ、官房長官の菅原が走り寄って来た。そして取り囲むように見下ろすだけのSP二人を押しのけると、瀕死の安本の肩を揺する。

 「総理! 総理! しっかりして下さい!」

 煩そうな顔をして薄っすらと目を開けた安本は、菅原にこう言った。

 「俺は・・・ トーレス大統領に・・・ 電話を・・・」

 ガクッと首を落とした安本が絶命したのは明らかだ。それを見下ろしていた菅原の目は、既に感情の籠らない冷めたそれになっていた。皆がその光景をジッと見詰める。その場の空気が固まり、時間も停止している。

 そして菅原はすっくと立ち上がると、深呼吸をするかのように大きくゆっくりと息を吸った。

 「ご来場の皆さま!」

 菅原の声は、春のうららかな青空に吸い込まれていった。何処かから鳥たちの囀りが聞こえる。新宿御苑の外を走る自動車の音も、途切れることなく微かに伝わって来た。全員が固唾を飲んで、菅原の次の言葉を待った。

 「お祝いです! 今日はご存分にお楽しみ下さい!」

 会場にいたほぼ全ての人間が、この日一番の歓喜の声を上げた。

 「うぉーーーーっ!」

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