特別事象 帽子屋の場合 3



父さんの死からだいぶ経った。他に身寄りのない僕らは小さな家で二人暮らし。お見舞いに足を運ぶ手間は無くなったが、胸に穴が開いた感じがずっと続いていた。姉さんは相変わらず笑顔を絶やさなかったが、気のせいか、少しやつれたように見える。できるだけそばにいたい。でも僕が働いてお金を稼がなくては。毎日が限界で、生活のこと以外考える余裕もなくなった。今は趣味の小説でさえする気がない。こんな精神状態で綴る物語もきっとろくなもんじゃないだろう。


「ただいま、姉さん。」

今日は吹雪いていたが、寒さもろくに感じなくなった。慣れたわけではない。

「おかえりなさい。」

車椅子を器用に動かして出迎えてくれる。食卓もいつも通り。

「あらあら、風邪ひいちゃうわ。先に暖炉で・・・。」

「せっかくの夕飯が冷めちゃうよ。お腹も空いたし。」

コートをかけて、食卓を二人で囲む。いつも通り。

「・・・・・・。」

「・・・・・・。」

変化といえば会話が減ってしまったこと。お互いの関係性が拗れたわけではない。僕らの間には何もない。父さんも家にいない日が長かったから実質変わりないはずなんだ。どうしてこうなってしまったのか・・・。

「ねえ、ルート。相談があるの。」

「なに?」

ちょうどいい熱さのシチューを口に運びながら真剣な姉さんからどんな相談が来るか待っていた。

「私も働こうかなって・・・ルート!?」

衝撃のあまり噴き出してしまった。一緒になって心臓まで口から飛び出るかと思った。

「げほっ・・・ちょっ、ちょっとまって・・・急になにを言い出すんだ・・・!」

「大丈夫?って、私は真剣なのよ!」

冗談だとは一言も言ってない!

「ダメに決まってるだろ!」

「ちゃんと障害者でも働ける場所を探すから・・・!」

姉さんを落ち着かせるため、身を乗り出し肩を掴んだ。

「そういう事じゃない。足がダメでもダメじゃなくても、姉さんには無理してほしくないんだ。稼ぎが不十分なら僕が頑張るから・・・。」

情けない話だ。現実の事でさえ、姉さんに心配させるなんて。だけども構わない。気を遣わせないよう努力しないといけないが、頑張ると決めたのは僕自らの意思だから。

「でも・・・。」

「無理はしないさ。体を壊さない程度にね。だから心配しないで。姉さんのそんな顔見ると、僕も元気なくなっちゃう。」

頭を撫でた。まだ腑に落ちない様子で渋々だったが、少し落ち着いてくれたようでなにより。

「ルート、ごめんね・・・。」

「謝らないでよ。ほら、食べよう。今日は久々に趣味の小説も再開する予定なんだ。」

そんな予定はなかったが・・・。

「本当!?」

長らく滞っていた作品の続きが紡がれるとなった姉さんのこの嬉しそうな顔。この顔が見れるなら、久々にペンを執ってみるか。

「やったわ!じゃあ早く食べないと・・・。」

スプーンに伸ばされるはずだった手は、突如胸元を力強くおさえる。顔が強張り、何かに驚いたように目が見開き、体が震えている。明らかに様子がおかしい。

「姉さん!?」

椅子を吹っ飛ばす勢いで駆け寄る。苦しそうに咳き込む姉さんの背中をさする。喉につまらせたのか?違う、これは。

「どうしたの、姉さん!」

乾いた咳と共に吐き出したのは、血。淡い色のブラウスが真っ赤に滲み、床には血の吐き溜まり。急を要する事態だと慌てて医者を呼んだ。



病室のベッド。二度と見ることはないと思っていた。しかもベッドの中にいるのは、残された僕の家族。姉さんはがんを患っていた。しかも最近の話ではない。前から症状はあり、もはや末期なのだと。一体いつからなんだろう。苦しかったろうに、僕に気づかれないようずっと笑顔で隠していたというのか?

「・・・ごめんね。」

姉さんらしくない、消え入りそうなか細い声でなおも謝る。

「だから謝らないでってば・・・。いや、謝らなくていいけど、なんで黙ってたのさ。」

苛立ちと焦りが募る。責めたくはないのに、気づかなかった自分が情けない余り、人のせいにしてしまいたくて。姉さんは僕の方を見て笑った。その笑顔もどうせ、作り笑いなんだろ。

「ルートならわかるでしょ?心配かけたくないっていう気持ち。」

「・・・!」

その笑いは本当の笑顔だ。こんなこと言う姉さんの笑顔が作り笑いのわけがない。彼女の優しさは否定したくない。ああ、そうか。結局僕たちは似た者同士なのか。でも、姉さんほど僕は強くない。さっきまで僕は心の中でひどい言葉をかけていたんだから。

時間は真夜中。無機質な病室を頼りない照明と静寂が包む。

「ねえ、ルート。」

僕の方を見ないで、譫言みたいだ。どんな言葉を紡ぐのだろう。思い出話とか、小説の感想とか。そうそう、ここに来る前に食べたシチュー少し胡椒が強かったんだよね。作ってもらったものに文句は言いたくないけど、笑い話のネタとしてならいいかもしれない。あ、でも向こうから話そうとしているのだからこの話は後にしよう。


「・・・私、疲れちゃった。」


なにも返す言葉が浮かばなかった。

これが姉さんの本音。

やっぱり。やっぱり・・・無理してたんじゃないか。

「もう笑顔になる元気が湧いてこないの。笑顔になろうとすると疲れるの。」

いつも見せてきた笑顔の裏に、なにを思っていたんだろう。考えたくない。姉さんが心のうちをやっと見せてくれたというのに、この現実を否定したくて仕方がない。

「・・・私、パパみたいになってもいい?」

バレていたのか。姉さんは父さんの見舞いにはしばらく行っていない。それをいいことに僕は姉さんに嘘をついていた。「調子はいい」などと。似たような嘘ばかりだったせいでおかしいと思われていたんだ。

「ルート、あんなパパを見るのは辛かったでしょう?もう嫌でしょう?お見舞いはいいから必要なものだけ看護婦さんに渡してくれたら後はいいの。放って置いてって言いたいけど、多分あなたは聞いてくれないから・・・。」

やめて。聞きたくない。

たとえ姉さんのお願いだとしても。無理をしてまで笑ってとはいわないけど。


神様、なぜ僕らがここまでされなくてはいけないのでしょうか。違う。神様なんていない。慈愛に満ちた神様がここまで哀れな僕らを見放すわけがない。だから神様なんていない。


・・・こんなの嘘だ。


こんなのが現実であってたまるものか!


「管理者ッ!!!」

神様とは程遠い得体の知れない道化に救いを求めて声を張り叫んだ。僕の呼び声なんかで出てくるはずなんてないのに。すると、上の方から声がした。僕を苦しめていたあの声が。

「気を遣って呼ばないでいてあげたのだが、君の方からとはねぇ。」

その瞬間、僕を中心に空間が膨張して広がった。奥には、僕に一つの救いを差し伸べた何者か。神なんてデタラメな存在より余程信じられる。

「・・・ありがとう。父さんの件についてはすまない・・・。」

「別に構わない。」

短く、淡々たした返事だけが背中越しに返ってきた。呼んだのは謝罪の言葉だけが目的ではないし、おそらく彼は知っている。

「お前に任せれば姉さんは助かるのか?」

しばらく沈黙が続く。

「ああ。十分間に合う。」

その答えを待っていた。ならばこれからすることはたった一つ。


「・・・頼む。僕の物語に、姉さんと、できれば僕も共に連れて行ってくれ。」

イカれてる。幻想の中で何をやっているんだか、正気の沙汰ではない。正気じゃない。僕は必死だった。気づいたら頭を地につけていた。大切な人のためになりふりかまっていられなかった。

「お願いします!もう・・・大切な人を悲しませたくない!!」

空想に逃げるなんて普通の人間がやる事ではない。否、普通とか、理想とか、道徳とか、どうでもいい。そんなもので姉さんは救えなかった!


僕らが幸せになれる世界を、僕が作って、そいつを現実にしてやる!!


「・・・わかった。」

振り向いた彼に表情はなかった。すぐに嬉々として机にかけてあった大きな羽ペンの形をした杖らしきものを手にとり、高らかと振り上げた。

「詳しい話は後々しよう!まずは君たちの存在を上書きする!!」



こうして、僕と神もどきの世界構築というおままごとが始まるのであった。

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