「なんだよ、あんた刑事さんじゃないね?」

 陰気なグレーに塗り固められた取調室の真ん中で、事務机に就いて不貞腐れている男がいた。あのフレンチレストランで取り押さえられた奴だ。血染めの衣服は既に脱がされていて、鑑識に回されているのだろう。男は警察が用意した味も素っ気もないグレーのスウェット上下に着替えさせられている。グレーを基調とする部屋に、グレーに身を包んだ男が閉じ込められ、グレーの事務机の前に座らされている風情はまるで、男がいるべき所にいると言うか、部屋の一部として溶け込んでいるかのような印象だ。

 左側の額と頬に貼られた絆創膏は、警官たちが寄ってたかって乱暴した痕であることは言うまでもない。熱病に冒されたかのようなその場の勢いで、容疑者に対して殴る蹴るの集団暴行をはたらいてしまった警官たちは、興奮が冷めた途端に自分たちが行った非道の痕に震え上がった。

 かといって「ゴメンな、酷いことして」と謝るわけにもいかない。だって一般的に言って謝罪は、罪状を認めることと同義なのだから。とは言え、白昼堂々と行われた殺人事件の最重要参考人を、大目に見て見逃してやるわけにもいかない。こうして男に対し、必要以上に腰の低い取り調べが進んでいたわけだ。

 取り調べ担当刑事に代わって入って来たのは、何だか品の良さそうな老紳士だ。英国製の上質な生地を使ったテーラーメイドのスーツを着こなし、明らかに警察組織とは異なる匂いを放っている。外見だけでなく、表情や言葉遣い、或いはちょっとした所作にも上品さが漂う様は、皇室の血筋を感じさせるような風格すら備えている。

 「えぇ、ご明察です。私は刑事ではなく、慶和大学に務める箱崎と言います。よろしくお願いします」

 箱崎勇介は慶和大学で教鞭を執る現役の教授だ。専門は臨床心理学。国内の第一人者として名高く、各大学から講演依頼が舞い込むだけでなく、何か有る度に公的機関からも協力要請がかかる心理学界の重鎮である。最近では、イスラム国に半年もの間拉致されていた日本人ジャーナリストが解放され、政府チャーター機で帰国した際の精神的ケアを任されたことは記憶に新しい。勿論、その件で箱崎に声を掛けたのは外務省だ。心的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder、PTSD)に代表されるような、極度の精神的衝撃を受けた人間を、苦痛や苦悩を伴うストレス障害から社会復帰させる手腕は随一と評価されている。

 「慶和大学? あぁ、医者か? 俺の頭がおかしくなったと思って精神科の医者を呼んだわけだ? そりゃご苦労なこって」

 男の挑発的な態度を軽く受け流し、箱崎は向かいのパイプ椅子に腰かける。

 「まぁまぁ、そうムキにならず、ざっくばらんにお話を聞かせて頂けますか? 私は医者ではありませんので、警戒なさらなくっても結構ですよ」

 そういった実績を踏まえ、精神的な破綻をきたした人間が ──それは要人であったり、犯罪者であったり、或いは病人や、まだ小さな子供の時も有る── 手に余る様な状況の場合、決まって箱崎にお呼びがかかるのだ。従って今回、「空中から突然侍が現れて、目の前の男を斬った」などという、半ば精神的な錯乱を見せた容疑者に対し、心理学の視点からの聴取を依頼されたわけだ。

 「なんでも、不思議な物を見たと仰っているようですが・・・」

 「話したって、どうせ信じねぇくせに」

 「物は試しです。どうです? 何が有ったか話してみませんか?」

 そっぽを向く男に向かって、その柔和な視線を投げかけながら箱崎は続ける。

 「先ずは、これでもつまんで下さい。ちょっとしたお土産です」

 箱崎は採り出したのは白い紙袋だ。模様も何も印刷されていない、何の変哲も無い紙袋。

 「何だいこりゃ?」

 「私が懇意にしている和菓子屋さんの・・・ 本郷にある『澁谷』ってお店なんですけど、ご存知ですか? 黄身時雨っていうお菓子です。どうぞどうぞご遠慮なさらず」

 「あ、いや。俺、甘いもんは苦手で・・・」

 「あぁ、これは大丈夫ですよ。歯がしみるような下品な甘さじゃなく、四国から取り寄せた和三盆糖を使った、むしろサッパリとした甘みですから。勿論、無理にとは言いませんが、是非一度試してみて下さい」

 「そ、そうかぁ。じゃぁ一つ頂くよ」

 男は紙袋の中から一つ取り上げると、恐る恐るといった様子で口に運んだ。

 「あぁ、美味いね。和菓子なんてジジババの食いもんだと思ってたけど、こうして改めて食べてみると、結構、奥深い味なんだね」

 「気に入って貰えて嬉しいです」

 そう言って自分も一つ、つまみ上げた。

 「これはですね・・・ 小倉餡と新粉を混ぜて、裏ごししながらそぼろ状にするんですよ。それを専用の木枠に入れて蒸し上げると村雨と呼ばれるお菓子になり、その生地を餡玉として饅頭にしたのが時雨饅頭になります」

 箱崎は魔法瓶に入れて持参した煎茶を、取調室に備え付けの安っぽい湯飲みに注ぎ、男の前へと滑らせた。

 「今日お持ちした黄身時雨は、白餡の餡玉に黄身餡のそぼろをあしらったものです。表面に干乾びた泥団子のような亀裂が入るのが特徴で・・・ あっ、この熱いお茶と一緒に頂くと、また格別ですよ。そこから黄身餡の下に忍ばせた赤い着色餡、つまり紅餡が微かに垣間見える、手の込んだものも有ります」

 男は左手に和菓子、右手に湯飲みを持って、熱々のお茶にふぅふぅと息を吹きかけながら啜った。最初は警戒していたはずが、いつの間にか心の城壁は消え失せている。

 「へぇ~、そんなに手間暇かけて作ってんだ、和菓子って」

 パクッ。ズズズ・・・。

 それは伝統的な和菓子と煎茶の組み合わせによってホッコリとした心持にさせた上に、心理学に長けた箱崎の醸し出す空気感を畳みかける合わせ技と言え、相手に無条件の安心感を抱かせる妙技と言えた。箱崎の表情や物腰、声音にイントネーション。それらの全てに包まれた時、人は抗い様の無い陶酔状態に陥るが、本人はそのことに気付くことすらなく、己の心を無防備に曝け出してしまう。

 「あのレストランで目撃したこと、話してくれませんか」

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