どんまい

どんまい

「バレンタインって、春の季語なんだって」

　二月十四日の昼休み。学校の屋上の、さらに上の階段室の上。

　寒凪（かんなぎ）というのだろうか。朝はそれなりに冷え込みはしたものの、陽が高くなるにつれてウォーターブルーの空は優しさを増してきた。

　そんな陽気につられて来てみたら先客に結奈（ゆな）がいて、唐突にそんなことを言う。

「まあ、暦の上では立春を過ぎてるから春——なんだろうな」

　並んで北側の出っ張りに腰掛けて、南の空を見上げていた。ここに座っていれば、陽が良く当たって少しは暖かい。屋上に誰か来ても見えないけれど、向こうから見られることもない。

「ああ。そういうことか。わたしはてっきり、告白がうまくいけば春が来るからだと思ったよ」

　結奈は去年の秋に転校してきた。可憐さを体現した容姿に目が眩んで、多くの男子が彼女に推し変したものの、そのドライな性格が知れ渡るや、彼らは蜘蛛の子のように散っていた。

「誰からも貰えない男子にしてみたら、春どころか厳冬だぞ。小島よしおばりにバレンタインなんか関係ねえって自分に言い聞かせる男子の心中も察して欲しいもんだ」

「誰よ、小島よしおって」

　チョコのやり取りをしない男女間では、暗黙の禁句であるはずのバレンタインという言葉。それをさらりと口にするあたりからも、彼女の性格の一端が窺い知れる。

「それにしてもバレンタイン当日に屋上になんか来るもんじゃないな。いくら晴れていたって寒いことに違いはないから、誰も来ないだろうと思ってたのに」

　先ほどから二組のカップルが現れて、チョコ贈呈の儀式が行われていた。

「あ。また誰か来たみたいよ」

　屋上に出る重い扉は開け閉めする度に大きな音を立てるから、その音だけで人の出入りが把握できてしまう。ある意味便利なシステムだ。カップルであることは話し声から判断するしかないが、その判別は難しくもない。　

　この昼休み三組目のカップルだ。

　生徒会あたりが整理券でも配布しているのか、うまい具合に時間をずらしてやって来る。

「妬かない妬かない。モテない男の僻（ひが）みはみっともないよ」

「ほっとけ」

　別に申し合わせたわけでもないが、カップルが来た時には二人とも小声になる。ラブラブな二人の邪魔をするほど野暮ではないのだ。

「可哀想。誰からも貰えそうにないの？」

「うるさい。こうやっておまえと一緒にいることが多くなって、他の女子が遠慮してるんだ、きっと」

「人のせいにするなんて潔くないなあ。そういえば、桐田（きりた）先輩からチョコ貰ったことないの？」

　結奈は唐突かつ無神経に、内角高めにエグい球を投げて来た。

「な、何でそんなこと訊くんだよっ⁈」

「ただの好奇心」

　呑みこんだ言葉が喉に詰まりそうになって、結奈から離れ、その場に寝転がった。

　すると、あろうことか彼女も隣に来て寝転ぶではないか。

「制服が汚れるぞ」

　屋上も土足ではなく上履きではあるものの、吹きっさらしには違いない。

「自分だって」

　結奈のいう桐田先輩——桐田真衣と俺は幼馴染みで、下の名前で呼び合う仲だった。幼い頃は一つの年齢差なんて、あって無きが如しだ。なのに、中学高校と進むに連れて、開くはずのない年齢差が開いたかの如く、二人の距離は遠のいた。その距離に比例するかのように、俺ばかりが一方的に恋心を募らせている。

　真衣が部長を務める茶道部に結奈が入ったことから、この女はどうやってか、俺たちのことを嗅ぎつけたらしいのだ。

　三組目のカップルが退場したと思ったら、またすぐに四組目が入場してきた。こうなると、いよいよ他に何組も階段に並んで順番待ちをしているとしか思えない。

　とっとと済ませて、早くいなくなってくれ。

　頭の中で悪態をついたとき、今上がって来たカップルの話し声が聞こえてきた。盗み聞きをしようなどと思ってはいないのだが、前の三組よりも近くで儀式を始めたらしく、内容まで聞き取れてしまう。

　そして、その女子の声はどこか琴線に触れる声でもあった。

「……くん、これ、貰ってくれるかな」

　間違いない——真衣の声だ。

　ボーリングの球をいくつも飲み込んだような気分になった。

　男の方はありがとうとか何とか言って受け取ったようだ。

　こんなところで二人きりで渡すのは、どう考えても義理じゃないよなぁ……。

　小さく溜め息を吐（つ）いたところで視線を感じ、横を見ると何か言いたげな結奈と目が合った。

「何だよ？」

　ほとんど声にはなっていなかったが、口の動きだけでも伝わったらしい。同じく、口の動きだけで言い返して来た。

「どんまい」

　視線を空に戻し、今度は体中の空気を入れ替えるほどの大きな溜め息を吐いた。

　青い空がさっきよりも少し遠のいた。

　薄い雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。

　高いところを小さな鳥のシルエットが横切った。　

　屋上の無粋な扉がそんな静寂を台無しにしてくれた。

　真衣たち二人の退場に合わせたかのように予鈴が鳴って、俺たちは立ち上がった。

　壁に埋め込まれた梯子（はしご）をつたって屋上まで降りると、先に降りていた結奈が優しく俺の背中を払ってくれながら、容赦のない言葉を投げつけてきた。

「他人の初恋が終わった瞬間に立ち会ったのは、初めてだよ」

「よくそんなふうに他人の傷口に塩を塗り込めるな」

「わたしの背中も払ってよ」

　仕方なく払ってやる。

「ありがと」

　結奈はこちらに向き直ると、ポケットから小さなチョコを一粒だけ取り出して差し出してきた。

「はい。残念賞」

「るせい」

　その場でチョコの包装を解いて口に放り込んで噛み砕くと、春の遠さを噛み締めた気分になった。

　　『どんまい』　——了——