第44話 桜の木 その2

 とはいえ、すぐにそんないい場所が見つかるわけもない。

 だいたい、お昼を広げるのにいい場所というものは、もう埋まっているものなのだ。


 温室の傍を通って、見つかるのも気まずい。


 まあ、最悪、お昼は抜いてもいいけどなあ、と考えだしたところで。

 体育館の横の桜の木が目に入った。


          ◇


 体育館の中からは、バスケットボールが跳ねる音が聞こえている。

 バスケ部の昼錬だろう。

 俺は体育館の陰に隠れるように外壁に背中をあずける。

 見上げれば、桜の木が枝を伸ばしていて、木漏れ日が優しく降り注いでいる。もう夏だというのに、木陰は涼しさを感じるほどだ。


 桜の木。

 川内を意識するようになった、そのきっかけの木。


 確かこの木は、日本語でしゃべるのだったか。

 川内に対しては。


 俺は、あたりをキョロキョロと見渡す。

 うん、誰もいないよな、と確認して。

 俺は再度、桜の木を見上げた。


 もちろんもう花は散っていて、青々とした葉が緩やかな風に揺れている。


「こ」


 小さな小さな声で。


「こんにちは」


 桜の木を見上げて、そう話し掛ける。

 もちろん桜はただそこにあるだけだ。


 すると、少しして。

 さわさわと葉が揺れた。


「えっ」


 続いて、一陣の風が通り抜け、俺の髪を揺らす。


「あっ……、あー……」


 思わずその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。

 今、いったいなにに驚いたんだ。そんなこと、あるはずがないだろう。


「恥っず……」


 ……そりゃそうだ。

 桜が俺の挨拶に応えてくれるわけもない。いったいなにを期待していたんだ。


 川内じゃあるまいし。


 俺はもう一度立ち上がり、あたりを見回す。

 体育館の中からは、変わらずバスケットボールが跳ねる音と、キュッキュッというシューズが床を擦る音が聞こえてくる。

 外には、誰もいない。

 うん、大丈夫。誰にも見られていない。


 そういえば、川内が初めて植物に話し掛けたのを見たとき、彼女は俺に言った。


『気持ち悪く……なかった……?』


 それから、朝の温室に行きたいと言ったときも、こう言った。


『ずっと花に話し掛けよるよ? なんか……気持ち悪くない……?』


 きっと川内は、『気持ち悪い』とからかわれてきたのだろう。

 もちろんそのことは腹立たしいとは思う。


 でも今、自分が桜の木に話し掛けるのを、誰にも見られたくないと思った。

 恥ずかしいと思った。


 そんな俺が本当に、川内の気持ちに寄り添えることができているのだろうか。


 俺はまた体育館の壁に背中を預け、さわさわと葉を揺らす桜の木を見上げる。そしてそのままズルズルと座り込んだ。

 ひとつため息をつくと、手に持っていた袋から、ガサガサとパンを取り出し、やっとのことで昼食にありつく。

 もうほとんど時間がない。早く食べて、教室に帰らないと。


 パクッとパンにかぶりつき、モグモグと口を動かしながら、なんだか物悲しい気持ちになった。

 今まで、四人で賑やかに過ごしていただけに、今のこの状況が、情けなくて仕方がない。


 はあ、と大きくため息をつく。

 するとなにかがボトッと足元に落ちてきた。


「うわっ」


 驚いた。慌てて立ち上がり、それを見下ろす。心臓がバクバクいっている。

 目を凝らしてよくよく見てみると。

 毛虫だった。

 うにうにと動いて、慌てたように桜の木のほうに戻ろうとしているように見えた。


「あー……」


 川内にはあんなに綺麗な桜吹雪を見せたというのに。

 俺には毛虫を落としてくるのか。


「あー、もう、ほんと……もう……」


 もしも桜に意思があってやっているのだとしたら。

 やはり俺は嫌われているのかもしれない、とそう思った。

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