第3話 SOS
車からおりたとき,頭上で一声があがった。羽ばたきながら瓦で葺かれた屋根を戴く塀をこえて敷地内から聳える大樹の横枝に舞いおりる矮鶏の勇姿を認めた。
「グッジョブ」親指を突きあげる誠皇晋に卵を手渡す。「すき焼きの美味い店を探すか」
「美味しかった,手料理は,ごちそうさまです」たどたどしい日本語を並べながら肥えた短軀の中年男が,年若い2人の男をひきつれて格子戸から出てきた。3人揃いでコーディネートしたような,光沢のある上着から覗くけばけばしい柄物のシャツが目に痛い。男たちに紛れて杖に縋りつつ,姿を見せた老人が深々と頭をさげる。
中年男が叶に気づき,若者たちに何か言った。野卑な笑い声が漏れる。
叶が僕の背後に隠れた。男たちの荒んだ視線が一斉に集中した。
「アンニョンヒ カセヨ」がたいのよい誠皇晋が声をかける。男たちは不機嫌そうに視線を逸らし,ベンツに乗りこんだきり見むき一つしないで去っていった。
「いや~,立派ですね」誠皇晋が大股で老人の脇を擦りぬけ,格子戸の門を潜る。老人が慌ててあとを追うが,誠皇晋の声は既に距離を隔てた位置から聞こえる。「こういう古民家を取材してみたかったんです」
「取材とな! そんなこった大迷惑じゃ! 断る! 出ていってくれ!」
叶と顔を見あわせ,おずおずと敷地内に足を踏みいれた。
広大な庭に植えられた種々の樹木が,飛び石の施される細長い通路を塞いでしまいそうに枝垂れかかる枝葉を絡めあい,晴れ渡る正午間際の空の下に久遠の夜の領域を現出させていた。
「屋根裏は何層構造ですか」誠皇晋が通路の果ての玄関から屋内の方々を覗きこんでいる。「温暖な地域なのに合掌造りとは珍しい。養蚕か何かされてるとか?」
「勝手によそさまの家を!――」杖が飛び石につっかかり,老人が転倒した。
叶が駆けよったが,老人はその手を払い,杖を振りおろした。叶が頭を抱えて突っ伏した。老人は倒れこんだまま杖をなお打とうとする――
叶に覆いかぶさった。
「虐待っていうんですよ,こういうの」誠皇晋が杖の先端あたりを握りしめている。頭上擦れすれのところで杖が静止していた。
「よそもんが口出しするな!」
「ごめんなさい,おじいさま――旅の人たちなの。泊めてあげていいでしょ」
「馬鹿を言え! すぐに出ていけ!」
「でも村にはホテルも旅館もないし――」
「村からすぐに出ていけ!」
「以前にも1人泊めてあげたじゃない――」
「馬鹿たれが!」唾が散った。「すぐに村から出ていけ!」また杖を振りあげる。
「分かりました。お暇しますよ」誠皇晋が僕の腕をひき,門へと戻りはじめた。叶から離れるとき二つの視線が縺れた。
人を助手席に押しこんで反対側の座席に飛びのり,エンジンをかけると同時に低い声で言った。「ヤベェよ――誰か監禁されてる。あの巨大な屋根のなかに」
「……何でそんなこと?」
「モールス信号だよ。監禁されてる人間がSOSを送ってきた。多分,さっきいた韓国ヤクザと関係ある」
ヤクザと聞いて縮こまる思いがした。
「あの子も危ないかもな。ハングルで話してた。次の生贄だって」
「――生贄って何」
「分かんねぇよ。とにかくすごくヤベェってこと」
「警察に相談しよう」
「証拠もないのに踏みこんだりしねぇよ。事が起こらなきゃ警察は動かない。それに相談したところで適当にあしらわれて終わりだ。駐在も大方村の人間だろうよ。村の人間はみんなグルだ」表情の動きで何かを伝えようとする。周辺にある家々の雨戸が次々と閉ざされていく。
車が発進した。
サイドミラーに映りこむ牡丹萬華邸の大樹に微かに動くものがある。一枝に蹲る矮鶏が身じろぎしたのだった。
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