第41話 家が基準だからこそ
素早く肝を運ぶためには人数がいる。そして、気取られないようにしなければならないから、藩に入るまでは山の中を通って行くことになる。
そこで、足の速い者を何名か選んだ。それと同時に、身を潜めるための小屋を建て、いつ実行してもいいように、その者たちを待機させた。
実行役には一番足の速かったこの男が選ばれた。男はこの時までは、殿を救うためには仕方がないのだと考えていたという。
「しかし、あなたの娘を見た瞬間、何をやっているのだろうという気持ちになりました」
誰かを救うために誰かを殺す。こんなのは間違っている。
しかし、男の一存ではどうにも出来ないほど、藩の者たちはこの娘の肝を望んでいる。
「目を閉じて、娘の心臓を一突きしました。よほど上手く刃物が入ったようで、娘は身じろぎ一つしませんでした」
男はしばらく呆然としていたものの、見張り役の僧に促されて肝を取り出したという。そして夜明け前、ある程度道が見えるようになったところで走り出したという。
「次の者に手渡した瞬間、俺は腰を抜かしていました。しばらく、あの山小屋で呆然としていたものです」
自分がやったことが何なのか、解らなくなったという。
その後、肝は無事に届き、それを食した殿は病が快癒した。娘の肝が効いたのか、それとも他のものなのか、男には解らない。しかし、藩の中であの肝が効いたというのを疑う者はいなかったという。
「どう謝っても、あなたは許してくれないことでしょう。そして俺も、この気持ちをどうしていいのか解りません。でも、あなたの娘さんのおかげで、多くの者が救われた。これも事実です」
だからと、男はそこで脇差しを抜いた。
雨月が警戒するように自らの刀の柄に手を掛けたが、飛鳥はそれを制する。
「何をするのですか?」
飛鳥の問いに、男は黙ったまま脇差しを髷に差し込むと、そのまま切り落とした。
「出家するのをいつにするのか、ずっと考えておりました。しかし、あなたに何も説明しないままにも出来ないと思っていました。これで、思い残すことはありません。娘さんの菩提を弔わせてください。一生を懸け、この罪を償います」
男はそう言うと、深々と頭を下げた。
それに驚いているのは妙観院だった。だが、すぐに気持ちを落ち着けると
「説明して頂き、ありがとうございます」
それだけ言ったのだった。
「何だかもやもやだなあ」
「そうだな」
江戸への帰り道。優介と飛鳥は今回の事件をどう飲み込めばいいのか解らずに、ゆるゆると歩いていた。
途中まで一緒にいた雨月はさっさと帰ると、先に行ってしまった。もう道中に不安はないと判断したのだろう。
「誰かに仕えるって、大変なんだな」
「そうだな」
それは飛鳥も思ったことだ。この人がいなければ立ちゆかない。その切実な思いが今回の事件を生んだのだ。他に選択肢がないからこそ、余計に気持ちは暴走し、止められなくなったのだろう。
他にはいない。だからこそ、別の誰かを犠牲にしたって構わない。そんな心理が多くの人に働いた結果だ。
もしも飛鳥が、桜鬼が同じように病に苛まれ、娘の生き肝しか効かないと言われた時、雨月も同じように振る舞うのだろうか。
主はお前しかいないのだからと、他の誰かを躊躇いなく犠牲にするのだろうか。
「飛鳥さんも、いつかは家のために判じ物を止めるんだよね」
ぼんやりと雨月のことを考えていた飛鳥に、優介がそう問うてくる。
いつかは解らないが、確実に別れる日が来る。それを、今回の事件で優介も考えていたようだ。
家を基準として動く今の世の中、家督を継ぐ立場にあるのならば、いつまでも我が儘は通じない。
一度目は兄が家督を継いだ時にそれを見ている。そして今、飛鳥が大きな家を背負っていると知っているからこそ、その重みが嫌というほど感じ取っているのだ。
「家督を相続するって、結局のところ、自分を殺すことでもあるんだよね。でも、それは仕える人たちも同じで。なんか、難しいよな」
優介はこの事件で何が何だか解らなくなったよと頭を掻く。
「そうだな。だが」
まだ俺は、お前と肩を並べて歩きたいよ。
いつか来る別れは、永遠の別れだ。
優介は解りやすく家督を継ぐということだけを考えているが、そもそも種族が違い、住んでいる世界が違う。
一族のために飛鳥が桜鬼に戻れば、もうこうやって一緒に歩くことも、馬鹿な話をすることもない。
飛鳥はそんな思いを口にすることは出来ず
「早く江戸に戻って、弁天屋でゆっくりしたいな」
そう言って誤魔化した。
「あっ、そうだ。菫さんに土産を買って帰らなきゃ。何がいいかな。饅頭かな」
優介はすぐに、菫のことを思い出す。それだけ懸想しているのならば、菫とくっつけばいいのにと、飛鳥は苦笑してしまった。
お前は家に縛られていないんだからさ。
しかし、そんな余計な口出しはしない。
「饅頭は止めておけ。腐っちまうよ。次の宿場町で手頃なものを探そう」
ただ、その土産物が、新たな一歩になればいいなとは思った。
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