首相の控室に出現した重右衛門が、眉間に皺を寄せた。

 「誰も居らぬ・・・ 何かの手違いが有ったか・・・」

 本来であれば、このような不測の事態では先ず、『文永寺』に戻るのが鉄則である。菊乃からもきつく言い含められているし、重右衛門もそのことは重々承知しているのだが、表から漏れ伝わる騒がしさに釣られ、彼はついフラフラと表に出てしまった。

 するとどうだろう、何やら大勢の人が集まり大騒ぎしているではないか。それはまるで祭りのようだ。おそらく浅草寺の仲見世でも、これほどの人出は無いにちがいない。重右衛門はその人混みに紛れて、図らずも無事、潜入を果たした格好だ。

 楽しそうに歓談する人々や、何の目的が有って動き回っているのかも判らない人混みを掻き分けて歩いてゆくと、盆を持った男が泳ぐように近付いてきて、何故だかギヤマンに注がれた冷えた小便のような物を手渡された。周りをよく見ると、皆がそれを旨そうに煽っているではないか。重右衛門はそれを受け取り、恐る恐る一口飲み下す。すると、何とも言えない芳醇な香りと苦味が喉元を過ぎていった。口の中でブクブクと弾ける泡の感触も絶品である。あまりの旨さに目を白黒させた重右衛門は、残りの小便・・・ いやビールを一気に飲み干すと、脇を通り過ぎつつあった給仕の男の盆に空になった盃を戻し、お代わりの一杯をサッと取り上げた。

 「こんなに旨い酒が有ったのか!?」

 それを持ったまま、溢れかえる人混みの中を歩いていると、一人の老人と、それを取り囲むように立つ二人の若い男からなる三人組に出くわした。よく見ると、若い方の一人が、ことも有ろうか徳川家の御紋を付けた印籠を振り回しているではないか。その男が侍装束の重右衛門を認めると、いきなり声を上げた。

 「えぇぃ、控えおろう! この紋所が目に入らぬか! ここにおわす御方を、どなたと心得る!?」

 その腹の座った剣幕に押された重右衛門は、思わずその場にひれ伏して低頭した。プロの俳優が吐き出すドスの効いた発声法は、江戸時代の人間にとっても迫力満点だ。

 「こちらにおわすは、先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ! 頭が高い! 控えおろう!」

 何! 徳川の光圀公とな? たしか光圀どのは、数年前に元服されたばかりと聞き及んでいる。かようなご老体ではないはず。これはいったい・・・。不信に思った重右衛門が恐る恐る顔を上げると、真ん中の光圀を名乗る老人が「カーッカッカ」と高笑いをしながら重右衛門の前を通り過ぎ、そのまま人混みの中へと飲み込まれていった。その後ろを串団子 ──おそらく『澁谷』のケータリングで仕込んだのであろう── を握りしめた男が「こいつぁうっかりだ」と漏らしながら走っていく。

 重右衛門は立ち上がり、消えゆく彼らの後姿を茫然と見送った。

 「・・・何だったのだ?」

 もしあ奴らが、徳川の名を騙っているとしたら、それは斬首に当たる重罪。よくもまぁ、そのような不埒なことを・・・ と思っていると、ひときわ大勢の男女が大騒ぎしている一角に出くわした。面食らう重右衛門はいつの間にかその一群に飲み込まれ、出るに出られない状況に。そのまま人混みに身を委ねたまま進んでゆくと、押しくら饅頭の先で一気に人垣がはけた。

 「じゃぁ、次は君だね!」

 男が馴れ馴れしく肩を回してきた。

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