第29話 川内遥
俺は畳まれたパイプ椅子を一つ広げて、ベンチに座る川内の前に位置取った。
どんな悩みかは知らないけれど、とにかく聞こう、と自分に言い聞かせる。
「アドバイスが役に立つことって、三十回に一回くらいしかないわ」と以前姉ちゃんが愚痴っていたことがあるので、俺なんかのアドバイスだと百回に一回くらいになってしまうかもしれない。
とにかく、聞くこと。と、何度も心の中で唱える。
しかし川内はソワソワとして、なかなか口を開かない。急かすのは悪手だというのはなんとなくわかるので、とにかく待った。
しばらくして、ようやく落ち着いたのか、川内は口を開く。
「あの……見とった……よね」
そうぼそりと言う。
「え、なにを?」
本気でわからなかったので、そう聞き返すと、川内は驚いたように目を見開いた。
「えっ……見てなかったんじゃ……」
「えっと、なにを?」
再度、そう訊いてみる。
すると川内は、少しもごもごと口を動かしたあと、小さな声で言った。
「植物に……話し掛けとったの……」
「ああ」
それは見ていた。なのでうなずく。
川内はさらに驚いたように、少し身を乗り出してきた。
「え、見とったん……?」
「え? うん」
こくりとうなずく。
それがどうかしたのだろうか。やっぱり、恥ずかしかったのだろうか。でも、植物に話し掛けるなんて、そんなに珍しいことでもない気がする。話し掛けると綺麗な花を咲かせる、なんてよく聞く話だし。別に恥ずかしがるようなことでもない。
「気持ち悪く……なかった……?」
川内は上目遣いで、そんなことを訊いてくる。
「え? いや?」
「そうなんじゃ……」
そう言って、考え込んでいる。
なんだ、そんなこと。俺は心の中で、安堵のため息を吐く。
植物に話し掛けるのを見て、それを気持ち悪いと思うかって? いやそれはいくらなんでも考えすぎなのでは、と思った。
「だって、サボテンとかに話し掛けたらよく育つ、とか言うじゃん。だから、それかと思って」
「あ、ああ……そう……」
そうつぶやいて、また川内は黙り込んでしまった。
なんだなんだ。それで終わりの話ではないのか。それは気にしすぎだよ、とか言うべきなのだろうか。
しかし、すんでのところでなんとか思いとどまる。
いやでも、あんなに顔色を蒼白にしていた川内が、そんな言葉で、そうだね、と納得するかと言われたら、しないだろう、としか思えない。
とにかく、聞くこと。
俺はまた最初に思ったことを、自分に言い聞かせる。
「私がしゃべっているときに余計な口を挟むな」と、小さいころから姉ちゃんにさんざん言われてきたのだ。根気強く聞くのはお手の物のはずだ。
俺は川内が再度口を開くのを、待った。
少しして、川内は膝の上で組んでいた手を、ぎゅっと握りしめた。そしてか細く、けれどはっきりした声で言った。
「あの、あのね、信じんでもええけえ、笑わんといてね?」
さっきもそう言われた。先刻承知だ。
「うん」
俺は深くうなずく。
それを見て川内は、表情をほころばせた。そして口を開く。
「植物に話し掛けとるのはね」
「うん」
「私、植物の言葉が、わかるんじゃ」
それを聞いて、俺はしばらく黙り込んでしまった。
川内は、少しの間俺を見て、そしてまたうつむいてしまう。膝の上の手が、震えていた。
「えーと」
植物の言葉がわかる?
つまり、一方的に話し掛けているのではなく、会話をしていた、ということか?
そりゃあ、マンガやアニメではそういう設定はよくある。もしかしたら、どこかにそういう人がいるのかもしれない、と思うこともある。
けれど目の前の川内がそうなのだ、と言われても、現実感は伴わない。
自分が今どう受け止めているのか、よく、わからなかった。
「あの、正直、すぐに信じられるかと言われたらわからんのんじゃけど」
その言葉に、川内の肩が揺れる。
でもここで、「そうなんだ、信じるよ」と適当なことを返すのも違うだろう、という気がしたのだ。
「えっと、言葉がわかるって……日本語?」
だからといってこの質問はどうなんだろう、と思わないでもなかったが、そう口から滑り落ちた。
川内は、ぱっと顔を上げた。ちょっと驚いている様子だった。
「日本語のことも……ある」
「そうじゃないときは、何語?」
「あ、たいていは言葉じゃなくて、なんとなく」
「なんとなく……」
「動物でも、怒っとるとか、寂しいとか、しゃべらんでもわかる、みたいな、そんなの」
「ああ、なるほど」
「日本語なのは、大きな木とか」
「ああ!」
俺は手を叩いた。
ふいに入学式のときのことを思い出したのだ。
「じゃあ、体育館の横の桜は日本語なんだ!」
その言葉に、川内は大きく目を見開いた。
「あっ、うん、そう」
「入学式のとき、散ってた!」
「うん」
川内は嬉しそうに、こくこくとうなずいた。
「ああ、それ、俺、見てた」
「そうなん……?」
俺の言葉に、川内は不安そうに眉尻を下げる。
「うん、バーッと桜が散って、ほいでお辞儀してた」
「あ……」
川内は、両手で口元を隠して頬を染めていた。気付かれていたのは恥ずかしいという感じか。
「おめでとう、言われたけえ……」
完全に信じたわけじゃない。やっぱりどこか、そんな浮世離れした話が本当に現実にあるのだろうか、と思う気持ちもある。
嘘をついているとは言わないが、思い込みなんじゃないのかな、とどこか疑ってもいる。
けれど、UFOだって存在しているのかもしれない。宇宙人だっているのかもしれない。
だったら、植物と話ができる人間もいるのかもしれない、と思ってもいいのかもしれない。
川内は口元に置いていた両手をまた膝の上に戻して、そして言った。
「前に、木下くんがUFO見たって言ったとき」
今まさに考えていたことを言われて、少し驚く。俺は植物じゃないんだけど、なんてアホなことを思った。
「神崎くんは宇宙人がおるかもしれないって言いよったけえ、そんな風に信じてくれたらいいなって、ずっと思いよったんじゃ」
川内は、どこか辛そうに、そう言った。
◇
「小さいころは、皆わかるんかと思いよったけえ、私、普通に花に話し掛けたりしよって」
川内は小さな小さな声で、しゃべり始める。
「お母さんは最初は、言葉がわかるんじゃね、いいね、って言いよったんじゃけど、大きくなってきたら、まだそんなこと
幼いころは、微笑ましいと思われていたことが、成長するにつれ、そうではなくなっていったのだ。
川内の声が、震え始める。
「私……それで、小学校のころから……痛い、とか……嘘つき、とか……言われて……」
じわり、と涙が浮かんできていた。
けれどそれを懸命に堪えようとしているように見えた。
「それで隠しとったんじゃけど……でも、中学校に上がっても知っとる人がそのまま一緒じゃし……ずっとそれで、からかわれとって……」
ああ、そうか。
ふっ、と腑に落ちた。
それで、川内は、山ノ神高校を選んだのだ。
なるべく、小学校や中学校で同じだった人間とは一緒にならないように。
今度こそ、その秘密を漏らさないように。
「近所の子らとか、忘れかけたりしても、お母さんが『この子、まだ変なこと言いよらん?』って言ったりして、また再燃して」
苦し気に、絞り出すように、川内はしゃべり続ける。
「学校……行き
ぱた、と川内の膝の上に置かれた手に、水滴が落ちる。一粒落ちたら、それがきっかけになったかのように、ぱたぱたといくつもの涙の粒が落ちてくる。
どうしたらいいのだろうかと、制服のブレザーのポケットを探ってみるが、ハンカチは入っていなかった。
そうこうしているうち、川内は自分のポケットからハンカチを取り出し、目元に当てている。
笑われて。からかわれて。肉親でさえ味方になってくれなくて。
そういう小学、中学時代を経て、彼女はいつもうつむくようになったのだ。
のほほんと生きてきた俺には、彼女に掛ける言葉は思いつかなかった。ハンカチを差し出すことすらできなかった。
温室に、川内の泣き声が充満していく。
そこにある花々は、彼女を見守るように、存在している。もしかしたら彼女にとって、植物とは、友だちなのかもしれないな、と感じた。
「ご……ごめんね……泣いて」
ハンカチで目元を何度も拭いながら、川内が言う。
「いや……」
「あの……内緒に、しとってね」
口と鼻をハンカチで隠し、上目遣いでこちらにそう言う。彼女の目は真っ赤になっていた。
「ああ、うん。あっ、えっと、尾崎にも黙っとるん?」
高校での一番の親友は、間違いなく尾崎だろう。なのに彼女もなにも聞いていないのだろうか。
俺の問いに、川内は小さくうなずいた。
「千夏ちゃんには……言えん。もしも、千夏ちゃんまで
そう言って言葉を詰まらせる。
親友だから。居心地がいいから。なおさら言えないのだ。
もちろん尾崎が笑うような人間だとは思えない。川内だってそう思っているだろう。
けれど今まで受けてきた苦痛を思えば、臆病になるのは仕方ないことではないか。
この高校で、唯一この話を聞いてしまったのが俺なのだ。
ならば、曖昧にせずに、ちゃんと応えなければならない、と強く思った。
「正直、俺、信じとるんか、信じてないんか、ちょっと自分でもよくわからんのんじゃけど」
「うん」
「でも、ちゃんと、川内のこと好きだから。ちゃんと考える。笑ったりしない」
そうきっぱりと言うと、川内は再度、ハンカチで目元を拭い。
そして涙で濡れた瞳をこちらに向け、いつものように穏かに微笑んで、言った。
「ありがとう」
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