例のフレンチレストランの周りには、警視庁のパトカーが集結していた。それら全ての警察車両が赤色灯を回しつつも、サイレンを鳴らさないで停車している様は、むしろ異様な迫力を醸し出して物々しい雰囲気だ。それはまるで、水を飲みに来た鹿の周りに集結している鰐の群れを連想させ、水面に潜む彼らが一斉に襲い掛かる切っ掛けを待っているかのような、凄惨なシーンの直前を思わせる静けさだ。

 事件当時に店内にいた客や従業員たちの殆どは、身元を確認された後に簡単な事情聴取を受け、連絡先を聞かれた上で解放されていた。ただ一人を除いては。

 事件の第一発見者である男が、被害者が殺害される瞬間を目撃したと主張して止まないのだ。他の客の証言からも、その男が全身血だらけになってトイレから出てきたところから、全ての騒ぎが始まったことがうかがい知れた。

 しかしその供述内容は支離滅裂を極め、口から出まかせを言っていることは一目瞭然だ。むしろ自分の犯行を胡麻化すために、別の誰かがやったと主張しているに過ぎないと思えた。それとも、頭がおかしくなった振りをすれば、言い逃れできるとでも考えているのだろうか。現場に急行した刑事はこの状況を見て、捜査の核心は「誰が殺害したのか?」ではなく、「何故この男が殺したのか?」であり、「被害者とこの男を繋ぐ接点は?」へと、既に移行していることを直感した。

 「本当なんだって! マジで侍がボンって現れたんだよ! ボンってなって、びよよーーんつって煙の中からさぁ!」

 生まれつき裕福な家庭で育ったわけではなく、たまたま小金を稼ぐ機会に恵まれただけの品の無い男が ──この男が連れていた思慮の浅そうな女は、既に解放されている── 人だかりの中心で大声を上げていた。悪人ではないのであろうが、あぶく銭を手にしたことで勘違いをし、自分が重要な・・・人間だと思い込んでしまったタイプだ。身に付けたものはどれも高価なブランド物ばかりで、金の有意義な使い方も知らなければ、その重みと勤労のバランス感覚も欠如した、薄っぺらな人間であった。

 その男を取り囲む警察官の中で一人だけ私服を着た、警視庁捜査一課の刑事が代表して応えている。

 「ほぉ~。お侍さんがねぇ・・・」

 「そぅ! んで、あのオッサンを斬ったんだ。こう・・・バサッって。そしたらドバァーって血が噴き出して、それが俺に降りかかってきたんだよ!」

 「判った判った、詳しい話は署で聞いてやるから。取りあえず行こうか」

 身振り手振りで状況を説明する容疑者をなだめるように、刑事が男の肩に手を置いた。男はそれを肘で突っぱねて振り払う。

 「マジだって、俺がやったんじゃねぇって言ってんじゃん!」

 往生際の悪い容疑者に苛立った刑事が、その本性を剥き出した。いきなり男の右腕を背中の方に捩じ上げると、痛さのあまりに身をかがめた相手の肩を圧し潰すように圧し掛かり、地面に組み伏した。その合図を今か今かと待っていたかの如く、周りにいた制服警官たちも一斉に躍りかかり、容疑者確保の一幕は一瞬のうちに終わりを告げた。

 「おとなしくしろ、この野郎!」

 「容疑者確保ーーーっ!」

 「気を付けろ! まだ凶器を持っているかもしれんぞ!」

 やはり彼らは、獲物に群がる鰐だったのだ。水を飲みに来ただけの哀れな鹿は、瞬く間に水中に引き摺り込まれ、無残な肢体を晒していた。図らずも容疑者となってしまった男は、横向きの頭を地面にゴリゴリと押し付けられながら、今、自分に起こっていることは全て夢なのではないかと感じていた。必要以上に暴力を振るう警官たちの怒号も今は、壁を挟んだ隣の部屋から聞こえるかのようにくぐもって不鮮明だ。そう、これは夢なのだ。あの侍が煙の中から現れた時から、自分はずっと夢を見ているに違いない。

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