第21話 お願い

 まっすぐに俺を見て、尾崎は続ける。


「そういうわけで、ウチ、しばらく園芸部に来れんかもしれんけえ、ハルちゃんと一緒におってあげて」

「え?」


 川内?


「あの子、ほっといたらイジメられるかもしれんけえ。ウチのこと、庇ったことがあるんよね。それで先輩に目を付けられとる」


 庇ったことがある?

 先輩に目を付けられている?

 それで、イジメられるかもしれない?

 川内の姿を思い浮かべてみる。けれど、どうもそういうものと結びつかない。


 たとえば、相手がクラスメートとかなら、気に入らないという理由で無視されたり、ということはあるかもしれない。川内は大人しいし、うつむきがちだし、おどおどしすぎだから、悲しいかな、イジメの標的になるかもしれない、という気はする。

 幸い、今は気の強い尾崎がべったりとくっついているし、うちのクラスは全体的にのほほんとした雰囲気だから、その心配はなさそうだ。


 けれど、尾崎は先輩からのイジメを心配している。

 三年生の教室は、階が違う。二年生は校舎の三階だが、三年生は二階だ。部活にでも入っていなければ、そう接触するものじゃない。

 そして園芸部には、先輩は、いない。

 いったいどこに先輩との接点があったんだ。

 庇ったというからには、まず先輩と接触したのは尾崎なのだろうか、とどんどん疑問が浮かぶ。


「なにをやらかしてしでかして目を付けられとるん?」


 なので、そう訊いてみた。

 ひとつうなずいた尾崎は、口を開く。


「二年になってすぐの話なんじゃけど、ウチらの教室の階のトイレね、全部埋まっとって」

「はあ?」


 いきなり話がすっ飛んだ気がする。なんでここでトイレ?


「それで、三年の階のトイレに行ったんよね。そしたら、中で捕まって。『ウチらの階のトイレ使いんさんな』って」

「……いや……ちょっとよく……」


 なぜ三年の階のトイレを使ってはいけないんだ? 意味がわからない。

 俺の言葉にクスクスと笑いながら尾崎は続ける。


「なんか、女子の間では、なんとなく決まっとるんよね。他の階のトイレ使っちゃいけんって。でもウチ、我慢できんくてさあ」

「……はあ」

「おまけに髪とか染めとるけえ、『生意気』じゃって言われて、囲まれて」


 怖い。

 のんびりした高校だと思っていたのに、そんなことがあるなんて。


「ほいでハルちゃんは、ウチが別の階のトイレに行こうとしよるのを見とったらしくて、心配になって付いてきたんと」


 たぶん尾崎は、「わー、トイレ空いてなーい! 下行こー!」とか大げさに騒ぎながら移動したのではないだろうか。簡単に、想像できる。

 それを見た川内が、心配になって、後をそっとついていった。それも、なんとなく、想像できる。

 そしてなかなか出てこないことに不安になった川内が、中を覗き込むと。

 尾崎が三年の先輩たちに囲まれていた。


「あんな小さくて、大きな声も出せんような子がね、ブルブル震えながら、『先生呼びますよ!』って」


 くすくす笑いながら尾崎が言う。


「ほいで、すれ違いざまに先輩らが、『覚えときんさいよ』って言ったんよ。じゃけえウチ、ずっとハルちゃんと一緒におったんよね。なんか申し訳ないじゃん?」


 それで、系統がまったく違う二人が、ずっと一緒にいるようになったのか。

 尾崎は部活まで付き合って、園芸部員になったのか。サボテンを枯らしたような女の子が。


「そんな経緯があったんか」

「そう。ハルちゃんは最初は遠慮しとったけど、まあなんか、ウチもあの子の傍は居心地がええんよね。ハルちゃんはどうかわからんけど」


 そう言って、尾崎は肩をすくめる。


「いや」


 だから、俺は言う。


「川内も、尾崎の隣が居心地がいいみたいに、見える」


 俺の言葉に、何度か目を瞬かせた尾崎は。

 口を笑みの形にして、そして小さく「うん、ありがとね」と言った。


「まあもう時間も経っとるし、大丈夫なんかなって気はするけど、やっぱり誰かに傍におってもろうたほうが、安心なけえ」

「尾崎って」

「うん?」

「過保護な姉みたいよの」


 前々から思っていたことを、口にしてみる。

 言われてまんざらでもなかったのか、尾崎はふふんと鼻を鳴らした。


「ま、ウチはしっかりものじゃし?」

「そういうことにしといてもええけど、疑問は残るのう」


 ニヤつきながらそう返すと、尾崎は少し唇を尖らせて、返してきた。


「タカちゃんは意地悪なねー」


 ふいにそう言われて、思わず頭を下げて顔を隠した。


「……忘れとったのに……」


 くそ、姉ちゃんのせいだ。

 あはは、と笑いながら、尾崎は何度も俺の肩を叩く。


「まあまあ。とにかく、ウチのお願い、聞いてくれる?」


 そう言われて、ゆっくりと顔を上げる。

 尾崎は穏やかに微笑んで、こちらの返事を待っている。

 けれどきっと、答えはわかっているのだ。


「うん」


 俺はうなずいた。


「うん、大丈夫。なるべく近くにおるけえ」

「ほうね。ほいなら安心じゃわ」


 そう言って、ほっと息を吐いた尾崎だったが、なにかに気付いたようにこちらに顔を向けた。


「あ、トイレにまで付き合わんでもええんよ」

「当たり前じゃろ!」


 いったいなにを言い出すのか。

 慌てふためく俺を見て、尾崎はまた楽しそうに笑う。

 そして腕時計をもう一度見て、立ち上がった。


「時間じゃね。はあー、たいぎいかったるいわ」


 俺も立ち上がって、パイプ椅子を畳んで片付ける。

 温度計を見るとちょうどよさそうだったので、窓はそのままにして、そして二人で温室を出た。


 そして教室までの道のりで、ぽつぽつと話をする。


「卒業して名字が変わったら、『尾崎』って呼べんな」

「じゃあ今から、千夏って呼んどく?」


 からかうように、そう言ってくる。


「ううーん……」


 名前呼びはさすがにちょっと、抵抗がある。

 なんというか、気恥ずかしいというか。


「ほいでもウチは、どうせ何年かしたらまた名字が変わるじゃろ。じゃけえ、なんでもええよ」


 言われて、ああ、なるほど、と納得した。いつか結婚したら、また名字が変わるかもしれないのか。

 ふいに、からかいたくなって、こう言った。


「木下、に変わるかもしれんよ」

「さあ、それはわからんけど」


 そう言って、尾崎は微笑む。

 からかいは不発だったようで、特に恥ずかしがることもなく、穏やかな返事だった。


 わからない、か。

 絶対にない、ではないんだな、とちょっと温かな気持ちになった。


 俺のそういう思いに気付いているのかいないのか、横にいる尾崎は続ける。


「まあでも、離婚をここまでせんかったのは、良かったんかもしれん」

「え? なんで?」

「お母さんの旧姓、村上、なんよね」

「うん」

「そしたら、ウチらの出席番号、四人並べんかったじゃん?」

「ああ」


 なるほど。

 もしも尾崎が村上だったら、四人がここまで仲良くなっていなかった可能性もあるのか。


「なんでも、良し悪しわるしなんかもしれんねえ」

「うん」


 そんなことを話しながら、俺たちは教室への道のりを歩いたのだった。

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