第30話 デートの約束
それから川内はしばらく目元にハンカチを当てていたが、少しして手をまた膝の上に下ろしてから、顔を上げた。
もう涙は流れてはいなかった。
「聞いてくれて、ありがとね」
「ああ、うん。いや、こっちこそ、話してくれてありがと」
そう言うと、川内ははにかむように笑った。
「こんな朝早くに来る思いよらんかったけえ、びっくりした」
川内がそう言って首を傾げる。
ああ、そうだった。本来の用事があるのだった。忘れてた、ヤバい。
「ああ、いや、その、昨日の……謝らんといけん思うて」
「あ、ああ……」
川内はまたうつむいた。けれどさきほどまでのうつむきとは違うと思う。
「あの、ついで、じゃないから」
「うん……」
川内は、こくりとうなずいて続けた。
「そんな、怒るようなことでもなかったんじゃけど……あのときは、なんか、腹が立って」
「いや、一発アウトでも仕方ないこと言うた」
姉ちゃんにもそう言われた。
「じゃけえ、謝ろうと思うて」
「うん……大丈夫……。本当は、嬉しかったけえ……」
ぼそぼそと、口の中で言うようなその言葉が、耳に届く。
嬉しかった? 本当に?
ということは。
「えーと、付き合うってことでいい?」
つい急いてしまって、そう口にしてから、はた、と気付く。
あれ、これ、脅しみたいになっていないか?
「あっ、それとこれとは話は別だから、断っても別に笑ったりしない」
慌てて両手を胸の前で振りながらそう言うと、川内は小さく笑った。
「うん、わかっとる。付き合うんじゃったら、ちゃんと話さんといけんと……思うて……話したんじゃし……」
最後のほうの言葉は、消え入りそうになっていた。
ということは。つまり。
「じゃ、じゃあ。よ、よろしくお願いします」
「お願いします」
二人して頭を下げ合い。
そして顔を見合わせて、笑った。
温室の中は、俺にとっても特別な、心地良い場所になった。
◇
なにを話せばいいのかわからなくて、でもなんだか立ち去りがたくて、俺はパイプ椅子に座ったまま、ただ黙っていた。
「あの……神崎くん」
「えっ」
声を掛けられて、弾かれるように顔を上げる。
川内は、困ったように首を傾げていた。
「私、まだ途中じゃけえ……」
そうか、水やりの最中だったのだ。
「あっ、ああ、うん。手伝おうか」
「ううん、朝は私、やりたいけえ」
「そっか」
植物と会話しているのだと、さっき確かに聞いた。
けれどやっぱり、その現場を見られる、というのは抵抗があるのかもしれない。
「わかった。じゃあ先に教室に行ってる」
「うん」
そう言って、二人して席から立つ。
けれどそのまま立ち去ったら、これから彼氏彼女として付き合っていく、という事実が流れていくような気がして、足が動かせなかった。
「あのっ、川内」
「えっ」
そう呼びかけると、彼女はこちらに振り返る。
この子が、今はもう俺の彼女なんだと思うと、なんだかどぎまぎしてしまう。不思議な気分だ。
「あの、今度、二人で出掛けない?」
「二人で?」
「二人で」
「う、うん」
川内は、こくりとうなずく。それにほっと息を吐いた。
「つっ、次の日曜とか」
「うっ、うん」
川内がこくこくとうなずく。よかった。繋がった、と思った。
「あの、尾崎と木下には……」
「あっ、どうしようか」
「ちょっと……タイミングを見計らおう」
「うん、わかった」
「じゃあ、またあとで」
「うん、あとで」
そう言ってしまっては、もう温室を出て行くしかない。
ものすごく立ち去りがたかったけれど、俺はなんとか足を動かして、教室に向かった。
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