第4話 祖母

 晃子の母は大学病院付属看護学校の一期生で、卒業してそのまま大学病院には残らず、五反田にある総合病院に就職した。そして晃子が生まれ、母は仕事を続けるつもりだったので、高崎の田舎にいた祖母を呼び寄せ、晃子の面倒を見てもらうことになった。


 祖母はハイカラだったが、洋服を着ることはほとんどなくて、いつも着物だった。ベランダで洗い貼りをしていた記憶もある。


 母が晃子を叱るときは、いつも晃子の味方でいてくれた。晃子の気持ちがわかるのは、ほとんど晃子とかかわらない母よりも、毎日面倒を見てくれる祖母の方だった。


 弟が生まれると、弟の面倒も見ながら晃子を可愛がってくれた。ある日、晃子が絵を描きながら、「パーティー用ドレス」と書きたかったので「パーティー」ってどう書くの、と聞くと「パーテーかい、パーチーかい?」と話が通じなかったことがある。耳も遠かったし、根っから昔の人だった。


 ラジオで「ジャイアンツナイター」という番組があり、「ジャイアンツナイター、ジャイアンツナイター、ジャイアンツナイター」という合いの手の歌が番組とCMの間に入った。すると祖母は、「ジャイアンツは負けてばかりいるから、それでもってジャイアンツ泣いた、泣いた、っていうのかねえ。」と言った。


 晃子が12月にテレビで好きな外国人歌手の番組を見ていると「暮だねえ、ああやって外人さんもわざわざ日本まで稼ぎに来るんだねえ。」と言って、録画であることを晃子が説明してもわかってもらえなかった。


 母の妹の叔母に子どもが生まれると、今度はそちらに同居して、晃子のいとこに当たる子どもの面倒を見ることになって、引っ越していった。時々練馬の家に遊びに来ることがあって電話してくると、「帰ります」と言って、あくまでも自分の家は練馬の家なんだというのが祖母の気持ちだった。「叔父さんは嫌いだ。叔母さんも嫌いだよ。」とぽつりと本音をもらしたのを、晃子は胸を痛めて聞いていたが、どうしてよいのかわからなかった。


 晃子や弟が大きくなって、弟が車を買ってもらって運転するようになってもそれは続いた。あるとき、祖母が遊びに来て帰るとき、弟が運転して晃子は祖母を駅まで送りに行った。そんな風に祖母を送ってゆくようになったこと、いつまで祖母がそうして元気で遊びに来てくれるのか、晃子は急に寂しくなったことがあった。そのとき祖母を見送った駅のホームの様子が心に残っている。


 祖母はその後、認知症を患い、施設に入った後に亡くなった。晃子は、仕事を理由に葬儀に出なかった。あれだけ世話になった祖母の葬儀に出ないなど、考えられないと自分で思ったが、それだけ世話になった祖母が死んだことを認めるのがいやで、仕事を代わってもらえないことを理由に出席しなかったことを、後悔したことはない。

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