第46話 浦辺先生
朝の温室に行くと決めたは決めたのだが、それでも翌朝学校に着いてから、温室に向かう決意を新たにしなければならなかった。
足が重い、だなんて本当にあるんだな、と思いながら足を進める。
温室にたどり着くと開いた南京錠が掛けられていたから、一度深呼吸をして、それから、えいっとドアを開ける。
しかし。
「げっ」
思わず口をついて出た。
「げっ、とはなんじゃあ、げっ、とは」
なんとそこには川内の代わりに浦辺先生がいたのだ。
じょうろで鉢植えに水を遣っている。じょうろを持っていたおかげで、頭をギリギリとやられる刑を免れたらしい。
けれど、これは完全に予想外だ。
どうすればいいのかわからなくて、途方に暮れる。
「川内か?」
仏頂面でそう言うので、曖昧にうなずいた。
「はあ……まあ……」
「今日は日直じゃけえ、もう教室じゃ。じゃけえワシが代わりにやりよる。まあ、たまにはの」
「あ……ああ……日直……」
「なにをボーッと突っ立っとるんじゃ。入れ」
まるで脅迫されている気分で、素直に言う通りにする。浦辺先生と温室で二人きり。あまり嬉しくない状況だ。
これはいったいどうしたらいいんだろう、とうつむいて考えていると。
「お前、元気か?」
「えっ」
急に話し掛けられて、慌てて顔を上げて浦辺先生に視線をやる。
しかし浦辺先生はこちらを向いていなかった。
「お、お前は綺麗に咲いたなぁ」
じょうろで水を遣りながら、先生は鉢植えに話し掛けていた。優しい声音で。
「せ、先生……」
「ん?」
「今……」
「ああ、似合わんか」
にやりと笑って、俺のほうに振り向く。
開いた口が塞がらない。まさか、浦辺先生も植物の気持ちがわかるのだろうか。川内だけじゃないのだろうか。実は他にもいるのだろうか。
そんなことをぐちゃぐちゃと考える。
「お前、知らんのんか? サボテンにはテレパシーがあるいう話」
呆然としている俺に向かって、浦辺先生は淡々と語る。
「あ、いや、知っとるけど……」
「ずっと話し掛けて育てたサボテンは綺麗な花を咲かせるらしいけえの。ホンマかどうかはわからんが、どうせならやってみてもえかろうが」
あまりにも有名な話だ。もちろんやってみる人もいるだろう。
サボテンは、優しくされれば喜ぶし、侮蔑されれば悲しむ。
「人間と、なんら変わらんよのう」
「……うん」
心なしか、しゃべっている内に、浦辺先生の表情が穏やかになってきたような気がする。
カタギじゃない、だなんて言われて、学校で一番怖いと噂される先生とは思えない雰囲気だ。
そうだ、いつだってこの温室は、人を穏やかにする。浦辺先生は教室とは違い、いつもこの場所では優しい表情を浮かべていた。
先生は温室の中をぐるりと見回すと、言った。
「ワシはの、神崎。川内は植物の言葉がわかるんじゃないかって思うとる」
「えっ!」
ぎょっとする。なんで。なんで浦辺先生がそんなこと。先生は知っているんだろうか? 川内は浦辺先生には言っているんだろうか。
自分の不思議な力のこと。
完全に頭の中が混乱しまくっている俺には気付かない様子で、浦辺先生はにっ、と歯を出して笑う。
「バカバカしいじゃろ?」
「……いや」
「川内には言うなよ、笑われちゃあいけんけえのう」
そう言って苦笑する。ということは、聞かされていないってことなのだろう。
とりあえず落ち着こう、とこっそりと息を吐く。俺一人、アタフタしすぎだ。
「あの子がこの温室を世話するようになってから、明らかにここが変わったんよな。植物の言葉を聞いて、ほいで世話しとるんじゃ。じゃけえ、変わったんじゃないかのう」
俺は先生の言葉を受けて、温室の中を見渡す。
居心地の良い温室。いつだって温かで、心穏かになれる場所。
川内が作り上げた温室。
先生は、川内になにも言われなくたって、そこに近付いたのか。この温室で過ごすうちに。この温室を見ているうちに。
なのに、俺はいったい、なにを見ていたのだろう。
ふと、思う。
俺は、理解しているふりをしていただけだったのかもしれない。心の底では、なにをバカなことをって思っていたのかもしれない。
だから、俺よりも植物を優先したことが、我慢ならなかったのかもしれない。
優しいふりをして、ただ傍にいたいがために、理解した素振りを見せてきたのかもしれない。
実は、信じようともしていなかったのかも、しれない。
「川内だけじゃのうて、ワシも、お前も、たぶん皆、聞こえるのかもしれんぞ。聞く気になれば」
優しい声が耳に入ってくる。
俺は緊張を解いて、ベンチに腰掛ける。なぜか、浦辺先生の言うことを素直に聞けた。心を穏やかにしようと務めてみた。
もしかしたら、俺にもわかるのかもしれない。彼らの気持ち。
「ここに来ると、安心できると思わんか? 川内が丁寧に手入れしてくれるおかげで、そうなんじゃないかと思うがのう」
そうだ。いつもここに来ると、安らげた。それは川内がいたからかもしれないけれど。
でも。
なぜだろう。今日はなんだか落ち着かない。川内がいないからかもしれない。浦辺先生と二人きり、なんて状況だからかもしれない。
でも、それだけじゃないような気がした。
さっきから、なにか、嫌なものが俺に向けられている気がして仕方ない。
……敵意。あるいは、悪意。
そういうものを向けられている。そう感じた。
ゾワッとなにかが身体をすり抜けた。暖かいのに、寒さを感じて二の腕を擦る。
なにが、誰が、それを俺に向けている?
「お前ら、付き合うとるんじゃろ?」
急にそう言われたので、驚いて顔を上げて浦辺先生のほうを見る。けれど、先生はもう俺に背を向けて、水やりを始めていた。
「えーっ……と、あの」
もしかしたら、学生は勉強が本分、なんて怒られるのかと考えて、どう答えようかとしどろもどろしていると、浦辺先生は再び振り向いた。
「別に隠すことでもないじゃろ」
「……はあ、まあ……」
どうやら浦辺先生は、そのあたりには寛容な人らしい。
ちょっと意外だ。
「なんだかな、最近元気がないけえ。喧嘩でもしとるんか?」
「いや……喧嘩っていうか」
「謝っとけ」
「え?」
尾崎と同じことを言うので、思わず聞き返す。浦辺は少し声を大きくして、再び言った。
「謝っとけ。どうせお前のほうが悪いんじゃ」
「ひどっ」
もう苦笑いするしかない。
しかし浦辺先生は少し首を傾げる。
「川内のほうが悪いんか?」
「いや、悪くない……けど」
「ほうじゃろ。じゃけ、謝っとけって。こんな綺麗な花を咲かせる子が悪いわけがなかろうが」
ムチャクチャだ。俺の言い分は聞く気はないらしい。まあだいたい正解なので、それはいいのだが。
ふと視線を上に向けると、あのテーブルヤシがあった。
折れた茎のところに添え木がしてあって、ぐるぐるとテープを巻いている。ちゃんと繋がっているのか、まだ葉は青々としていた。
「あ」
「ん?」
俺の視線の先を追って、先生もそのテーブルヤシを見る。
「ああ、これか? 折れたみたいなけえ、川内が治療しよったぞ」
治療。まるで、人間みたいだ。でも、他に当てる言葉はない気がする。
ぽっきり折れて、もうダメだと思っていたのに、まだちゃんと生きていた。
治療、したから。
「これ、俺が不注意で……」
「ああ、じゃ、踏み台壊してしもうたのお前か」
「……すみません」
思わず謝ると、浦辺先生は古かったからな、とつぶやいた。
「謝っといたほうが……ええよな」
俺が小さく言った言葉に、先生は首を傾げる。
「テーブルヤシにか。それとも川内にか」
俺はちょっとの間考えて、そして言った。
「……どっちも」
「そりゃそうじゃろ」
「……うん」
そうつぶやいて黙り込んでいると、浦辺先生はテーブルヤシを指差して言った。
「こっちはすぐに謝れるじゃろ?」
「えっ」
思わず顔を上げて、先生を見る。
浦辺先生は、まっすぐにこちらに視線を向けている。
「今?」
「今」
冗談かと思ったけれど、浦辺先生は真剣な様子でうなずいた。戸惑っていると、さらに言葉を継いでくる。
「嫌なんか?」
「嫌じゃないけど」
これは、逃れられそうもない感じだ。
人前でそうするのはかなり抵抗があったけれど、俺は立ち上がってテーブルヤシの前に立ち、見上げた。
もう一度浦辺先生のほうへ振り返る。先生は、顎をしゃくって、ほら、と俺をうながした。
こうなったらもうヤケだ。俺は思い切り頭を下げた。
「すみませんでした!」
温室の中に静寂が訪れる。俺は頭を下げたまま、ただ時間が過ぎるのを待った。
すると。
感じた。さっきまで俺に向けられていた敵意が波が引くように去っていく。いつもと変わらない温室に変化していく。
慌てて頭を上げて、きょろきょろと辺りを見渡す。変わった。空気が。
愕然と立ちすくむ。
嘘だろう?
「どうかしたんか?」
先生が首を傾げている。
「いや……」
確かに、感じられた。俺にも。
川内のようには受け止めてはいないのだろうけれど、確かに感じた。
呆然としている俺に、浦辺先生が声を掛けてくる。
「どうした?」
「俺」
慌てて、ドアに向かって駆け出した。
「謝らないと」
「おい、神崎!」
呼び止められて、振り向く。浦辺先生が苦笑しながら、言った。
「お前ええ加減、卒業までには敬語を使えるように、ちっとは気を付けとけ」
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