その日の午後、『文永寺』に重右衛門宅を呼び出した拓海は、あえて次の仕事に取り掛かることによって、菊乃の失踪事件から重右衛門を引き離そうとした。取りあえず状況がクリアになるまで、彼には控えていてもらいたいと言うのが本音なのだ。とは言え、急がねばならない状況なのは明らかだし、いざとなったら重右衛門の助けが必要となるかもしれないことは判っている。

 「まだ、お菊どのは見つからないのであろうか?」

 心配そうに尋ねる重右衛門に、努めて冷静に答える拓海。

 「大丈夫です。居場所は既に突き止めております」それは嘘ではなかった。

 菊乃も時空を超えて、この江戸時代に来ている。つまり、重右衛門と同様、腕にトランスポンダーをはめているのだ。空間座標をもってタイムリープを的確に行うには、その所在が正確に判っていなければならないことは言うまでも無いだろう。

 しかし、菊乃と共にこの時代にやって来た拓海には、彼女の現在地を確認する術が無い。それが判るのは送り出した側、つまり、神保町の古書店『文永堂』の土間に有る石積みとリンクした、令和側の端末なのだ。

 一晩中、『文永寺』の鐘楼堂で菊乃を待ち続けた拓海は、その朝に長屋に赴き、彼女が重右衛門宅に外泊したわけではないことを確認したわけだが、その後、令和に戻れば菊乃のトランスポンダー位置を特定できることに思い当たったのだ。そして早々に現代に戻って空間座標を掌握した後、再び江戸時代にとんぼ返りしてきたという状況である。

 「心配せずに目の前の仕事に集中して頂きとうございます。相手がどのような手段にて反撃してくるかも判りませぬ。気の緩みは命取りになりかねないかと」

 「うむ・・・ 神蔵どのの言うことも判るが・・・」

 「重右衛門さま。私は既に、かような事態を治める為の仲間を招集済みにございます。今はその仲間が別動して、お菊救出の手はずを整えているところ」

 「左様であったか。ならばひとまず安心だ。しかし申し訳ないが神蔵どの、この仕事が終わったら、お菊どのを助ける企みに加えては貰えぬだろうか?」

 拓海は一瞬考えたが、剣術に長けた重右衛門の存在は心強かろう。

 「判りました、重右衛門さま。こういう私も、お菊のことが心配で仕事が手に付きかねます。ここは、次の悪党をさっさと片付けて、お菊救出の相談を致しましょう」

 「うむ。そうすることにいたそう。して、今回の奴は何をしでかしたのか?」

 「以前、処分した山崎が乗っていた駕籠を覚えていらっしゃいますか?」

 「あぁ、憶えている。あの担ぎ手の要らぬ不思議な駕籠のことだな?」

 「はい。この笹塚健三という男、あの駕籠で何人もの罪も無き人々を轢き殺しました。そのくせ、かつて将軍配下の勤めであったらしく、裏から手を回してその罪を問われることも無くのうのうと生きております。奉行所側も笹塚の過去の立ち位置に忖度し、取り締まるつもりは毛頭無いもよう。巷ではあ奴のことを、上級町民と申しております」

 「そ奴が故意に人を轢いたと?」

 「いいえ、故意では無いでしょう。しかし己の技量の未熟さ故に人を殺めたのであれば、その非は咎められて然るべき」

 「確かに。人を轢き殺してまで、行くべき所が有ったと申しておるのか?」

 「なんでも、南蛮渡来の御前を出す料亭へと急いでおったとのこと。街道を通行する際の取り決めにも不備が有って、それ故に起きた事故だというのが言い分らしく、反省の色は皆無です。しかも、駕籠が不安全にしつらえてあったために、かような惨事が起こったのだと、駕籠造りの職人に苦言を垂れる始末。己の責任を放棄する言い草は、それを聞いた全ての人の怒りに火を点けたほどであります」

 「なるほど、判り申した。今はお菊どのが心配で、かような下賤を斬っている暇は無い心持ちなのだが・・・ 致し方ない。先ずは自分の務めを果たすことといたすか」

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