第40話 折れた茎と割れた植木鉢

 朝、少し寝坊して温室に向かうと、川内が長い棒を持って、天井の窓を開けようとしていた。


「あっ、やるよ」

「あ、おはよう」

「おはよう。いうても、早くもないけど」


 そんな挨拶を交わして、川内から棒を受け取る。


「ごめん、寝坊してしもうて」

「ううん、そんな日もあるよね」


 そう言って、にっこりと笑う。


「それより、窓が開かんのんじゃ」


 天井を見上げて、川内が言った。


「ああ、最近、変な音がしよったけえ。油を差さんといけん思いよったんじゃけど」


 言いながら、棒を持った手を伸ばす。しかし天窓はガタガタとは動くが、開きはしなかった。


「あれ、本当に開かん」

「どうしよう」

「とりあえず、開けてみるわ。あとで油貰ってくる」

「うん」


 川内はうなずいて、そして普通に水やりにかかった。窓は任せる、ということだろう。


 まいった。また今度また今度と、ついつい後回しにしてしまっていた。

 たしか、温室の外に踏み台があったはず。棒で開けるのは困難でも、直接窓を手で押せば、力も入るし開くだろう。


 俺は温室の外に回ると、そこに置いてあった木製の二段の踏み台を手に取り、温室内に持って入り、天井を見ながら足元に置く。足を乗せると踏み台はギシッと鳴った。

 古いみたいだから、まずいだろうか。けれど、少しの間のことだし、とそのまま二段目に足を置く。


 そして手を伸ばしてみるが、あと少しというところで届かない。


たわん届かない?」


 下から川内が心配そうな声で言う。


「あと少しなんじゃけど……」


 やむを得ない。踏み台から片足を外し、植木鉢が乗っている階段型の棚に乗せて、手を伸ばす。すると窓に手が届き、力を入れるとなんとか開いた。

 ほっと息を吐く。油を差すなら脚立もついでに借りてこよう。


 そんなことを思いながら、棚から足をどけて、踏み台に体重を掛けた途端。


「う……わ!」


 ふいに足元が覚束なくなり、下に身体ごと落ちる感覚がする。ミシッという音とともに踏み台が崩れたのがわかった。

 咄嗟に植木鉢が乗っていた棚に手を掛けるが体重が支えきれなくて、棚が揺れる。乗っていた植木鉢がグラグラと揺れているのが見え、これはまずいと手を離した。


「いっ……」


 そのせいで、思いきり後方に倒れ、しりもちをつく。

 同時に、何個かの植木鉢がガシャンと割れる音が聞こえ、目の端に、川内が駆け寄ってくるのが見えた。


「てー……」


 見てみると、植木鉢が三つ、落ちていた。それ以外のものは、なんとか棚の上に持ちこたえている。

 心臓がバクバクいっている。冷汗が出た。


 目の前の惨状は、大変といえば大変だが、思っていたほどではなくてほっとする。

 しかし、植木鉢の一つ、テーブルヤシといったか、小さなヤシが植えられていたものは哀れ、植木鉢が壊れただけでは済まず、茎のところから折れていた。


「あー……」


 やってしまった。


「大丈夫っ?」


 川内の声が聞こえる。

 大丈夫、と言いかけて、留まった。


 なぜなら彼女は、俺に向かってそう言ったのではなかったからだ。

 こちらに駆け寄ってきた川内は、俺の傍にはやってこなかったのだ。


「ああ、痛いね。うん、痛かったね」


 彼女は俺のほうをちらりと見ただけで、しゃがみ込んでテーブルヤシの鉢植えに手を伸ばした。そして折れた箇所にそっと手のひらを添える。まるでそれが治療であるかのように。


 俺は呆然とその光景を眺めていた。

 そしてそのうち、苛立ちが沸き上がってきた。

 そりゃあ確かに、俺はしりもちをついただけで、ケガ一つしていないけれど。

 それはないんじゃないか、と思う。


「なに、それ」


 思わず、口に出た。


「え?」


 川内は、顔を上げる。


「先に俺に『大丈夫?』って訊かない? 普通」


 自分で思っているよりも、冴え冴えとした声が出ている。

 川内は、少し怯えたような目をしてこちらを見ていた。


「えっ……だって」


 か細い声で返してくる。


「だって、神崎くんは……ケガしてないみたいだったから……。それで、この子は痛いって泣いているから……」

「はあ?」


 言いながら、立ち上がる。威圧的になるのはわかっていたけれど、そうしたかった。


「でも俺も一応、危なかったんだけど」

「あ、うん……」

「おかしくない?」


 そうやって川内を問いただすたび、怒りがだんだん大きくなっていくのがわかった。

 膨らんでいったその感情は、自分自身で制御できるものではなかった。

 今まで降り積もってきた不満が、一気に表に出てきたような感覚だった。


 だから、思わず言ってしまったのだ。


「だいたい、本当に痛いって聞こえよるん?」

「え」


 俺の言葉を聞いて、川内は動きを止めた。

 しまった、と思ったときは遅かった。

 川内はうつむいて、なにも言わなくなってしまった。


『信じんでもええよ。でも、笑わんでほしい』


 そう言われた。その通り、俺は笑わなかった。

 けれど嘲笑の代わりに、怒りをぶつけた。


 俺はどうしても、その気持ちを止められなかったし、止めようとも思わなかったのだ。


 川内の瞳が潤んでいる。俺が、泣かせた。

 そう思ったけれど、口元をきゅっと引き結んだ彼女の瞳からは、涙は零れなかった。


「……ごめん」


 今さらながらそう言うと、川内はなにも言わずに首を横に何回か振った。


 俺は再びしゃがみ込むと、割れた鉢植えのかけらを拾い集めた。

 二人してしゃがんで向かい合って、その作業をしていたけれど、二人ともなにも言わないままだった。

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