時は1635年(寛永12年)、大坂夏の陣で大阪城が落城してニ〇年。豊臣氏が滅んだ衝撃も冷めやらぬ一方で、これから永きに渡って訪れることになる天下泰平の世に向けて、世の中も様変わりを始めた頃だ。この頃から江戸は、華やかで活気に満ちた独自文化を醸成してゆくことになる。

 それは浄瑠璃や歌舞伎などの演劇、或いは浮世絵に代表される絵画、または俳句、短歌、連歌として親しまれる文学などの芸術分野だけに留まらず、朱子学、蘭学といった学問分野にまで及んだ。いわゆる「読み・書き・そろばん」の浸透には、この頃に発展した寺子屋が主要な役を演じ、その広まりが国の学問の礎を築いて行くことになる。

 それら文化の百花繚乱と急激な時世の移ろいの陰で、時代に取り残された者たちも多く存在していたのは事実で、彼らは江戸の暗部として泥水を啜るように生きていた。


 水面に浮かぶ浮子うきは、先ほどから水の流れに合わせてユラユラするだけで、一向に魚信を伝えては来ない。おそらく、その下に沈む針先の餌は、既に魚にかすめ取られているに違いない。しかし秀之進はそれに気付く様子も無く、ただぼんやりと糸を垂れるだけだ。水面で照り返す陽の光が刺す様に目を射抜き、光と影がない交ぜとなった複雑な模様をその顔に浮かび上がらせているのにも拘らず、彼の心はどこか遠くを彷徨い歩いているのであった。

 「秀坊、釣れてる?」

 川沿いの通りに面した茶屋から、頭に玉簪たまかんざしを差した娘が出てきて、秀之進の後ろから声を掛けた。年の頃なら十六七くらいだろうか。あどけなさの残る丸顔にクリリとした大きな目が印象的で、対してシュッとすぼめたように結ばれた小さな口が、両目と対照的に大人びた様子を混ぜ込んでいる。とは言え、五尺をようやく上回る程度の背丈が災いしてか、男に媚びる様な艶めかしさは微塵も感じられず、萌黄色の地に朱の椿をあしらった着物の華やかな印象も、若干持て余し気味といったところか。むしろ、腰に巻かれた前掛けと襷に掛けた姿の方が堂に入ったものと言えよう。町の皆は、いい年頃になっても輿こし入れ(結婚)しない彼女を心配したが、本人は気にする様子も無いようで、威勢の良い町娘の快活さで行き遅れを心配する者たちを笑い飛ばしていた。

 「なんだ、お姉ちゃんか・・・」

 「なんだは無いでしょ、なんだは」

 生意気な男の子に対してもにこやかに返す彼女の姿は、本当の姉のようだ。彼女は秀之進の隣に腰を下ろした。

 「元気が無いみたいに見えるよ。どうしたんだい?」

 「父上が・・・」

 「ははぁ~ん。さては何か悪さでもして、お父上に叱られたんだね?」

 「違う。そんなんじゃないさ!」

 怒りに満ちた視線でもって秀之進は彼女をキッと睨んだが、怒りをぶつけるべき相手が違うことに思いが至ったのか、また直ぐに俯いた。そして釣竿を立て、針先を手元に寄せる。やはりそこに取り付けられていたはずのミミズは、いつの間にか誰かに喰われてしまっていたようだ。しかし秀之進はそれを認めた後も餌を付け直すわけでもなく、そのままからの針を川に戻し「ふぅ」と深いため息をついた。

 それを見た娘が目を丸くした。

 「嫌だよ、この子は。まさかもう色気づいちまったんじゃないだろうね? お相手はどこの誰だい? 駕籠屋のお花ちゃんかい?」

 彼女の的外れな言いがかりに、秀之進は怒る気力も失せて恨めしそうに顔を見返した。

 「あははは、ごめんよ、ごめんよ。ちょっとからかっただけだよ」

 そう言いながら彼女は秀之進の肩に腕を回し、彼の肩を揺する。

 「言ってごらんよ。私が何かをして上げられるわけじゃないかもしれないけどさ、話を聞くだけだったら・・・」

 ぐぅぅぅぅ。

 その時、秀之進のお腹が鳴った。あまりに大きな音で響いたため、娘は目を見開いて言葉を失った。開いた口を閉じることも忘れている。秀之進の方もどうしたら良いか判らないらしく、真っ赤な顔で口を真一文字に結び、荒い鼻息を漏らしながら水面に浮かぶ浮子に集中する振りをした。

 「ごめんごめん。気付かなかったよ。ちょっとここで待ってな」

 そう言って茶屋に駆け戻った娘は、四角い皿に団子を三串ばかり乗せて戻って来た。

 「ほら、お食べよ。腹が空いてるんだろ? どうせ売れ残りだ。お代はまけておくよ」

 「・・・」

 「ほら、食べなよ。いいからお食べ」

 最初は彼女の言葉を無視していた秀之進であったが、娘がしつこく繰り返すものだから、ついつい手が出てしまった。気が付くと、いつの間にか三本目に突入していた。

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