重右衛門を西幸一郎の元へ送り込んだ菊乃と拓海が、『文永寺』の鐘楼堂で彼の帰りを待っていると、本堂から拓海の祖父、慶秋けいしゅうが顔を覗かせた。

 「まだ重右衛門は戻って来ないのか、拓海?」

 「うん。もう直ぐだと思うよ、お爺ちゃん」

 「戻ってきたら本堂にお上がりなさい。美味しいお茶の準備が出来ているから、一服するといい」

 それを受けたのは菊乃だった。

 「有難うございます、ご住職。後でお邪魔致します」

 そんな菊乃に拓海が言う。

 「菊乃は行って、お爺ちゃんの相手してあげてよ。話し相手が欲しいんだよ。お茶も冷めちゃうし」

 「そう? じゃぁ後はお願いね。重右衛門さんが戻ってきたら、二人も来てね。今日、持って来たお茶とお菓子、すっごく美味しいんだから」

 「うん、判った」

 奥へと消えて行く菊乃の後姿を、拓海は笑いながら目で追った。


 『文永寺』の本堂には、外陣げじん(本堂の手前側で参拝者の為の部分。対して奥側の仏が祀ってある部分を内陣ないじんという)の右手に廊下が有り、それは脇間(本尊の両脇の部分)の横を通って更に奥へ続いている。その廊下を挟んだ反対側に小さな部屋がしつらえてあって、それは丁度、本堂を横から見渡すような位置だ。その小部屋で拓海の祖父であり『文永寺』の住職でもある慶秋と向かい合った菊乃は、現代より持ち込んだ和菓子、つやぶくさ・・・・・を頂いていた。無論、菊乃自身の作ではない。

 どら焼きの皮を裏返してフワフワを表に出し、焼き色の付いた面を内側にして餡を巻いたこの和菓子は、丁度、寿司の裏巻きのようなものと言えば判り易いだろうか。どら焼きと言えば、手で持ってパクパクと元気よく食べる明るいイメージであるが、皮を裏返しただけで、なんだか落ち着いた貴婦人のような上品な佇まいになるのは興味深い。まるで猫の目のように目まぐるしく変わる、女性そのものと言えよう。黒文字(菓子楊枝のこと)で少しずつ切り分けながら口に含み、熱々の緑茶と一緒に頂けば甘味と共に幸せを享受できる一品だ。 

 今、二人が飲んでいるのは、箱崎が京都の大学に講演で招かれた際に、宇治田原の店で奮発して買って来た玉露のお裾分けだ。菊乃がお菓子と一緒に持ち込んだもので、玉露特有の引き立つ甘みが、粒餡の甘みを益々引き出すような、不思議な化学反応が口の中で広がった。

 幸せそうにお茶を啜る菊乃に慶秋が問うた。

 「もう、この仕事には慣れましたか?」

 菊乃は口の中のモグモグをお茶で流し込むと、「はい」とお行儀よく答えた。

 「そうですか。それは良かった」

 更に一口、お茶を啜る慶秋。その顔はいつ見ても優し気だ。なんだか箱崎教授と似ているような気がして、菊乃は思い切って聞いてみることにした。

 「ご住職もかつて、この仕事をされていたんですよね? 先々代のトランスポーターとして」

 慶秋は江戸時代の人間だが、拓海と同じように現代に常駐していた経験がある。従って無理に江戸言葉で話さなくても良いのは有難い。

 「はい。ふつつかながら務めさせて頂いておりましたよ」

 「先代は拓海さんのお父様だったとお聞きしておりますが・・・」

 「はい。大乗だいじょうも・・・ 拓海の父もトランスポーターでした」

 「私は彼のご両親にお会いしたことは無いのですが・・・ ご健在なのでしょうか? 勿論、興味本位で聞いているわけではありません。もしご都合が悪いようでしたら、はっきりとそう仰って頂いて結構です。ただ彼がこの件に関しては、どうしても触れたがらないのが気に掛かるのです」

 菊乃の問いを受けて、慶秋は遠い目をするような表情になった。

 「大乗は既に往生しております」

 菊乃は息を飲んだ。やはりそうだったのか。

 「奴が出向いておったのは、平成の頃・・・。そこで、現代の若い女と恋仲になりましてな。トランスポーターの仕事を放り出して、その女と消息を絶ったのです。それを苦にした拓海の母は、隅田川に身を投げて自害いたしました。拓海がまだ、小さな頃です」

 いきなり過去を語り出した慶秋に戸惑い、菊乃が固まる。

 「そしてディテクターの秋田どのが中心となり、日本中あらゆる所を探しました」

 「見つかったのですか?」

 「はい。奴は蝦夷の・・・ いや北海道の名寄という街で、その女と二人、ひっそりと暮らしておりました。私たちは当地に出向き説得に当たりましたが、大乗は頑としてそれに応じようとはしません。勿論、大乗は秘密を口外するつもりは無いと弁明しましたが、それを許すわけにはいかない事情はお判りでしょう」

 「それでどうされたのですか? ま、まさか・・・」

 「その通り。大乗は加納どのの剣により、斬り捨てられました」

 「そ、そんな・・・」

 「因果な一族です、神蔵というのは。不徳の輩とは言え、実の息子を抹消せねばならぬとは。しかし、私よりももっと辛い思いをしたのは加納どのでしょう。友人の息子を、当人の目の前で斬らねばならなかったのですから。その時の加納どのの気持ちばかりは、私にも推し量ることは出来ません。息子の浅はかで身勝手な行いにより、罪の無い多くの人が傷付きました」

 菊乃の舌は既に、つやぶくさの甘味を感じてはいなかった。自分が想像すら出来ないような壮絶な経験を経てもなお、皆がこの裏稼業を続けていたのだ。彼らの笑顔の裏には、こんなにも辛い歴史が刻まれていたのか。だからこそ皆、切っても切れない太くて丈夫な絆で結ばれているのだろう。自分はそこまで割り切れるのか? 肉親を殺されても仕事を続けていける程の覚悟を持って、リクルーターという役割を演じているだろうか? 菊乃は全く、その自信が持てないのだった。そして拓海は・・・。

 家族を捨て、母を死に追いやった父を今でも許せないのだろうか? 彼はどんな思いでトランスポーターを続けているのだろう? それそ考えると、えもいわれぬ悲しみが溢れ出てきた。その悲しみは、菊乃の頬を止めどなく伝って落ちた。

 「更に不幸なことが起きました。その女は大乗の子を身ごもっていたのです」

 「えっ・・・」

 「どんなに関係の遠い間柄だと思っていても、ずっと時を遡ってゆけば血縁関係にあることは珍しくないのです。そう。大乗はその女の遠い祖先にあたる血筋だったのです。

 そうやって、時代を越えた血族交配によって受けた生は、血環けっかんという血のループの力により時空の狭間に取り残され、拠り所の無い魂として永遠に彷徨い続けると言われております」

 「血環? 血のループ?」

 「その通り。従って、時代を超えた男女の交わりは、決して侵さざるタブーとして神蔵一族には代々伝えられています。その戒めが具体的にどんな意味合いのことを警告しているのか、結局のところは判ってはいなかったのですが── おそらく、遠い過去に同様の悲劇が起きたのでしょう── 大乗の子供、つまり拓海の異母兄弟によって、それが意味するところが明らかとなったのです」

 「そ、それはどのような・・・」菊乃はゴクリと唾を飲んだ。

 「大乗が斬られる現場を目撃してしまった女の方は、同行していた箱崎どのの尽力により直ちに無害化されました。しかし、まだ妊娠六ヶ月にも満たない胎児が、父親の死を確信したのか、或いは母親の異変を感じ取ったのか、腹の中で突然暴れ出し、母親の子宮を食い破って姿を現したのです」

 「ひっ・・・」

 手を口元に持って来たまま、菊乃は目を見開いた。

 「母親はショックと失血によりそのまま息を引き取りましたが、胎児は母親の腹の上で立ち上がり、まだ発達し切ってもいない不完全な両目をカッと見開いて、私たち三人を交互に睨み付けました。そして、言葉には表せないような不気味な唸り声を上げて、我々を威嚇したのです。あのおどろおどろしさは、今でも忘れることが出来ません。母親の子宮を通して、この世と地獄が繋がっていたのだろうと私は思っています」

 「・・・」

 「その邪悪な胎児は、その場で加納どのの一斬りによって葬られましたが、私と大乗にとっては孫であり息子であり、同時に遠い末裔のような存在。考えてみれば不憫な命と言えましょう。私たちは大乗だけでなく、母子の亡骸も一緒に連れて、この文永寺に戻ってきたのです。

 そして、その救われぬ三人が祀られているのが・・・」

 そう言って慶秋は、本堂の本尊の方を見た。菊乃も彼の視線を追った。

 「この件に関してはあなたのお父上、渋谷どのも、勿論、ご存知ですよ」

 慶秋があえてこの話を持ち出したのは、拓海や重右衛門との関係・・に釘を刺すためであったのだということが、やっと判った。菊乃は溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。

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