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転送作業は拓海に託し、菊乃は重右衛門の自宅に来ていた。貧しい町民たちが肩を寄せ合うように生きている、いわゆる
この当時の江戸には、このような裏長屋が数多く存在し、歴史に刻まれる華やかな江戸文化とは一線を画した、庶民の文化が根付いていた。その一角に重右衛門と秀之進が父子二人で住んでいる。これまで、報酬の砂糖を運び入れるために何度か来たことは有ったが、今日の菊乃は別件で訪れていた。
留守番をしている秀之進に招き入れられてみると、男だけで女っ気が無い室内が、ある種のむさ苦しさを漂わせていた。間口は九尺(約ニ・七メートル)で奥行きは二間(約三・六メートル)ほど。こういう小割りに区切られた一室が並ぶ様を「鰻の寝床」と呼ぶのは言い得て妙だろう。しかし、以前に訪れた時よりは、幾分、生活の質が改善しているようだ。僅か三坪(約六畳)の裏店住まいにも、報酬として手渡している砂糖がもたらす潤いが、徐々に浸透しているのは間違い無い。菊乃は留守番をしていた秀之進に、お土産として持参してきた豆大福を渡した。
「うわーーっ! 大福だぁ!」
跳び上がった秀之進は、その中から一つをつまみ上げると直ぐに食べようとした。しかしその勢いは急に衰え、何故か思い留まるのだった。一旦は手に取った豆大福を再び包みに戻す秀之進を見た菊乃が、不審に思って問い質す。
「どうして食べないの、秀坊? おあがりよ」
しかし秀之進はゴクリと唾を飲み込み、首を振った。それでも視線を、魅力的な豆大福から引き剥がすことは出来ないようだ。それを見た菊乃は「ははん」と漏らす。
「そっか、お父上の帰りを待っているんだね? じゃぁ、そこの棚にでも置いておきな。重右衛門さまが戻ったら、二人でお食いよ」
「うん」と応えた秀之進の顔が、何かを思い付いたように煌めいた。
「お菊姉ちゃん、この大福の作り方を教えてよ!」
「えっ? 何だい藪から棒に?」
「自分が作って、父上に食べさせてあげたいんだ」
期待に胸膨らむ秀之進の顔は、キラキラと輝いていた。人はいつから、こういった表情が出来なくなるのだろう? それを成長というらしいが、子供の笑顔より眩しく美しいものなど無いのではないか? それを捨ててまで手に入れる、大人という名の権利と義務にいったいどれ程の価値が有るのだろうと菊乃は思うのだった。
「よし判った。任せておきな。今度、教えてあげるよ」
そう言って笑うと、秀之進もニコリと笑った。
とは言ったものの、どうしよう? 自分はつまみ食いばかりで、和菓子の作り方など真面目に学んだことが無い。この大福だって、実は拓海が作ったものだ。こんなことになるんだったら、もっと真面目に取り組んでおけば良かった。
やはり父に頼んで教示して貰うか? いっそのこと拓海に頼もうか? いやいや、枯れても和菓子本舗『澁谷』の跡取り娘だ。そんなみっともないことは出来るはずがない。
菊乃が「ムムムムム・・・」と思案顔になっているところに、重右衛門が帰宅した。
「今、帰ったぞ秀之進・・・ おっ、これはお菊どの。こちらにいらしたのですか?」
「お帰りなさいませ、重右衛門さま。お邪魔させて頂いております」
そう言葉を交わしながら、一方で目礼を交わし、今回の仕事が首尾よく済んだことが報告された。
「父上、お菊姉ちゃんからお土産を頂きました! 大福でございます!」
「おぉ、これはこれは。いつも申し訳ない」
「ほんの、お口汚しですが」
菊乃はしおらしく謙遜して見せたが、拓海に作らせておきながら「お口汚し」とは失礼な言い草である。
「秀之進。お菊どのに茶の準備を」
「はい。父上」秀之進はサッと入り口の土間に飛び降りると、据え付けられている竈に薪をくべ、一心不乱に火をおこし始めた。それを見た菊乃が遠慮を見せる。
「お気遣いなく、重右衛門さま。私はお暇させて頂きますゆえ、二人でごゆっくりお召あがり下さいませ」
軽く低頭して帰ろうとするお菊を、重右衛門が引き留めた。
「そ、そんなに急がずとも・・・ まっ、ごゆるりとしていかれるがよい」
そう言われた菊乃は一瞬だけ躊躇を見せたが、何やら重右衛門の言葉にいつもと違う声色を感じて、言われるがままに玄関の上り口に腰を下ろした。とは言え、拓海が『文永寺』で待っているのだ。あまりノンビリもしていられない。
「と、ところでお菊どのは、おこ、おこ、お輿入れなどは・・・」
いきなり重右衛門が、つっかえながら聞いた。重右衛門にそんな吃音の癖など有っただろうか? 菊乃はそんな風に思いながら答える。
「??? 輿入れでしょうか? そのような話は一向に御座いませんが」
「だ、だ、だれ、だれか意中の殿方でも、おわすのであろうか? かように器量よしのお菊どの。世の男どもが放っておくはずも無し。わははは、わは、わは・・・」
顔を一気に紅潮させた重右衛門は、先ほどにも増してグダグダだ。秀之進が憧れる、颯爽とした父親像とはチョッと違うぞ。しかし竈に向かってフーフーと息を吹きかけ、湿気った薪と格闘する秀之進には気付かれていないようだ。
「あははは、とんでもございません。私のような者に。それでは神蔵が待っておりますので、これにて失礼いたします」
静の言う通りだった。結構どころか、途轍もなく鈍感なのだ菊乃は。だが重右衛門は食い下がった。ここで退いては武士の恥・・・ かどうかは別にして、どうしても聞いておかねばならないことが有るのだ。
「お、お菊どの」
それを聞くまでは、お菊を帰すわけにはいかない。
「はい?」
ゴクリと唾を飲む重右衛門。ここからが今日の本題だ! 主要な議題なのだ! かつて大名に仕えていた頃であれば、縁談の話など黙っていても向こうからやって来た。世話好きな老中が、頼みもしない婦女子を紹介してくれたものだ。
やっと火が熾って、秀之進がふぅと一息継ぐ。
「あの神蔵どのは、お菊どのとどのような・・・」
しかし武士の世が終わりを告げた今、重右衛門のような素浪人を世話する物好きなどいない。ただのプータローが、左団扇で偉そうにしているわけにはいかないのだ。全ては自らが動いてこそである。道は開けるぞ! 頑張れ重右衛門!
水瓶の蓋を取り、随分とくたびれた南部鉄器に水を満たした秀之進は、それを金輪(竈の口に嵌め込んだ金具)に乗せた。
「神蔵はただの仕事仲間にございます。私の上役のようなものでございましょうか」
目を丸くして口を半開きにしたまま固まった重右衛門は、阿呆のように菊乃の顔を見た。自然と零れる笑みを抑え切れない。
「さ、左様でござったか。わっはっは。わーっはっは」
わーはっはの意味は判らないが、とにかく首の皮一枚で繋がったようだ。この頃の武士にとって、婦女子とこのような会話を持つことは清水の舞台から飛び降りるようなもの。全くもってイケてないダサダサの中坊男子が、思いを寄せる女子の前で見せる失態に限りなく近い。
「それでは、おいとまさせて頂きます」
鈍感お菊は腰を上げると、愛想よくお辞儀をした。
「うむ。気を付けて参られよ。わーっはっは」
重右衛門のわーはっはは止まらない。秀之進は番茶の茶葉を入れた急須に鉄器からお湯を注ぎ、三人分の湯飲みと豆大福と共に盆に載せて振り返った。しかし、既にお菊が居ないことを知って肩を落とした。
「あれ、お姉ちゃんは帰ってしまったでございますか?」
菊乃との会話を反芻しながら、ニヘラニヘラと相好を崩していた重右衛門は、その顔をキリリと引き締めたかと思うとクルリと秀之進の方に振り返る。そして息子に向かってこう聞いた。
「秀之進はお菊どのが好きか?」
「はい! 大好きでございます!」
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