7(※同性愛表現)
「なんだなんだ?」
「あっ、先輩。」
ゲーム会場の外では参加条件外の者達が会場の異変にざわめき始めていた。さっき来たばかりの長身の中年と、エミーリオが覗きこむようにして向こうの様子を伺う。
「何か面白いことでも起こったのか?」
不適な笑みを浮かべる男に先客が説明した。
「あれのどこが面白そうだって言うんだか。アリスが突然消えたり死体が転がってたりでみんな大パニックなんですよ。」
それを聞いて更に笑みをあらわにする。エミーリオはドン引きだ。
「ほぉ~?死体・・・は、ちょい微妙だが、これまた面白そうじゃねえか!」
「まあねえ。帽子屋もつかまっちまったしねえ。」
中年の男性からふっと笑みが消えた。
「なんだと?」
「いやこればかりはわからんのよ。なんでも「アリスの行方を知っているのは奴だ」って感じでってうわあ!?」
血の気がすっかり失せたエミーリオが男の肩に掴みかかる。驚いて口をあんぐり開けた相手を無視して捲し立てるように問い詰めた。
「フランちゃ・・・眠り鼠は!?帽子屋が捕まったんならその仲間の彼女も絶対道連れになるに決まっている!彼女も捕まったのか!?」
男は鬱陶しそうに手を払い除ける。
「捕まったのは帽子屋だけだよ。ヤマネも最初は捕まったがすぐ解放された。目立ちたくねえからこそこそ逃げてんじゃねえの?」
それだけ伝えて男はガヤに参加した。内心では少しだけホッとしたが、やはり気がかりなのはシフォンだった。彼はああ見えて真面目ではあるが、他人に関しての面倒事はできるだけ回避したがる。エミーリオが知るシフォンはそんな人物だった。そんな彼なら「知らない」とシラを切りそうなもの。いや、女王のことだ。逃げようにも逃げられるはずがないのだろう。
「フランちゃん・・・。」
彼だけ捕まって自分だけ助かってのうのうと過ごせるほど図太くない。これはエミーリオの想像だが。雨は皮肉にも「お仕事を終えた」と言わんばかりに勢いが弱くなっていった。
―――――・・・。
「・・・ッ。」
シフォンは瞼を開けた。長らく寝ていたのか、はたまた気を失っていたのかもわからない。目が覚めたら、視界に入り込む光ははるか上の小さな窓のみの薄暗い石造りの何もない部屋にいた。そこまで広くない上にまるで円柱のようにぐるりと囲む壁。
「ほう、気持ちいいあまりに寝てしまっていたか?」
体が思ったように動かない。動かすたびに、鉄が擦れる音がする。彼はしっかりと束縛されていた。天井から鎖が吊るされており下へ下へと続けば手の自由を奪うための手鉄の手枷へと繋がる。今の状態で言うと両腕は上がった状態だ。足にも枷はついていた。さらけ出された上半身には無数の生々しい傷や青痣。それは「アリスを隠した場所を吐かせる為の拷問」という名の女王の単なる八つ当たりのもの。
「・・・んなわけないっての。」
シフォンは寝ていたわけではなかった。いつまでも終わらない拷問に途中で気を失って今に至るのだ。目が覚めた瞬間じわじわと鈍い痛みが襲ってくる。
「やれやれ。どうしたものか。 」
腕で揺らしてみたら僅かに揺れる鎖はそこそこ重い。上の空で天井を見上げる。
「フランネル・・・。」
なんとか逃れることのできた仲間の顔が頭に浮かぶ。今頃どうしているかはわからないが、ここには絶対に来れない。
「君なら「新しい僕」ともすぐにやっていけるさ。・・・。」
次によぎったのはお茶会にいたもう一人の仲間、シュトーレン。彼はシフォンの状況をおそらく知らない。フランネルがどう話してくれるだろうか心配だ。シュトーレンに対しては後悔しかなかった。あれが最後のお別れになるかもしれないからだ。フランネルと別れる際、彼女に謝罪の言葉を代わりに伝えるようお願いするはずだったのにとっさにやめたのは、せめて自分の口で謝りたかったから。でも、こうなるぐらいなら。伝わらないまま終わるぐらいなら人の口を借りてでも伝えたかった。
「・・・。」
シフォンはここで死ぬつもりだった。さっさと全てを吐露すれば楽になれただろうに。自嘲に口端が上がる。都合の良い幸せな記憶だけを思い出して。
「・・・シフォンさん!!」
自分を呼ぶ、小さいけど元気な声。膝の上にひらひらとなにかが舞い落ちてきた。
「天国への迎えはまだ早いのではないか?」
長らく話す相手がいなかったのでついつい独り言がそのまま漏れてしまう。しかし、落ちたのは天使の羽なんかではなくそこらへんでよく見るような淡い灰色の羽だった。
「シフォンさん!!俺っスよ!」
足元に一羽の鳩がやってきた。何が起こったかわからなかったが、聞き覚えのある声だったのでなおさら驚いた。
「君はエミーリオじゃないか。喋れるようになったんだな。」
「ええ、なんとか!!」
つぶらな瞳で小首を傾げられたりするとこれが自分と同じ歳の青年だとは思えない。
「それよりシフォンさん!今すぐここを抜けましょう!!」
シフォンが今度は小首を傾げる。
「何言って・・・。それは?」
エミーリオは首に鍵をかけていたが、察しがついた。
「はい!この姿だと簡単に盗めたんですよ!」
一見するとただの鳩。その姿でまんまと侵入し、牢の鍵を手に入れたのだ。
「逃げましょう、早く。隣国には俺の知り合いで優秀な弁護士がいるからその人に頼めばきっとなんとかなるっす!!」
嘴をぱくぱくさせてるだけで流暢に喋る様は滑稽だ。だが、今はそんな事気にしている場合ではない。事はいつしか大事になりつつあるのだ。
「早くこんなところから抜け出してみんなのところに・・・・・・。」
まだ何か言いたそうだった。その後の言葉が紡がれることはなかった。
「エミーリオ!!」
シフォンの呼ぶ声にも返ってこない。その胸には刹那の間に深々と棘の鋭利な薔薇が突き刺さっていた。一羽の鳩はしばし羽を震わせ体は痙攣を起こしていたがすぐに身動きをやめ、花弁落ちる地面もまた血溜まりを作り薔薇色に染めた。
「おやおや、鳩のくせに虫の息ですかね?いや、もう息絶えたってとこですかね?」
シフォンの後ろから聞いたことのある声がした。振り向くよりその声の主が目の前に歩み寄った。下には白いスーツを着ていたが違いはたったそれだけだった。
「ジャック、貴様・・・。」
憎しみを露にした眼差しで睨む。ジャックは薄ら笑いを浮かべるだけだ。
「あははは、失礼!つい目障りだったもので。鳥って嫌いなんですよねえ。むかつくでしょう。」
薄ら笑いを浮かべたままヒールのない靴で、足元の「それ」を力一杯踏みつけた。とても見るに堪えない赤色が乱れる。
「やめろ!!!」
止めようと必死のシフォンさえもジャックは鼻で笑い、足は退けた。
「おっといけない。掃除の手間を増やしてしまった。それより、良いお知らせがあるので伝えに来たんですよ。貴方は釈放されることになりました。オメデトウゴザイマス。」
ぐいっと顔を寄せるがシフォンはいまだに睨み続けている。
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味でございます。ただ、一つ聞きたいことがあります。答えてくれたら、今すぐにでも解放してあげましょう。」
くるりと背中を向けた彼が問いかけたのは。
「ジョーカーとはどういった関係で?」
と言って数秒ほど、振り向いたら今度は随分小馬鹿にした笑みを浮かべていた。
「おおっと失礼!どういう繋がりで?」
訂正する気があるのかないのか、どちらにせよ語弊のある言い方には変わらない・・・いや、語弊などない。場に合わなさすぎるわざとらしい素振りには疑心に加え不快にさせられ、シフォンの方はまるで苦虫を噛み潰したかのような顔だ。
「アイツの事を知っているなら、お前もさては喚ばれてきたな?」
「ええ。この世界にはおそらく、そのような方が大勢いるのでしょう。」
腕を組んで壁にもたれる。相変わらずうすら笑みを顔に貼り付けたまま。ここからは世界の真実を知るもの同士だけの誰にもきかれてはいけない秘密の会話が始まる。この世界に住む人ですらわからない話を。
「なら、僕も所詮そのうちの一人だ。」
一瞬、ジャックの表情から笑みが消えた。
「彼はアリスに関することを言っていた。それをあなたに対して。あなた以外には聞かれてはいけないようにも捉えられる。ですから、あなたもこの世界の何かを知っているのではないかと。」
一生懸命考える。やたら屁理屈の多い彼を納得させる言い訳を。
「だったとしたら、なんだ?」
この問いに対する出方による。まあ、ジャックのことだ。かまをかけるために平然と嘘をつきそうだが。すると、睨みをやめ、体の緊張をフッと抜いた。
「いえ、別に?」
ここまで引っ張っといて自らが引いた。シフォンは警戒しないわけがない。これもまた聞きたいことを聞き出すための話術なのかと。
「面白い話でも聞けるのではないか、そう思っただけですよ。・・・お返しに、面白くもなんともないお話をしてあげましょう。」
「暇なのか、お前。」
そんな嫌味にもこなれた様子で笑い飛ばした。
「・・・俺はこの世界に呼ばれる前はただの魔法使いでした。俗に言うファンタジーな異世界の住人だったんです。」
突然始まった自分語り。シフォンはそれほど驚かなかった。彼が不思議な力を出し惜しみなくお披露目してくれるから、その力はきっとそのせいなのだと
理解してしまう。同時に後悔した。喚ばれる者は何も「自分のような人間」とは限らず、どんな世界から喚ばれるのかもわからないということを思い知った。なぜ、ただの帽子屋であるシフォンがそこまで考え込むのか、今は置いといて。
「ここに呼ばれる前、諸事情で一度あの方に引き止められたんですよ。そのついでに、まあ色々聞かせてもらいまして・・・。」
「・・・・・・。」
余計なことを。心の中でぼやいた。先ほども誰かさんがうっかりやらかしたせいでこんな目に遭っているのに。と、同時にどこかむず痒い気持ちだった。彼がどこまで話したか知らないが、もしかするとこの世界ができた経緯なんか知られたりして、と考えると落ち着かない。
「世界の元となった物語。すばらしいものでした。生きている間にサインが欲しいものです。」
気分は最悪だった。悪い気分ではない。この状況ではこんな素直な感想でさえ裏がありそうな気がしてならないからだ。ジャックは一通り語り尽くしたあと、ドアの方へ行ってしまう。
「俺の話したいのはここまで。残念ながら俺は暇というわけではないので、ではでは・・・。」
「僕はまだ答えてないぞ。」
ジャックは立ち止まるが振り向かない。
「・・・答えてくれましたね。たった今。」
してやられた。シフォンはますます彼の口車に乗せられて悔しさと情けなさに苦しく詰まりそうな息を吐き出した。
「君は嘘をつくのが上手でも隠すのはてんで下手くそですね。」
鍵穴が動く音が響き、重いドアが開く。ジャックはこちらを一瞥もせず、開きっぱなしのドアを無視して何処かへ行ってしまった。さて、罪人を放り込む場所において脱獄してくださいと言わんばかりの状況ではあるのだが。
「なんなんだったんだ・・・?」
結局シフォンは放置された。ちなみに、あれから数分後、別の兵士によって解放されたのであった。
「・・・あれ?なんでだ?」
シュトーレンは一人困惑していた。広い庭の真ん中に突っ立っている。お茶会のテーブルには今日も相変わらず誰がこんなに食うんだと言わんばかりのお菓子が盛られていた。
「なんで風船、飛ばないんだろ。」
真っ赤な丸い風船が足下で風に吹かれて転がり回る。ただの暇つぶしだったが、少しだけがっかり。仕方なく風船を拾い上げる。
「息を吹き込んだだけの風船は飛ばないよ。」
長い耳が跳ね上がった。しばらく聞いてなかった、懐かしすぎる声が聞こえたのだ。
「シフォン!!」
本当なら嬉しさのあまり今すぐにでも駆け寄りたい。しかしまだ足が動かない。頭の中に鮮明に焼き付いたあの顔が記憶に蘇った。立ちすくむシュトーレンを目の前にシフォンは頭に疑問符を浮かべている。
「シュトーレン?」
「シフォン・・・その・・・ごめんって言えばいいのか?」
その一言で漸く思い出す。突き放したいつかの弱々しい彼を。中途半端に垂れ下がった耳。反省はしているんだろうが、どこか間の抜けた小首を傾げる仕草に笑いがこみあげてくる。
「ははは・・・それを僕に聞いてどうするのさ。」
「なんで笑うんだ?」
思ってもなかった反応に更に戸惑うシュトーレンにしばし笑いを堪えられずにいたが、なんとかいつもの平静を取り戻したシフォンが気づいたのはもう一人の客人がいないこと。
「フランネルは?」
「フランネルなら俺の部屋で寝てるぞ。森で迷って、知らない街に出て、歩き疲れてしんどいってさ。」
すごく想像できる。目立つのを避けて人目の少ない場所を選んだ結果、彷徨い疲弊したという。申し訳ない気持ちもありつつ、無事で良かったと安堵の大息をついた。いや、正直言えば、彼の部屋で寝てるという言葉で一瞬だけヒヤッとしたのも事実。
「そうか。シュトーレン、悪いが僕も疲れている。中で休んでも構わないかい?」
シュトーレンはふとテーブルに並んだ沢山のお菓子に視線を落とした。
「なに、誰かさんみたいに爆睡したりしないさ。お腹も空いてるし、あとでいただくから置いといてくれ。」
そう言って返事も待たず、さっさと入ってしまった。三月兎の家は二人のどちらかがたまに利用する。笑みを繕っていたが、おぼつかない足取りで声に元気が全くないのはシュトーレンから見てもよくわかった。自分だって疲れたら休みたい。だから今はそっとしておこうと何も言わず背中を見届けた。作っていたお菓子を口に入れる。想像していたよりパサパサで咀嚼するたびに咥内の水分が失われていくのが気持ち悪く紅茶で一気飲みした。
「ぅあっつ!!!!」
淹れたばかりの紅茶は物凄く熱かった。なんとなく喉にまとめて流し込んだものの、袖を噛んで声に出さず悶えていた。
「なーにやってんの?」
テーブルの下からなにかが出てきてこっちを見上げる。気配もなく現れるのがお決まりのチェシャ猫だった。
「紅茶がすごく熱かった。」
「そりゃあそいつは熱いに決まってるだろうね。」
チェシャ猫はようやくテーブルの外から姿を現す。尻尾にはひとつの紙袋が吊るされてゆらゆらと揺れている。
「猫はちょいとおじいちゃんに頼まれ事をされててね。これを帽子屋に渡しといて。尻尾触ったらただじゃおかないから。」
器用に尻尾を前に動かし提げられていた紙袋をシュトーレンはそっと手を伸ばし受け取った。
「なんだこれ。おじいちゃん?」
中を見てみたら白いボトルがひとつ入っていた。
「シグルドのこと。帽子屋のこと聞き付けてね。おくすり・・・とかそんな感じ。ま、渡したらわかると思うよ。んじゃ。」
シグルドに対しての誤った情報を与え、シフォンに対してはいまいち情報不足のまま、自分の用事さえ済めばさっさと帰ろうとしたチェシャ猫を咄嗟に引き留めた。
「待てよ!!!」
「に゙ゃあああああ!!?」
掴んだのは腕ではなく尻尾だった。身体を跳ね上がらせ勢いよく振り向いた顔は見たこともないぐらい、いきり立っていた。
「ただじゃおかないって言っただろ!!」
「お前が渡せばいいだろ?」
チェシャ猫もしばし固まる。
「わかってないにゃ~。そこは君が渡してからこそ、じゃにゃいのかにゃ~?」
明らかに小馬鹿にしたような言い種に対し鈍感なシュトーレンはそれを聞いて「は?」と拍子抜けた声を漏らす。
「まーいいから行ってきなよ。喜ぶよ、多分。身体にも心にも効く薬ー・・・ってね。」
軽くなった尻尾をひょいと引っ込める。喜ぶという言葉にすぐさま反応したシュトーレンが耳をぴんと立て紙袋を両手に包んで駆けていった。
「・・・いやー、油断してた。まさか尻尾がこうも弱点なんてね・・・。」
まだ常温にも達してない紅茶を一気飲みして長い溜め息をついた。目の色が金から深い紫へと変わり、笑顔も仕草もまた胡散臭く。
「ジャックさんからのプレゼントです。シーユーアゲイン。」
猫かぶった道化はその場を自らの足で立ち去った。
――――――――・・・。
彼がいる部屋を探す。とはいえ、なんとなくシュトーレンはわかっていた。全く無縁のスペースである書斎は客人を泊めるための貸し部屋状態になっていて、シフォンはそこに居るだろうと。少し埃のかぶった床を進む。玄関を右に曲がり左に曲がり分かれた廊下を左にまた曲がって三つ目の扉。書斎とだけ書かれた、ただでさえ無視してばかりでめったにお目に掛かることのない札が貼ってあるドアノブに手を伸ばそうとしたが、咄嗟に判断したのか何回かノックをした。ドアの向こうから声はしない。でもそこにいたという確信はあった。耳をすませたらたしかに布が擦れる音がした。誰かはいる、だがその誰かは「誰か」ではない。数秒間を置いてやっとにノブを捻れば金属が動く音と共にドアは開いた。
「おじゃまする。」
どこで覚えたか変な挨拶をぼそぼそと言いドアから顔だけ覗き込む。昼間からカーテンさえも閉めているもので部屋は暗く、開けたドアの隙間から差し込む光が唯一の明かりとなって真っ直ぐ伸びる。その光の中に一人の背中があった。
「シフォン。なんか猫がおじいちゃんからお薬って。」
「おじいちゃん?」
シフォンは察している。しかし、シグルドがチェシャ猫を遣うことはめったに無いため意外ではあった。
「おじいちゃん。」
「はいはい。そこらへんに置いといてくれ。」
そこらへんと聞いてシュトーレンは置き場所を探す。とりあえず、後ろに手を伸ばしたらすぐに届くところにそっと置いた。早速袋から茶色の透明の瓶を取り出す。
「なあ・・・クロケーてやつは、そんなにボロボロになる遊びなのか?」
本当は聞きたい話が沢山あった。クレヴァーがどうなったのかをシフォンが帰ってきたら一番先に聞こうと考えていた。でも、この背中を見たら聞かざるをえなかった。心配になって当然。背中には痛々しいほど傷だらけだ。
例えば、鞭により裂かれた皮膚。
例えば、烙印により爛れた皮膚。
例えば、その他暴力による痣だったり。
切り傷、擦り傷、火傷、たまに負うであろう傷からめったにない傷まで、傷という傷をここ数日で容赦なく刻まれた。今だって痛みを堪えてやっと普通に話せるっていうのに。まあ、勿論余計なことは言わないつもりだ。シュトーレンが彼が「危険な遊びでそうなった」と勘違いしているのならそれでいい、と。
「いてて・・・。」
腕を上げて背中に塗ろうとした。が、自分が思ったより体が固く中央まで届かず手がかすかに震えている。腕や肘の傷も開きかけて痛い。
「・・・薬かせよ。」
見かねたシュトーレンに頭に渋々無言で薬を渡した。なんとかして意地で塗ろうとしたけど時間が経つだけで余計な恥ずかしかった。慣れた手つきで薬を薄く塗る。最初から任せた方が良かったのでは?と思えるぐらい。
「ていうか、どうやったらこんなボロボロになるんだよ。ドジなのか?」
「激しい運動は苦手でね。」
気取った態度を装ってみた。いや、逆に激しい運動をしないとこうならないのでは?なんて疑問を浮かべつつ。
「シフォン運動できなさそうだもんな。」
と悪気なく返した。
「否定はしない。にしても彼女はあまりに手強い。相当苦戦したものだ。」
事実ろくに戦ってもいないのだが。
「そうか・・・。」
返事がそっけないあたり真剣に聞いているのか、飽きているのか。しかし、相当溜まっていたのだろう。愚痴に近い感覚で一人話し続ける。
「クレヴァーも途中で急にいなくなるからそりゃあもう吃驚したさ。お前が匿ったんじゃないかって変なとばっちりまで受けて大変・・・。」
口が止まる。いや、シュトーレンは口も手も止まっていた。
「おいおい。聞くのに夢中にならないで早く塗っておくれよ。・・・どうしたんだい?君は二つのことが一度に出来ない奴なのか?」
振り向き様に半ばからかってみた。俯いててよくわからなかったが、様子がおかしいのはすぐにわかった。
「シュトーレン?」
声に反応して顔を上げる。やや紅潮して息も荒くなっていた。自分よりもはるか遠くを見ているような気がした。なにもかもが突然の変貌なのだ。
「急にどうしたんだよ。具合でも悪いのか?」
向かい合って肩に手を添え、弱い力で揺さぶってみると前後に力なく動く。ぼそぼそと口から漏れるのはまるで寝言のよう。
「・・・聞きたいことがあるんだ・・・。」
ほかの物音もなくこんなに近くにいるのに、はっきり喋ってくれないからちゃんと伝わらない。
「なんだ、言ってみろ。・・・!?」
彼の口から聞き出そうとした試みた最中。
「でも・・・無理・・・。」
ほんの一瞬の出来事に思考が働かなかった。ほとんど力の抜けた体はいともたやすく押し倒されてしまう。傷や打身は全身に渡り、この程度強く打ち付けたぐらいではさほど痛くない脇腹にも激痛が走った。
「く、ぅ・・・。」
顔のあらゆる筋肉に力が入る。なんとか自力で起き上がろうと震える肘を立てようとするも空いてる腕を捕まれ横向きになっている体が仰向きに、そして片方の腕も床に押さえつけられた。頭は中身がいっぱい詰まった玩具箱がひっくり返ったごとくとっ散らかっている。
「何をする!この手を退けろ!!」
脳内の処理がどうにか追いつき、抵抗を試みる。彼の動きを封じる細い腕は想像以上に強い力でびくともしない。シュトーレンはじっとこっちに視線を落とす。薬による床と背中の間の感触も、何を考えているか見当のつかない眼差しも、なにもかもが気持ちの悪いものだった。
「頼む・・・。」
無駄な抵抗だとしても再び腕に力をいれる。足は打撲をしたため思ったように動かない。手の自由が利かず隠すことさえできない顔にいつもの威勢や余裕はない。ただひたすらに目の前に迫りくるよくわからない恐怖に対して許しを乞う、弱い人間のそれだった。見開いた瞳は怯えて揺れていた。伝えたい言葉がまとまらない。しかしまだ一縷の望みをかけて、「わかってくれるかもしれない」といまだに救われることを望んだ。
「・・・の嘘つき。」
そうとだけシュトーレンは呟いた。目は完全に据わっていた。気のせいだろうか。自分ではない名前を口にしたと思ったのは。だとしたら、誰だろうか。そもそもなんて言ったのだろうか?なんてことを空ろに考えていた時だった。
「・・・!?」
身体に触れる吐息が近くなるのを感じてようやく何が起こったかを理解できた。最初、押し倒された時はなにがなんだかさっぱりだった。理解できてなお、信じられなかった。
彼は発情を起こした。
しかし、なぜだ。今はまだ三月ではない。
発情期は三月だ。この症状はまさに
「やっ、めろ・・・この!離せ!!」
振りほどこうと渾身の力で腕をあげようとしても倍の力で上から床にしっかりと固定されていて手首にわずかな痛みさえ感じ、首に這う冷たい感触に肩が僅かに跳ね、反射的にぎゅっと目を閉じる。
「馬鹿じゃないのか!!聞こえてるだろ!!」
切羽詰まった尖り声を上げると手が離れた。何故か、など気にするどころではない。少しでもこっちに抵抗の余裕が出来たのだから今のうちに逃げるしかないのだ。後の事は後で考えられる。でも、できなかった。彼の目も、顔も。溢れそうな感情を堪えているように見えたから。一体全体、襲う方がなぜそんな顔をするのか。
「あれ・・・シフォン、俺・・・。」
震える手が頬に触れる。その手のひらから伝わるのはためらい。蕩けて陰りのある瞳はいつもの澄んだ眼差しで、やっと自分を見てくれたような気がした。
「シュトーレン・・・。」
名前を呼ぶ。瞼いっぱいの涙を拭って意味不明なことを呟き始めた。
「どっちなんだよ、お前は。わからない・・・。どっちも・・・。」
わからないのはこちらの台詞である。彼はいったい、何に対してどんな気持ちでいるのか。せめて、もう少し話してくれたら落ち着かせてあげられることもできるはずが言葉足らずでちっとも伝わらない。それなのに、体ばかり動くのだ。
「どっちも好きだ。シフォンも、アイツも。離したくない。」
「えっ・・・。」
真意を問う間もない。その口を唇で塞がれてしまっては。頭の中は真っ白だ。自分は何をされているか理解しても、理解したくない気持ちとの板挟みで、息が苦しく感じるのはいつもの呼吸ができないからだけではなかった。
「ん゛っ、んん・・・、ッ!!」
必死に腕を振り解こうとしてもびくともしない。焦るに焦るシフォンもさっきより更に力が入らないことを自覚している。でも、怖い。ただただ怖かった。状況が、彼が、そしてこのまま気を許せば取り返しがつかなくなりそうで怖い。
このままではまずい。冷たい手が違う所に伸びる。わずかにお互いが離れ口の自由がきいた隙を狙った。大きく息を吸い込む余裕はない。それでも、出せるだけの声を上げた。
「うわああああああぁぁぁぁぁ!!!!!」
目の前で叫ばれたもんなら耳のいいシュトーレンにとって「うるさい」だけでは済まない。鼓膜が破れそうな痛みさえ伴う。実際、目を強く閉じて俯いてるので手応えはあった。しかし、腕の力はまだ抜けきっていない。せめて・・・せめて振り払えるほど気を緩ませられたなら。すると、部屋の向こうから壁越しに忙しない足音が聞こえてきた。
「シフォン!!」
駆け付けたのは寝ているはずのフランネルだった。手には重そうな花瓶、滅多に見ない険しい表情、淡い茶色の瞳が金色に光った時、目があったシュトーレンの動きがピタリと静止した。意識が眩み、彼女の名前を言う間もなくその場にぐらりと倒れてしまった。何が起こったか一瞬で把握できず呆然としたまま荒い呼吸を整え、体を起こす。シュトーレンは先程の勢い盛んな様子とはうってかわって気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「フラン・・・お前・・・。」
安堵するのも束の間、フランネルがその場で膝から崩れ落ちてしまった。急な事続きでうまく力が入らない足でぎこちなく立ち上がり慌てて体を起こす。フランネルもまた、シュトーレンと同様顔を紅潮させ不規則な呼吸を繰り返している。
「・・・この状態は力がうまく使えるかどうかわからない。だから、持ってきたけど・・・よかった・・・。」
地面に座り込み、落ちても尚軽くヒビが入っただけの丈夫な花瓶を抱え込んだ。いざとなれば攻撃的な彼女も、できるなら傷つけたくない人だっているのだから。フランネルは催眠の力を持っている。ただ、一人に対して一瞬だけならそこまで負担はかからないはずなのだ。
「シフォン。聞いて。その薬はただの傷薬じゃないわ。」
床に転がった瓶を横目に、声と顔はいつになく真剣だった。
「人間には無害だけど、動物には有害な物質が含まれている。彼もそう。私だって・・・あなたのそばにいると立ってられないのよ。」
シフォンは自分で塗れるところはすでに塗ってある。助けてもらって、更に害を及ぼしているのだから申し訳ない気持ちにもなる。
「あれ・・・誰が持ってきたの?」
「あれは・・・。」
シフォンは今だに座ったままだった。シュトーレンが横向きで眠っているそばにある瓶。
「アイツがチェシャ猫が持ってきたと言っていた。猫も、おじいちゃんから薬を渡してくれとも。おじいちゃんはシグルドのことだろうが・・・。」
次に聞こえたのは深いため息。
「馬鹿じゃないの?シグルドがよりにもよってよくわからない奴に薬を預けると思う?」
シフォンは先ほど自分が言ったのと同じような罵倒を浴びた。でも納得してしまった。意外どころの話ではなく、ありえない。シグルドの誠実で責任感の強い性格と薬を扱う職業を考えればもっと違和感があってもよかったものを。彼なら信頼のある真面目な人に頼むか、そもそも自分で届けにくると。では、チェシャ猫に頼んだのは一体誰だ?と新たな疑問が浮かんでくるわけだが。
「・・・それ、あとで袋に入れて持ってきて。ちゃんとした薬なのか、シグルドに調べてもらう。だからあなたも体を洗い流さないと。」
近くに支えるものがないから自力で立ち上がる。
「・・・もう無理。しんどい・・・。」
生まれたての子やぎみたいな、見ていて不安になるほど震えていて、ふらつきながら、おぼつかない足取りで部屋を出た。一刻も早く彼から離れたいのだ。シフォンは動ける。シュトーレンの処理をどうするかは彼に委ねた。
「・・・さて、と。」
置き去りにされた二人。シフォンはシャワーを浴びる前に、残る限りの力でシュトーレンを彼の部屋に運んだ。シワの少ないベッドに放り落とし、シーツではなく毛布をかぶせてやった。今日は少し寒い。なので上が素っ裸なのもわりと堪えるというもの。
「さっきわけわからないことを言ってたのは、薬のせいで幻覚でも見ていたのか?」
まあいい。今はいい夢を。そう願い、シフォンは今後どうするかを考えながら難しい顔でその場を後にした。
死んだように眠っているシュトーレンは顔を埋めている。夢から覚めればもう二度と懐かしい情景に出会えなくなることをこの時はまだ知るよしもなく。
「みんな・・・。」
誰の耳にも目にも届くことのない寝言と涙は零れた。
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