第3話

 何が起きたのか、あまりにも突然で理解できていないが、嬉しそうに踊って笑う人が目の前にいるだけで、どこか幸せな気持ちになれた。柔らかな日向が心を包み込むような、少しだけ眠くなってしまうような、微睡に沈んでしまいそうになる気持ち。俺が大人の求める子供でいることをやめ、繁華街でゲロを吐くほど落ちぶれてまで求めていたものだった。

 上がりそうになる口角を長い金髪で隠し、俺は九十九の気が済むまで踊り続けた。

「ハジメくん、僕は弟子をなかなか見つけられなくて、師匠にもずっと馬鹿にされていたんだ。でも君に出会えた。それだけでも、素晴らしいことなんだよ」

 踊りをやめ、俺から手を離すと、九十九は少し哀愁を漂わせながら微笑んだ。

「ちくわぶ使いって、弟子がいなきゃいけないのか?」

「僕、教員の資格持ってるからさ。弟子がいなきゃ、ずっと無職のままなんだよ」

 上着のポケットから取り出したちくわぶを一振りすると、ちくわぶの形をしたバッジに形を変え、見たことのない文字で何かが書かれていた。ちくわぶ使いの育成を任された者が持つバッジらしい。

「これからちくわぶ使い本部に行って、君を正式に弟子と認めるための証明書を貰わなきゃいけないんだ。僕がいない少しの間、留守番頼める? 一日だけだからさ」

 俺は静かに頷いた。それを見て、九十九はにこりと微笑むと、緑の高い草原を掻き分けた。

「お金をいくらか渡しておくから、僕がいない間にどっか行って自由に食べていていいよ。屋敷の近くにある通りで、いつも夜になるとおでんの屋台が来るんだ。あそこのおでんは絶品だから、一度食べておくべきだね。ちくわぶもあるんだよ!」

 下山しながら、九十九は延々と近所のおでん屋のおでんが、いかに美味しいのかを語り続けていた。おでん好きでないといけないのが、ちくわぶ使いの決まりなのだろうか。

 俺の右手にはまだ、二輪のアネモネが握られていた。手に力を込め、アネモネを睨み、脳内でちくわぶをイメージすると、みるみるうちに二輪の花はちくわぶに姿を戻したのだった。

 ちくわぶ使い。俺はとんでもない世界に引き込まれてしまったようだ。

 人を殴り、飲酒と喫煙を繰り返し、違法な薬物に手を付けることこそが足を踏み入れてはいけない世界だと思っていたが、ちくわぶ使いという世界も普通とは言えない。

 仲間と馬鹿をして、街を我が物顔で徘徊する日々は楽しくはあったが、この生活の方が刺激的になる気がした。ちくわぶを手に握り、人知を超えた現象を巻き起こす。いつの間にか、前まで腹の中で燻っていた無気力感や承認欲求は消えていた。

 手入れのされていない裏山を降り、廃墟にしか見えない屋敷にたどり着くと、九十九は俺にがま口財布を差し出した。

「えっ、これがお前の財布? クソにダサいな」

「お前じゃなくて、師匠と呼びなさい! あとダサくないから!」

 俺にちくわぶ使いとしての力が本当にあると分かり、自分の弟子になれるかもしれないとなった途端、こいつは急に偉そうな態度になった。

 俺は大きく舌打ちをして、中身を確認する。千三百円。これで俺に一日を生きろと言うのだろうか、この男は。

「じゃあ、僕はもう行くね! 早くしなきゃ師匠にまた色々言われちゃうし!」

 シワだらけのスーツから取り出したちくわぶを前と同じように大きくし、それに跨ると、九十九はそのまま浮上して飛び去った。

 山の頂上で俺たちは随分と長い間、踊っていたようで、すでに日は暮れ始め、『ふるさと』のメロディーが辺りに響き渡っていた。

「兎って美味しいのかな?」

 小学生の頃は、よく「兎追いし」を「兎美味しい」と歌っていたものだ。

 『ふるさと』と同じように、俺もちくわぶ使いとして立派に成長したら、両親の所へ戻ろう。鳴り終わったチャイムの余韻に浸りながら、俺は考える。

 父と母は、俺のことを心配しているだろうか? 九十九に着いて行き、家出を決心してからまだ一日も経っていない。それに、チンピラと成り果てた俺のことを見放した両親は、俺がいなくなってむしろ清々しているはずだ。

「あー、やめだやめ」

 ちくわぶ使いになって、幸せになって欲しいと、俺を救い上げたあの能天気なちくわぶ使いが言っていたではないか。

 俺はズボンのポケットに入れていた、自分の財布の中身を確認する。昨晩、先輩たちと飲みに行ったせいで、百円玉が二枚しか入っていないと言う有様だった。これでは、千三百円しか持っていなかった九十九のことも馬鹿にできない。

 九十九が熱弁していたおでんの屋台へ行き、温かいおでんをたらふく食べて、そのまま屋敷には見えない屋敷で段ボールに包まって眠ろう。

 側から見れば、とても充実した生活を送っているようには思えないだろうが、俺は今置かれている状況を楽しんでいた。

 この後、自分がどんな目に遭うのかも知らずに。

「お? ハジメじゃんか。ここで何やってんだ?」

 背筋がゾワリと震え、身体中の毛穴から冷や汗が溢れ出る。一番会いたくない人の声が、後ろから聞こえてきた。振り向くと、やはりそこには俺をチンピラの世界に誘い込んだ人物──先輩がいた。

「せ、先輩?! どうしてここに?」

「いや、それ俺が聞いたヤツ〜!」

 ゲラゲラと先輩が笑う。先輩の後ろには、いつも連れ立っていた仲間たちもニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら立っていた。

「探したんだぞ〜ハジメ!」

 俺の肩に先輩が腕を回す。息苦しくなっていくのが、よく分かった。この先輩を裏切ったらどんな酷い目に遭うのか、仲間になっていた俺はよく知っている。

「もう、逃さないからな」

 頭に激しい痛みが響いて、目の前が暗くなった。ちゃんとポケットにちくわぶ入れていたかな、と場違いなことを考えながら。

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