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「へぇ~、なるほどねぇ。あなたが見たと仰るのなら、それは間違いなく見えたのでしょうね。そこに疑いの余地は無いと思いますよ、私は」
「本当かい? 信じてくれるのかい?」
「はい。勿論です」
男は妙に落ち着いた気分になっていた。今自分が居る所が、まさか警察の取調室であるなどと、どうして思えようか。
「刑事の奴ら、頭っから疑ってかかりやがってよぉ・・・」
「もう一つ、如何ですか? あっ、お茶も冷めてしまいましたね。入れ直しましょう」
「上手いこと言っちゃってさぁ、そうやって俺を丸め込もうって寸法じゃねぇの?」
とか言いながら、ほんの少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干すと、彼の右手はお代わりを求めて、素直に箱崎の前に差し出された。
「とんでもありません。ひょっとしたら、あなたの心の中に有る重しのような物を取り除く手助けが出来るかなと思ってるんですよ。私はそっちの方の専門ですから」
煎茶のお代わりを注いでいる間にも、箱崎の視線が警戒を失った男の心にスルスルと忍び込んでいった。しかし男は、そのやんわりとした触手を意識することすら出来ない。それはまるで、相手に気付かれないように近付く、擬態した動物の捕食シーンのようだ。
「重し?」
「そう、重しです。人の五感、特に視覚と聴覚は選択的な指向性を持っています。見たいと思うものが見え、聞きたいものが聞こえるというやつです。それらは、その時の体調や精神状態によって様々な形となって現れますが、重要なのはそれらをあなたに見せようとする、或いは聞かせようとする
「ほら! やっぱり信じてない!」
「そうではありません。あなたがそこで侍を見たというのは、あなたにとっては事実なのですから。そこに侍が出現したのは、あなたにとっては必然だったのです」
「結局は錯覚だったって言ってるんだろ?」
「砂漠に彷徨う旅人が見るオアシスの幻影を、ただの錯覚と断じて良いでしょうか? 遂に底をついた水、吹き荒ぶ砂嵐、弱って膝を付く駱駝。そういった状況下で見るオアシスの幻影は、単なる錯覚とか妄想とか以上の力を持った存在だと思いませんか?」
「力?」
「そう、力です。パワーです。もう一歩も歩けないと思っていたのに、オアシスを見つけた旅人はそれに向かって走り出すでしょう。違いますか?」
「ま、まぁ、そうかも・・・」
「錯覚にはそんな力は有りません。錯覚とは一瞬で過ぎ去る、ただの気のせいなんですから。一方、妄想は時に、幻影と同様な力を発揮しますが、その発現過程に精神的な異常性が潜んでいるのが大きな違いです」
机の向こうから延びた箱崎の左手が男の右肩に置かれ、その首筋に優しく添えられていた。
「幻影はもっと、言ってみれば
「判る様な気はするけど・・・」
「どうしてあなたの視覚は、侍の出現を望んだのでしょうかね? 前の晩に時代劇でも観ましたか?」
「そんな単純なことなのかなぁ?」男はなんだか眠そうな表情だ。
「えぇ、単純です。夢と同じですから。それにしても、どうして侍だったんでしょうかねぇ・・・」
箱崎が優しげな表情を崩さず尋ねると、男は自信無さげに首をひねった。
「なんでかな・・・」
「今時、侍なんていませんよね?」
「んんん・・・ いない・・・よね」
「本当は侍なんか見ていないとか?」
ニコリと笑いかける箱崎に、男もうっすらとした笑みで応える。
「侍・・・ 見てない・・・かな。いるわけ無いもん・・・ね」
「そうです。あなたは侍なんか見ていないんですよ、きっと。あれはあなたの心が作り出した幻影だったんじゃないでしょうか? 刑事さんにも本当のことを話した方が良いと思いますよ。もう一つお上がりなさい、ほら」
「そ、そう・・・ 俺、侍なんか・・・ 見て・・・ない・・・。なんでそんな風に・・・思ったんだろう・・・」
男は勧められるままに黄身時雨をつまみ上げ、そのままの状態で固まった。
箱崎は思った。日本の優秀な警察が、あなたが犯人ではないという証拠を見つけてくれますように・・・ と。
取調室のミラーガラスの向こうから、箱崎の聴取を見ていた刑事たちが唸った。
「うぅ~ん、さすが箱崎先生だ。あっという間に、容疑者に嘘を認めさせちまった」
「我々刑事には、到底、真似出来ない芸当ですね。となると、殺害の動機は何だったんですかね? 怨恨の線でしょうか?」
「いやぁ、違うだろ。おおかた、多くの人命を奪っておきながら、反省の色すら見せない笹塚健三に正義の鉄槌を下したっていう、独り善がりの犯行だろう」
「歪んだ正義の執行ってやつですか・・・。まぁ、これで笹塚の罪を不問にしている警察に対する風当たりも、少しは和らぎますかね」
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