第47話 敵わない

 その足で教室に向かう。

 日直だというのなら、教室にいるのだろう。

 校内はまだ時間が早いからか、パラパラとしか生徒はいない。どこからか運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。


 教室にたどり着く。後ろの扉から中をそっと覗いてみると、川内が黒板に向かっていた。チョークを持って、日付を書き直しているようだ。


 教室には、一人しかいない。


「お、おはよう」


 意を決してそう話し掛けると、川内は驚いたように、バッとこちらに振り向いた。

 そして何度か目を瞬かせたあと、小さな声で、「おはよう」と返してきた。


「あの……」


 俺はそっと歩み寄った。足音一つたてないように。そうしなければ、逃げ出される気がして仕方なかった。


 川内に近付き過ぎないように、離れた位置で足を止める。

 それから、いったん口を開きかけてはみたけれど、なにから言えばいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。


 川内はちょっと首を傾げて、俺を見つめている。


「あ、えと、日直、忙しい?」


 邪魔をするのもなんなので、そう問うてみる。

 川内はゆっくりと口を開いた。ものすごく久しぶりに声を聞くような気がした。


「ううん、もう終わる」

「……そう」


 それから、少しの静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。


「あの……」


 とにかく、なにか言わないと。

 俺はなにかいいことが言いたかったけれど、なにも思いつかなくて、結局、事実を述べることにする。


「あの……俺、あのテーブルヤシに謝ったんじゃ」

「うん」


 川内は俺の言葉に首を傾げることなく、うなずいた。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「うん、知っとる」

「え」


 川内は開いている窓の外に目を向けて、それからもう一度こちらに振り向いてから、言った。


「皆が教えてくれたけえ」

「えっ、伝播するもんなんっ?」


 だってあれは、温室での出来事なのに。

 窓の外では、木々が揺れているのが見える。

 植物同士でここまで伝えてきたということか。


「いつもじゃないけど」

「あ、そう……」


 そう呆けた返事をして、しばらくじっと川内の顔を見つめてしまう。


 なんだ、と思った。なんだか力が抜けた。

 なんだって、バレちゃうんだな。

 これは、敵わない。


 そう思うと、口から小さく笑いが漏れた。


「なに?」


 川内は首を傾げる。

 俺は慌てて顔の前でひらひらと手を振った。


「あ、いや、あの……ひどいこと言って、ごめん」


 そう言って頭を下げる。

 少しして、ちらりと川内を見ると、彼女は首を横に振った。


「ううん、私も、悪かったけえ」

「いや……」


 そしてまた、気まずい空気が流れる。

 これはこれからどうしたらいいんだろう。


「あ」


 ふいに川内が声を上げる。


「え」

「一年生が、温室に来とる」

「えっ?」

「たぶん、入部希望。早う行ってあげんと、先生しかおらんよ」


 チョークを置いて、慌てたように川内は歩き出す。

 すごい。そんなことまでわかるのか。


 俺は階段を降りるところで、川内が歩く横に追いついた。


「浦辺先生が顧問じゃって知ったら、逃げるかな」

「かもしれんね」


 苦笑しながらそう返してくる。

 なんだか自然で、もうわだかまりはないように感じた。

 これは仲直り、ということでいい気がする。俺はほっと息を吐いた。


 それにしても、植物の言葉が聞けるって、すごい。ここまでとは思わなかった。

 きっと本当に、温室の前に一年生がいるのだろう。


 確信を持って、そう思う。

 今は川内の力が信じられた。


 ほんと、敵わない。

 悪いことできないな。もし秘密ができたら、周りに植物がないか確認しなきゃいけないよな。

 ……たとえば、そう。エロいこととか……。

 うん、部屋には絶対に植物は置かないようにしよう。


 なんてくだらないことを思っていると、ふいに横を歩く川内がぴたりと足を止め、俺のシャツの袖をくいっと引っ張った。


 そちらに振り向くと、彼女が俺を見上げていた。少し睨んでいるような目つきだった。


「……なに?」


 仲直りしたと思ったのは俺だけで、川内はまだ怒っているのだろうか。

 すると川内は少し口を尖らせて、言った。


「今、なにか悪いこと考えよったよね?」

「えっ、いや別に?」

「嘘。わかるんじゃけえね」


 それから彼女は俺を睨むようにじっと見つめてきた。


 なんでわかったんだろう。

 辺りを見渡す。ここは階段の踊り場で、周りに特に植物は見当たらない。

 じゃあどうしてわかった?


 となると、もしかして。

 つまりこれは、女の勘ってやつなのかもしれない。


 そういえば、尾崎もやたらに勘が鋭い。

 植物がどうこう以前に、女の子という人種には、なんでも読まれてしまうのか。


 しかし一応、否定はしてみる。


「いや、悪いことなんか考えとらんよ」

「嘘」

「ホントだって。早く行こう」


 俺は川内の手を握って引っ張る。川内はみるみるうちに頬を紅潮させた。


「もう! こんなんでごまかされんのんじゃけえね!」

「うん、わかった」


 前を向いて、川内に見えないように、こっそりと息を吐く。

 これは絶対に勝てない。


 俺は心の中で木下に呼びかける。

 俺たちは、尻に敷かれるしかなさそうだよ。


 そんなバカなことを思いながら、俺は川内の手をしっかり握ったまま、温室へ足を進めたのだった。


          了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女のテレパシー 俺のジェラシー 新道 梨果子 @rika99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ