第36話 朝の温室
あまり遅くなってもいけないので、結局、カフェを出て帰ることにした。
「足、大丈夫?」
「うん、絆創膏貼ったし」
とはいえ、心なしかヒョコヒョコしているような気がして、ゆっくりと駅までの長い歩道橋を歩く。
改札口前まできて、時刻表を見上げる。
「いいの、ある?」
「うん、十五分後にあるよ」
そう言いながらバッグからICカードを取り出している。
「今日は楽しかった。ありがとね。お昼もご馳走になったし、お姉さんにもお礼言うといてね」
川内はこちらを見て、にっこりと笑ってそう言う。
今日のデートはこれでおしまい、の合図の気がしてなんだか寂しくなった。
本当に、あっという間だった。
明日には学校で会えるのだから、寂しく思うのはおかしいのかもしれないけれど、なんだか離れがたくて足を動かせなかった。
「バスは、大丈夫?」
川内が首を傾げる。
「あっ、ああ、うん」
ふいにそう訊かれて、慌ててうなずく。
明日も学校で会える。コミュニケーションアプリで連絡も取れる。デートだって今日に限らず何度だってできる。
でも、もっと二人で一緒にいたかった。
「あの……朝、温室に行ってもいい?」
だから、そう言った。
「えっ、朝?」
「うん、なるべく邪魔にならないようにするし、手伝うし」
放課後だって、昼休みだって、なんなら授業中だって席が前後なのだし、ずっと一緒といえばそうなのかもしれない。
けれどどうしても、わがままと思われても、二人きりの時間が欲しかった。
すると川内はしばらく困ったように考え込んだ。それからぼそりと言った。
「でも……私、変な人みたいなよ?」
「変な人?」
「うん……ずっと花に話し掛けよるよ? なんか……気持ち悪くない……?」
そう言って、おどおどとしてこちらを見上げてくる。
「大丈夫、こないだ見たとき、別におかしいと思わんかったし」
「そう……?」
少し不安げに考え込んでいるが、ちょっとして顔を上げる。
「ほいなら、大丈夫。いうて、私が許可出すのも変じゃけど。私のものじゃないんじゃし」
苦笑しながらそう言ってくれて、ほっと息を吐く。
「うん、じゃあ、明日」
「明日ね」
そう言って手を振る。川内は改札口の中に入っていく。入ってすぐにこちらに振り向き手を振ってきた。だから俺も手を振り返す。
離れがたくはあったが、いつまでもこうしているのもどうかと思って、踵を返す。
改札口の前の階段を降りる直前、もう一度振り返ってみると、川内の姿はもうそこには見えなかった。
◇
翌朝、温室に向かうと、やっぱり川内はもうすでに到着していた。
「いったい、何時に来よるん?」
この前と同じくらいの時間に到着したのだが、やっぱり遅かったらしい。
「さっき来たばっかりよ」
微笑みながら川内は言う。
ということはたぶん、これ以上早く来る必要はない、ということなのだろう。
俺はよこしまな気持ちでここに来ているが、川内は純粋に植物の世話をしているのだから、邪魔をするのも気が引ける。
「なにしようか?」
「あっ……あのね、じゃあ、天井の屋根開けて。今日、暑そうなけえ」
「うん、わかった」
制服も夏服ではないが、ブレザーは脱いで長袖のシャツで過ごすようになっていた。
温室は今はとても心地良いが、そのうち暑すぎて長い時間過ごすのはしんどくなってくるのかもしれない。
立て掛けてあった長い棒を手に取り、天井の窓を開ける。下から上に動かすので、けっこう力が必要だった。ギイッ、と嫌な音がするので油を差したほうがいいのかもしれない。
「下からハンドルとかで操作できるのじゃったらええんじゃけど」
川内は眉尻を下げてそう言う。
もちろんそういう便利なもののほうがいいだろう。でも公立高校にある温室だし、できるだけ安価なものになっているのではないだろうか。
いや、もしかしたら歴代の園芸部員で手作りしたという可能性もある。ホームセンターに行ったとき、部品がいろいろ置いてあったから、それも不可能ではない気がする。
でもなんにしろ、こうして川内の役に立てるのなら少々不便なほうがいい、と思ったのは内緒だ。
「元気?」
「えっ」
ふいに川内の声がして、慌てて振り返る。
川内も驚いたようにこちらに振り向いた。
ああ、そうか。違った。花に話し掛けていたのだ。
「あっ、ごめん、呼ばれたかと思うて」
「あっ、ううん」
「ごめん、気にせず続けて」
「う、うん」
川内はうなずくと、また一つ一つの植木鉢に声を掛けながら水やりをしていく。
「今日も綺麗なね」
「もうそろそろ?」
「じゃあ、今度、広いところに移ろうね」
俺はその優しく穏やかな声を聞きながら、次の窓を開けるのに取り掛かった。
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