第20話 尾崎の話

 温室の中に入ると、やっぱり少し暑くて、俺たちは専用の長い棒を使って天井の窓を開けたり、ファンを回したりする。

 それから、いつものように尾崎は木製のベンチに座り、俺は折り畳みのパイプ椅子を広げて座った。


「ごめんね、来てもろうて」

「いや」


 それから少しの静寂があって。

 尾崎はおずおずと口を開いた。


「あのね、お母さんは、本当に大したことなかったんじゃ。なんていうか、ちゃんと病名がつかんつかないっていうか」

「え?」

「貧血だったり寝不足だったり、自律神経? が乱れとるとか、そういうのがいっぱい重なっとって。一言で言えば、疲労、なんよね」

「それは……大したことは……あるじゃろ」


 俺がそう言うと、尾崎は小さく笑った。


 仕事をして家事をして介護をして。その疲れが一気に出たということなのだろう。

 すぐに命に係わることではないとしても、のほほんと毎日を過ごす俺からしたら、やっぱり『大したこと』のように思える。


「ほうよね。じゃけえウチ、しばらく部活は休んで、お母さんを手伝おうと思うんじゃ」

「……うん」


 そういうことなら、仕方ない。仕方ないけれど、やっぱり寂しい。

 なんと言えばいいのかわからなくて、俺は曖昧に返事をするしかできない。


「ウチんち、ちょっと複雑でさ」

「うん」


 素直にうなずいた俺に、尾崎は顔を上げる。そして驚いたように言った。


「聞いとった?」

「あ、いや、……あの……」


 しまった。木下と、聞いたことは言わないと約束していたのに、知らないフリができなかった。

 しかし尾崎は苦笑しながら言う。


「いや別に、ええんじゃけど」

「ごめん……」

「じゃけえ、ええって」


 そう言って、ひらひらと手を振りながら笑う。


「まあ、部活を休むいうても、そう長うはないわ。じいちゃんが施設に行くまで。施設の部屋の空きが出るまでよ」

「ほうなんか」

「じいちゃんは寝たきりじゃし、施設に預けようって話はずっと出とったんよね。お母さんが倒れて、ほいで今回、それが具体的に進みだしたいうか。じいちゃんが施設に行くまで、それまでの辛抱」

「ほうか」


 そういうことなら、とほっと息を吐く。終わりの見えない介護、というわけではなさそうだ。

 ただ、尾崎のじいちゃんは嫌かもしれない。だからここまで施設に預けなかったのかもしれない。でももう倒れるまでがんばったんだから、十分だろう。


「じいちゃんもそうしたがっとったけえ、なんか皆、安心しとる。むしろええほうに進んだ感じよ」

「へえ」


 介護施設に行くのを嫌がる老人は多いと聞くので、少し意外だった。


「だって、お母さんは女で、じいちゃんは男じゃろ? 下の世話とか、お互い、嫌じゃん。知っとる人間より、介護の専門家のほうが抵抗はないわ」

「……なるほど」


 たとえば自分が入院して、下の世話をしてもらうとしたら、母ちゃんや姉ちゃんにしてもらうのは、絶対に嫌だ。看護師さんなら女性でも、なんかそういうものだと思える気がする。


「それに、じいちゃんもお母さんに申し訳ないって言うし」

「ほうか」


 尾崎のじいちゃんは、尾崎のお母さんとは血の繋がりがない。さらに、お母さんの夫であるじいちゃんの息子は、浮気して出て行ったという体たらくだ。

 いろいろと申し訳ないと思うものではあるだろう。


 しかし話を聞くに、介護される本人が介護施設行きを嫌がっていなかったということだ。それなら、倒れるより前に話を進めておけばよかったのに、と思う。

 すると尾崎がその答えを言ってくれた。


「なのにお母さんが、家で看たほうがええんじゃないか、いうて躊躇しとって、それでここまで伸びたんよ」

「お母さんが?」

「お母さんはじいちゃんに、遠慮はせんでしないでくださいって言うんよ。家にいたいんなら、いいですから、って言いよったんじゃけど、さすがに倒れちゃあねえ」

「尾崎のお母さん、優しいな」


 そう言うと、尾崎は小さく笑った。


「どうかねえ。優しいんかねえ」

「まあ……改まってそう言われると……」


 結局、自分も倒れることになって。尾崎も部活を休まなければならなくなって。そして尾崎のじいちゃん自身にも、申し訳ないと言わせてしまった。

 優しさとは、少し違うのかもしれない。


「意地になっとったんじゃないかね」

「意地?」


 そう聞き直すと、尾崎はベンチに座って投げ出していた足をプラプラと振りながら、ゆっくりと口を開いた。


「お母さん、じいちゃんには恩があるんと」

「恩……」

「ウチを産んだときにね、母方のじいちゃんもばあちゃんも、ほいで父方のばあちゃんも、皆ね、『ありがとう』って言ったんだって。それが引っ掛かっとったみたいで」

「うん?」


 『ありがとう』のどこが、おかしいのだろうか。自然に出る言葉の気がするのだが、違うのだろうか。

 よくわからなくて、首を傾げる。

 その様子を見て、尾崎は苦笑しながら続ける。


「でも、じいちゃんだけが、『おめでとう』って言ったんだって。それで、この人の世話は私が一生する、って決めたんだって」

「……ごめん、ようわからん……」


 俺は素直にそう訊いてみる。


「ありがとう、いうのがいけんってわけじゃないとは思うけど、でも、おめでとう、のほうが嬉しかったんだって。それだけじゃないけど、それが一番心に残っとるんだって」

「ふうん……」


 けれど返ってきたのは、やっぱりよくわからない説明だった。もしかしたら、大人になったらわかることなのだろうか。

 首をひねる俺の肩をポンと叩き、尾崎は笑った。


「まあまあ。神崎も、いつか孫が生まれるときのために、『おめでとう』って言ったほうがええって、覚えとったらええわ」

「忘れとる気がする……」


 眉根を寄せる俺の顔を見て、尾崎はまた、あははと笑った。


「ま、それはそれとして。とにかくお母さんは、意地になっとったんじゃけど、今回のことで、じいちゃんを施設に預けたほうが、みーんな幸せじゃってわかったんよね。ほいじゃけえ、クソオヤジにも会ったわ」

「えっ」


 噂の、浮気をして出て行ったという、尾崎の父親。


「まあ会いとうもないけど、仕方ないよね。クソオヤジがじいちゃんの実子じゃけえね、クソオヤジが書類とか、いろいろやらんと」


 この場合、クソって言うな、とは、木下も言わないのではないだろうか。


「ほいでね、離婚するって」


 言っていることは、離婚するとかいうあまりポジティブとは思えない言葉なのに、尾崎はやけにスッキリとした表情をしていた。


「ウチの高校の卒業と同時に離婚するって」

「今すぐ、じゃないんだ」

「まあいろいろ、手続きとかあるみたいなし。キリのええところ、いうんじゃないん? お母さんは名字を変えたいみたいじゃけえ、卒業してからなら、名字が変わってもそんなに変じゃないじゃろうし。ウチは別にいつ変わってもええんじゃけど」


 そう言って、また尾崎は足をプラプラと振っている。

 俺はそれまでの話を頭の中で整理してみた。


「つまり、じいちゃんの世話をするために、今まで離婚せんかったいうこと?」

「それだけじゃないんじゃろうけど、まあそういうことよね」

「なんか……それはそれで腹立つな」


 そのお母さんの意地のために、尾崎は振り回されてきたのだ。

 尾崎も怒っとるけど、と木下は言っていた。ならば尾崎自身は離婚に賛成の立場だったのではないか。


 眉根を寄せる俺を見て尾崎は口の端を上げる。それから覗き込むようにして俺の顔を見てきた。


「なに? ウチのために怒ってくれとるん?」

「そんな高尚なんじゃないけど」


 こちらに身を乗り出す尾崎から逃れるように、慌てて身を引く。それを見て尾崎は、また笑った。

 完全に、からかわれた。

 少しだけ唇を尖らせて抗議の姿勢をとっても、まったく堪えていないのか、尾崎はくつくつと笑うだけだ。


 そしてふと、自分の腕時計に視線を落とすと、尾崎は言った。


「あ、いけん。自分のことだけしゃべりすぎた」

「え?」

「ウチの話はもうええんよ。おしまい!」


 そう言って、パン、と手を叩く。それが終了の合図らしい。


「ここまでは、木下にもハルちゃんにも言うたんよ。でも、神崎に言いたいのは、こっから」

「え、なに?」


 さきほどまで、自分の感情をごまかすかのように笑顔のままだった尾崎は、その表情から笑みを消して、俺に向き直った。


「お願いが、あるんじゃ」

「お願い?」


 俺がそうおうむ返しにすると、至極真面目な顔をして、尾崎はこくりとうなずいた。

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