第四章:イレイサー / 消去する人

 ドンドンドン・・・

 うっすらと沈む朝靄を揺るがすような、無遠慮な音が長屋街に響いていた。人々はまだ暖かな布団の中で、目覚め前のまどろみを貪っている時刻だ。

 ドンドンドン・・・

 だがその音の主は、そんなことには一向に構わない様子である。

 暫くの後に家の中からゴソゴソとした音が聞こえ、引き戸を開けて顔を覗かせたのは、まだ半分ほど眠ったままの秀之進であった。

 「あぁ・・・ 神蔵どの・・・ ふぁぁぁ・・・」

 右手を口に持っていきながら、欠伸をこらえ切れない秀之進に拓海は聞いた。

 「菊乃・・・ いや、お菊はここに?」

 欠伸と共にチョチョ切れた涙を手の甲で擦りながら、秀之進が応える。

 「大福?」誰もそんなことは言っていない。

 「もう腹が一杯で食べられませぬ」

 秀之進では埒が明かないと判断した拓海は、家の奥に向かって声を上げた。

 「重右衛門さま! 重右衛門さま! お菊はこちらに居ますか!?」

 玄関先の騒々しさに寝てもいられなくなった重右衛門が、ノソノソと奥から出てきた。

 「おぉ、これは神蔵どのではないか。かような時刻に何事であろうか?」

 「申し訳ございません、重右衛門さま。もしやお菊がこちらにいるのではないかと・・・」

 「まさか。お菊どのであれば、昨日、神蔵どのの待つ文永寺に・・・」寝ぼけ眼の重右衛門も、さすがにピシャリと背筋を伸ばした。「!!! お菊どのが戻っておらぬのと申すのか!?」

 どうやら拓海の思いは杞憂だったようだ。ほんの一瞬でも菊乃を疑ってしまったことに罪悪感を感じる拓海だった。しかし彼女が行方知れずになっている事実には変わりは無い。当初の懸案は払拭できたものの、代わって別の問題が顕在化して来たに過ぎない。つまり今度は、菊乃が何らかのトラブルに見舞われている可能性が有るということだ。

 しかも、その事を重右衛門に知られてしまったからには、話がややこしくなるのは必至だ。彼が菊乃に対し、密かに想いを寄せていることは、誰が見ても明らかなのだから。やはり、いきなり重右衛門宅に押しかけて来たのは軽率だったか? 拓海はそう思ったが、時間に猶予が無いことも事実。ここは何とか取り繕って、事が大きくならないようにすべきだろう。

 「お菊どのの身に、何かよからぬことが起きたのではないか? この重右衛門、命を賭して助太刀いたそう。何なりと申しつけ下され、神蔵どの」

 「いやいや、ご心配には及びません、重右衛門さま。こちらに居ないということであれば、思うところ有って、何処かに出かけているのかもしれません。もう暫く様子を見てみましょう」

 とは言え、一番心配しているのは拓海に他ならない。ただそれを表情に出すわけにはいかないのだ。

 「いや、しかし神蔵どの・・・」

 明らかに自分より若い神蔵が、どうしてここまで冷静でいられるのか重右衛門には判らなかった。ただ、刺客の手配という裏稼業に手を染めている時点で、自分には想像し得ない経験を多く積んできているのだろうという、一種、畏怖にも似た感情が湧き起こるのを禁じ得ないのだった。

 「どうぞご心配なく。お菊とて子供ではございません。我らの稼業に携わった時、このような事案への覚悟は出来ていたはず。もしかしたら、単に遊び歩いているだけかもしれませんし」

 「そ、そうとは思えんのだが・・・」

 勿論、そんなはずは無い。自分に黙って姿をくらまし、何処かで遊んでいるなど有り得ない。それは拓海が一番判っていることだ。ここはあの人を呼ぶしか無いだろう。拓海は頭の中で、この緊急事態に対処する算段を始めた。

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