第4話
目が覚めると、そこはよく知っている個室だった。こちらを圧迫してくる壁に、ガムテープだらけのひび割れた窓。床は薄黒い古い血で汚れていた。仲間と浮浪者を甚振ったり、裏切った仲間に制裁を加えたりしていた場所だ。俺も、この床にこびりついた血に、自分の血も足すことになるのだろうか。
「ハジメ、おいで」
幼い頃によく聞いた優しい母の声が、脳内で木霊する。なぜ今に、親の存在が恋しくなるのだろう。俺は頭を軽く振り、一瞬だけ抱えていた想いを払い退けた。
パーカーのポケットに忍ばせたちくわぶを使って、ここから逃げ出そう。わずかな重みを持つちくわぶを感じ、意識をそこに集中させた。
「俺のちくわぶは、宙に浮く。そしてナイフに形を変えて、俺を縛るこのロープを切ることができるんだ」
魔法のちくわぶを頭の中で強くイメージして、体に力を込めた。腹の底から力強い水が湧き起こり、身体中に巡る。心臓の鼓動が速くなる。
「俺にはできる。俺はちくわぶ使いの弟子なんだから。大丈夫だ、俺ならできる」
ポケットのちくわぶが、少しだけ動いた。俺がちくわぶ使いの力を持っていたのは、やっぱり夢ではなかった。あの山の頂上で、ちくわぶを二輪のアネモネに変えたのは、夢ではなかったのだ。
部屋の外から、沢山の笑い声と足音が聞こえてくる。先輩とその仲間たちだろう。
「速くしろ、速くしろ!」
でも焦らずに、慎重に。
ちくわぶはするりとパーカーのポケットから抜け出し、鋭いナイフに姿を変えた。そしてゆっくりと俺を縛る木綿のロープを鮮やかに切って見せた。バサリとずり落ちたロープを振り払い、俺は勢いよく椅子から立ち上がったのと同時に、建て付けの悪い扉が開かれたのは、ほぼ同時だった。
ちくわぶを右手に握り、部屋の真ん中で立ち尽くす俺を、扉を開けた先輩は目を見開き、口を大きく開けたまま呆然と見つめた。
「なあ、ハジメ。お前、どうやって抜け出したんだ? なんでちくわ、持ってんだぁ?」
「ちくわじゃなくて、ちくわぶです。間違えないでください」
急に声を荒げた俺に、先輩はまた拍子抜けした顔になるが、すぐにゲラゲラと馬鹿みたいに大笑いする。そして先輩は笑顔のまま後ろを向き、仲間たちに何か合図をすると、大人が二人部屋に連れてこられる。
五十代の男女が二人。見覚えのある顔だった。それも当然、なんせその連れられてきた二人の中年男女は、俺の両親だったのだ。
「ハジメ・・・・・・?」
母が俺の名前を呼ぶ。二人とも、痣だらけになった顔を涙で濡らしていた。この二人が泣く姿なんて、今まで一度も見たことがなかっただけに、俺の心は酷く痛んだ。
「ほーら! ハジメちゃんが俺のこと忘れて、どっかのド田舎でブラブラしてるせいで、パパもママもこんな目に遭っちゃうんだよ?」
下品な笑い声が部屋中に轟く。母は涙をはらはらと流しながら、俺の名前を呼び続け、父は涙で潤んだ瞳で、俺に助けを求めるようにじっと見つめていた。
「力を使え。そうすれば、お前もお父さんもお母さんも助かる」
頭の中で、もう一人の俺が囁いた。
確かに、力を使ってしまえば、家族三人で無事にここから逃げ出せる。でも、二人に自分の人知を超えた力を見せることに、強い躊躇いがあった。
「俺、一日だけ田舎でブラついてただけっすよ? なんでそれで裏切ったことになるんすか?」
話し合いで、穏便にことを済ませよう。掠れた声で話しているせいで、説得力に欠けるけども、少しの間だけなら時間を稼げる。そして、いずれは九十九が来て俺たちを助けてくれるはずだ。
「ハハッ、なんだよハジメ。今日も朝から会う予定だっただろ? お前、それを忘れて知らねえ田舎町で一人ちくわぶ? ってヤツで遊んでたんじゃねえか」
汚泥のように濁った暗い瞳で、先輩は俺を睨む。話が通じないタイプの人間だと、すぐに気付いてしまった。
「ハジメ・・・・・・ハジメは、お母さんとお父さんのこと、助けてくれるよね?」
泣き腫らした母は、俺のズボンの裾に掴んだ。九十九を待つほどの余裕がないことは、もう俺にもよく分かっていた。俺が、なんとかしなければいけない。
「先輩、俺と両親をどうするつもりなんすか?」
俺の問いに、先輩はまた大笑いする。まるで映画に出てくる大悪党のような笑いだと思ったが、確かにこの先輩は根っからの悪人だった。人を傷つけることに罪悪感はまるでなく、むしろ喜んでいるような人間だ。
「言われなくても、お前なら分かってるだろ? お前も一緒になってやってたんだから」
ひどい思い違いだ。先輩は俺が暴行に加わっていると思っているだけで、実の所、俺は何もしていないのだ。先輩たちとの付き合いに慣れだした頃には、少しだけ加わっていたが、ここ最近はフリだけだ。
俺は、悪に染まりきれなかった悪なんだ。
俺は右手に握られたままのちくわぶを少しの間だけ見つめてから、力を込めて言い放った。
「今からここにいるヤツら、全員ぶっ飛ばしていいですか?」
爆笑が沸き起こる閉鎖的な部屋で、俺は一人、頭の中で静かにイメージした。
ちくわぶが失明させてしまうほどの眩い光を放ちながら、爆音が流れ出る。きっと、みんな失神する。その間に、両親を逃すのだ。
俺は足元に縋り付く両親に、優しく声をかけた。
「二人とも、耳と目を塞いでいて。俺がなんとかするから」
急なことに二人は混乱しながらも、言われた通りに目を固く閉じ、耳を塞いだ。先輩たちはまだ笑い続けている。
「ハジメ! お前、そのちくわで俺たちを倒すつもりなんかよ?」
「そうっすよ。このちくわぶで、あんたらを倒す」
目を瞑り、先ほどイメージしていた光景を、さらに鮮明に描いた。白い、太陽のように眩しい閃光。脳みそを殴ったように振るわせる、轟音。
その瞬間、握っていたちくわぶが熱を持ち、震え始めた。部屋の中で響き渡っていた笑い声は止み、ちくわぶの震えが終わってから目を開けてみると、そこには先ほどまで腹を抱えて笑っていた人たちが、皆失神し、倒れ込んでいた。
静まった部屋の成れの果てを、目を開けた両親も気付いてしまったようで、安堵するよりも先に、自分たちが目を閉じていた数秒の間に何が起きたのだろうと、ただただ混乱している様子だった。
「ハジメ、これは一体何なんだ!」
父は声を荒げながら立ち上がり、俺を力強く睨んだ。ついさっきまで、弱々しく俺を見上げていた人と同じとは思えない。
「お前がちゃんと真面目になって、こんな輩と一緒にいないことを約束するなら、ハジメが今まで犯した罪も一緒に償おうと、お母さんと決めていた! だけどなんだこれは!」
指をワナワナと震わせ、父は失神した先輩を指差す。
「お前が何をしたのかは知らない。だけどこれはダメだ! これ以上は、お父さんも助けてやれない!」
顔を真っ赤にして父は俺を叱り、母はなお涙を流し続けた。俺はなんとか今の状況を説明しようと、握っていたちくわぶを見せた。
「これだよ、お父さん。これでこいつらを倒したんだ」
当然、父は俺の言葉を理解できず、眉を潜めて俺を睨んだ。俺は焦りながらも、ちくわぶがただのちくわぶでないことを証明するために、九十九が初めて俺に見せた、魔法の飛ぶちくわぶを思い浮かべた。
すると、ぐんぐんとちくわぶは伸びて行き、人が一人乗れるほど長さになった。いきなり形を変えたちくわぶに、二人は目を丸くし、口をあんぐりと開けた。
「俺はちくわぶ使いで、ちくわぶで色々なことができるんだ」
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