第6話 初美と美岬の傷

「釣れませんね……」


「釣れないわね……」


「ここ、『爆釣りエリア』ですよね……」


「そうね……」


 天然の池に魚を放ったように見える釣り堀は平日だからか閑散かんさんとしていた。入り組んだ地形と生い茂る天然の木々のせいで、まるで二人だけで釣りをしているような気分。誰からも見られていないのをいいことに二人とも釣り堀の上に渡された模造木材製の通路で胡坐あぐらをかき釣り糸を垂らす。そして釣果ちょうかはゼロ。もう一時間半はこうしている。時折ヒグラシの鳴き声が聞こえる。


 溜め息をつきながらすぐ隣の美岬に声をかけた。


「もうやめる? おうち帰る時間もあるでしょ」


 憮然とした表情の美岬。


「うちはみんな遅いからいいんです。それより一匹でもいいから釣りたいです。手ぶらで帰るなんていやなんですー」


 何が何でも釣って帰ろうと燃えている様子の美岬。


「釣って帰っても家族になんて言い訳するのよ、まったく」


 十分ほどの沈黙ののち、美岬が湖面を見つめながらぽつりと言う。


「……先輩は」


「?なに?」


「先輩は、どんな失恋だったんですか?」


「えっ、えっ、あっ、うー、思い出したくもないんだけど、赤ちゃん時からの幼馴染が美人で病弱で幸薄そうでふにゃふにゃした女と仲良くなっちゃったのよ。それだけ」


 あれ? そう言ってみるとすごく単純で大した事ないように思えてきた。


「幼馴染さん盗られちゃったんですか……」


「まあ、盗られるってほどのものでもないか…… ははっ」


 美岬の言葉にはいつもの元気がなく、どことなく沈んだ声だった。


「あんたはどうだったのよ、中一の大失恋って」


「先輩でした。高等部の一年生」


 顔を伏せた美岬の目つきが暗くなる。


「そう」


 こっちは目が丸くなる。去年高一だとすると今は私と同い年か。


「すっごいかっこよくてきれいで。それが入学してすぐに先輩の方から声をかけてくれたんで、私有頂天でした。」


「そうだったんだ」


「初めて声をかけられたその日にキスをして」


「えっ、早っ」


「おかしいですか」


 美岬は怒るでもなく無表情と言うか、少ししょんぼりしたと言うか、そんな表情できらきら光を乱反射する湖面を見つめていた。


「い、いや、おかしいってほどじゃないけど……」


 でもその先輩、初美の“好き”に付け込んでいるんじゃないか。そんな嫌な感じがした。


「ううん、ですよね。私気付くの遅かったです…… 先輩みたいな人にもっと早く会えて、ばかな私を止めてもらえてたらよかったのに……」


 ぽろっと涙をこぼす美岬


「美岬……」


「その次の日には先輩、私とキス以上のことしたがって。イヤだったけど好きだったから…… 私、私、嫌われたくなかったから……」


「そんなことがあったの……」


 私は愕然とした。美岬はわずか中一で私の失恋なんか足元にも及ばない傷を負ってしまったんだ。私は安易な慰めの言葉なんてかけられなかった。


「だけどそんなこと毎日続けてたら、十日ぐらいして他に好きな子が出来たって言われて。あとで噂を聞いたら、その先輩ってそういう人だって。中等部の時から今まで何人もの何も知らない新入生にそんな事して遊んでたんだって」


 とんでもない性悪女。私の中で怒りが湧き上がる。だけどいくら私が怒ったって美岬の心の傷は癒えない。それが切なくて苦しかった。


「汚れちゃった。私汚されちゃった…… 汚くなっちゃった、私……」


 美岬は釣竿をもって震えながらぽろぽろ涙をこぼす。

 感極まった私は衝動的に美岬を抱き締めた。強く強く抱き締めた。


「そんな事ないっ、そんな事ないからっ! そんな事くらいで女の子は汚れないのっ! 汚くなんてならないの! いい? わかった?」


「ほんと?」


「ほんと」


 大きく鼻をすすった美岬は私にしがみ付いてきた。


「そうしたら、昨日初美センパイが私の目の前に現れて、あまりのカッコよさに涙が出ました」


 美岬は深呼吸をする。


「一目惚れです」


 私の全身に電撃が走る。美岬がすがるような眼で私を見つめる。眼鏡の向こうの眼は涙が溢れて輝いている。


「好き、です」


 私はとっさに美岬の肩と頭を抱いて、美岬は私の背中を抱いた。ギューッと抱いた。涙が止まらなかった。この子を守ってやりたい。誰よりも大事にしたい。なぜかそう思った。

 佑希ゆうきに対して感じていたのとは全く違う感情が、今まで全く知らなかった愛おしさが溢れてくる。会ってまだ二日目の三つも年下の子に。

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