瓜二つの時計屋さん
―――――・・・
――・・・アリスちゃん・・・
―・・・アリス・・・―・・・
「お姉・・・様・・・。」
開きたくもない瞼に外光が射し込んでくる。アリスはいまだにしつこく残る自分の名前を呼ぶ声をなんとかしたくて、またはその声がひどく懐かしく思えて、微かに手に触れる布を掴んだ。そしてそっと瞳をあけた。
「悪かったね、僕で。」
はっきりと耳に入った声は現実味を帯びていた。視界には、こじんまりとした照明がぶら下がった木の板が並べて作られたような天井。掴んでいたのは黒く長い布で、声の主は・・・。
「・・・帽子屋さん!?」
シフォンだった。アリスは驚きのあまり勢いよく体を起こした。
「いかにも。」
そんな一言だけ返した。更にアリスが驚いたのは、いつの間にか自分がベッドの上に寝かされていたことだ。一方シフォンはそのベッドの、彼女の側に腰を下ろしてこっちの様子を伺っていた。
「なっ・・・なんで?ていうか・・・あの、ここはどこ?」
辺りを見渡してみると、そこまで広くもない部屋の一室のようにも見える場所だった。使い古しの机がこの中でおそらくベッド以上に存在感を放っていた。文具や沢山の本、裁縫道具がぶちまけてあったりと数々の小物が散らかっていた。クローゼットから服がはみだしていたり、部屋自体が散乱としている。
「僕の家で、僕の部屋だ。」
「帽子屋さんの家って随分・・・えぇ!!?」
まさかだった。アリスの反応にはさほど違和感を覚えなかったがシフォンはどこか膨れっ面だ。
「なんで私が・・・あなたのお家に・・・。」
「僕の家が随分・・・なんだって?」
軽くて睨んでくるからきっと自覚はしているのだ。
「なんでもないわ。」
アリスはなんとか作り笑いを浮かべる。随分汚いのね!とは言えるはずがない。
「それにしても誰がどうやってここまで?」
ハートの城からは相当の距離があるはずだ。まあ木の中に入ったら海だったり、色々な隠し通路もあるようなヘンテコな国だから近道もあったに違いない。自分は一体どれぐらいの間気を失っていたんだろう。窓の外をふと見たら、空が夕焼けの色に赤く染まっていた。
「僕が、背負って、ここまで。」
少し予想していた。意外は意外だった。
「・・・あの、ありがとう。大変だったでしょう?」
「健康的な体重だと思うよ。むしろ軽いのでは?」
いともたやすく彼女が聞きたいことを見抜かれてしまった。
「ちょっと、紳士がレディーに対してそれは失礼じゃないかしら!?」
シフォンはそんなアリスを微笑ましく見ながら。
「僕は紳士ではない。帽子屋だから」
と返す。開き直った。とうとう開き直った。道中何があったか知らないがついに開き直ってしまった。いやいや、紳士ではないからという問題ではないのだが。
「元気そうで何よりだよ。」
そう言って軽く頭を撫でる彼の表情は安堵の色を浮かべていた。会ってそれほど経ってもないのに手から伝わる温もりと、優しさ。せっかく今のやり取りで薄れていたあの記憶がフラッシュバックしそうで、アリスの顔はややこわばっていた。
「・・・話が変わるが、アリス。君におかしなことが起こっているんだ。」
そっと手を離し帽子を深く被った。声のトーンが重くなったので大体彼が鍔の奥でどんな顔をしているか見当がつく。
「君がこの国にいる間は「向こうの世界の時間は止まっている」はずなんだ。しかし、時間が動いている。更にアリスはなぜ「死んでいる」?」
シフォンはむしろ自問自答していた。アリスが不安に駆られる。今の自分は何だろう。
「やっぱり死んでいるのね・・・?じゃあ、今の私は・・・幽霊?」
「違う!」
突然肩を掴まれ小さな悲鳴が出る。なんだかこんな事が前にもあった気がした。慌てて手をのける。
「アリス、君は確かにここにいる。向こうの君が死んでいることになっているのがおかしいんだ。僕の考えるには、現実世界での君は死んだことになり、魂は新しいアリスを形成した。」
アリスには何が何だかさっぱり理解不能だった。そう、あまりに「現実」「離れ」しすぎて。
「なんにせよ、こんなの誰かが故意にやったとしか思えない。目的はアリスがここにずっといてもいいように。」
アリスの表情が曇る。
「一体、誰が?」
もしかしたらこの国で、自分と会ったことのある人の中にいるかもしれない。信じたくなかった。何が目的でアリスの魂を物語に閉じ込めたというのだ。
「残念ながらわからない。だが安心したまえ。君を元に戻すことも、元の世界に返すこともできる。」
ベッドから腰を上げる。微妙に傾いたリボンを直し、机に立て掛けてあった杖を手に取った。
「帽子屋さん?何を?」
身ごしらえをしたシフォンが自信に満ちた笑みで
「今からとある人物に会って、時間を君が落ちる寸前まで戻してもらうのさ。」
とだけ言ってアリスに手を差し述べた。にわかに彼の言っている意味が理解できなかった。
「どういうこと?あれ?」
ベッドから足を伸ばし、下に丁寧に揃えてあった革靴に爪先を入れる。踵まではいれば軋む音を上げる木の板で出来た床。立ち上がりシーツのシワを伸ばす時に謎の違和感を覚えた。
「服が汚れていない?」
様々な血が混ざって染み付いていた生々しい紅い模様はなく、エプロンドレスは驚きの白さだ。シフォンはといえば、なぜか壁にかけてあった時計の針を強引にいじっていた。
「よし。これでいいかな」
その時計が無理矢理指した時間は・・・。
6:00
「さあ、アリス。心の準備はできたかい?」
アリスもただただ返事をするしかない。
「え?ええ・・・。」
今は彼に全てを委ねようと思った。
「じゃあ行こう。君と時間を取り戻しに。」
シフォンがアリスを背に、なんのへんてつもないただの壁を睨み、そして杖を真下からまっすぐ高らかに振り上げた。
「―・・・はぐれものの道化―・・・または世界の創造者よ―・・・憐れな駒を貴方の―元へ―通したまえ・・・ええい!いい加減僕に恥をかかせるな!早く通せ!」
呪文を唱えるかっこいい姿が台無し。顔を真っ赤にして言い切ると同時にその杖も斜め下へ力強く降り下ろした。その刹那だった。目の前の壁に突如、ブラックホールにも似た漆黒の巨大な穴が現れたのだ。しかし似ても似つかないのは、そこから台風でしか体験しないような突風がこちらに向かってとめどなく吹いてきたのと、いつからかどこかで鳴り始めた歯車が忙しなく廻る音。これはただの穴ではない。
「きゃあ!!」
吹き飛ばされそうになったアリスは咄嗟に目をぎゅっと強く閉じて両手で前をかばう。なんとか足を踏ん張って立っていたがシフォンは微動だにせずただ穴を睨んでいた。
「・・・止まっ・・・。」
しばらくして風の勢いは緩和していった。部屋が更に散乱してせっかく整えたシーツが吹き飛ばされて向こうの壁に張り付いていた。
ぴたりと風が止んだところでおそるおそる目を開ける。
「!!?」
壁には、穴ではなく。そこにあったのは。
何とも言い難い光景というか。
「この封印を解けるのは僕だからね。」
全く今まで有りもしなかった、アリスからしたら随分悪趣味で大きな扉が高さギリギリまであった。見たまんまで言うなら、窓は上に二つあり扉の色は濃い紫色。所々に星や歯車をモチーフにした装飾が引き算無用に施されてある。
「・・・。」
アリスはまるで魔法でも見せつけられているようだった。ますますシフォンという存在がわからなくなる。紳士でも帽子屋でもない。魔術師ではなかろうか。だが、アリスには余計なことを考える余地はないのだった。
「アリス。今から会いに行く人物は「ひとでなし」だ。もしかしたら君を不愉快にさせてしまうかもしれない。」
「うん!」
少女は覚悟を決めた。決心した。だって今から自分の大切なものを返してもらわなければいけないのだもの。それと大丈夫。彼がいれば・・・そんな気がした。真剣な顔でうなづく。二人は、自然に無意識にお互いの手と手を繋ぎ合いながらゆっくりと扉を開けた。
扉を開けた先は、一見するとそこは図書館かと思うぐらい四方に身の丈より倍にも及ぶ高さの本棚。ところ狭し隙間なしに詰められた様々な本。だが場所自体が広いので窮屈ではない。壁にはいたるところに、それもまた様々な種類の時計が沢山かけてあった。柱時計に目覚まし時計、鳩時計が突然窓から甲高い鳴き声とともに勢いよく飛び出してアリスは驚く。どれもそれぞれ違う時間を指してめいめいに動いていた。
噛み合わない歯車の音と不揃いな時計の針の音が不協和音を奏でる。ふと床をみれば、記憶はさなかではないが黄道十二宮を絵にしたものが描かれており・・・進むにつれて破れた紙、ちぎった紙、更には、螺子やら筆。部屋は明るいのだがどこか異質な雰囲気がアリスを根拠のない不安に駆り立てる。繋いだ手に自然に力がこもった。その異質な雰囲気の中に誰かがいた。向こうには巨大なコンタクトレンズのようなガラスが金色の飾り枠に嵌められてたたずんでいる。複雑な色に濁っていた。近くに書斎とかでよく見る机、地球儀や分厚い本。少なくともシフォンの家の机よりは片付いていたが、やかましい机の上。その前。こちらに背中を向けてただただ硝子を眺めている。アリスとそっくりなブロンドのゆるいウェーブがかったロングヘアー。明るい紫色のシルクハットと同じ色のケープは床に少し垂れていた。シフォンがアリスから手を離し一歩彼女の前へ出た。
「珍しくすぐに入れてくれたね。ジョーカー。」
シフォンはニヒルな笑みを浮かべる。ジョーカーと呼ばれた人物は少年のような声で
「挨拶ぐらいしたらどうだね。シフォン・ベルガモット。」
言いながら振り向いた。
「・・・ッ!」
彼がこちらに姿を見せた瞬間、アリスは反射的に口を塞いだ。目を見開く。小さな瞳孔にとらえた姿はまさに衝撃そのものだった。
「おやおや?」
帽子は装飾で鳩時計にあるみたいな扉がついていたり歯車をモチーフにした模様がプリントしてある。それどころではない。なんと、服装以外はアリスと全く瓜二つだったからだ!
「これはこれはアリス・プレザンス・リデルではないか。会うのを今か今かと楽しみにしていた!」
「ひゃあ!?」
ジョーカーはシフォンの隣を通りすぎて足早に距離を詰めればアリスに迷いなく抱き締めた。
「どうだいアリス、淘汰の国は!自分の顔が自分の意思や感情とはまったく別の表情をしている様は!」
「え、あ、ちょっ!?」
一度にそう早口に喋られても今のアリスの頭はパニックで耳が彼の話を「限界です!」と通せんぼしようとしているところだった。あっさりスルーされたシフォンはわざとらしく咳払いをする。
「みているこっちは狂気の沙汰だよ。」
「狂喜・・・ねぇ。」
名残惜しそうに熱い抱擁を解く。アリスの心臓は動揺で速い鼓動を刻んでいた。
「さてさて。せっかく我等がアリスが来てくれたから談話でもしたかったのだが、事は一刻を急いでいる。出来るだけ早く時の歪みを修復しないと。」
長々とジョーカーが話す間に落ち着きを取り戻したアリスは彼の大袈裟で演技かかった仕草をきょとんと見ていた。そういえばジャックとジョーカー・・・名前も似ているがどこか雰囲気も似ているような?
「・・・っ、とその前に!」
ぐんっと満面の笑顔を近づける。アリスはびっくりして一歩後ずさりをした。
「私の名前はお馴染み、ジョーカー。顔は酷似だが性別は紳士。職は時計屋でまたは創造者(マッドストーリーテラー)。人呼んで、だけどね。」
くるりと背を向ける。
「もう会うことはないだろうが得体も知らないままでは気味が悪いだろう。」
今でも十分「きみ」が悪いが。
・・・とは口にはしなかった。
「私はここで普段、アリスが隔離された瞬間から「とある事象」に至るまでの時の流れが並行に進まないようにしている。」
言い回しがかすかにややこしいものの、要はアリスがこの国にいる間の彼女らのいた世界の時間を止めるのが彼の仕事だということとアリスは解釈した。
「少し言葉選びを誤ったな。すなわち、結末。あるアリスが死んでしまえばもといた世界は最初の地点に戻り「アリスがいなかった」世界として進みだす。」
アリスはやはり納得がいかなかった。
「そんなのって・・・。」
散々と饒舌を振るったジョーカーは身を翻してそっと人差し指で彼女のとっさに閉じた唇をおさえた。
「そうでもしなかったらいろんな所で大パニックだ。」
言われてみればそうだ。各地で同じ年頃の少女が立て続けに行方をくらましては世界規模に混乱と不安をもよおすにちがいない。だけど・・・。
「でも君は生きている。ならばちゃんとかえしてあげなければ。」
時折、穏やかな薄ら笑みを浮かべる。そういうところがずるいのだ。アリスはちょっとだけ不機嫌。しかして希望は見えた。
「さて、そうとなれば早速かえそう!!」
「えっ?」
驚くアリスにジョーカーも驚いた。シフォンも驚く。だって全く同じ顔だもの。
「えっ、て何?忘れ物でもしたのかい?」
「そうじゃなくて・・・いきなり!?」
一人呆れ顔を浮かべたのはジョーカーだ。
「君、言ってなかったのかね。」
「流れで察しているものかと思っていた。」
最後の最後でこの有様である。アリスはまたもパニックだ。この国に残らなければいけない未練はない。強いて言えばピーターはどうなったのか。次の女王については正直どうでもいい、好き勝手やってくれと言いたいところだ。せめて、最後にお別れの挨拶ぐらいさせて欲しかった!だってだって、あんなのが最後に見たアリスだなんて・・・それが一番の心残りだ。
「そんな・・・。」
「帰れるのに嬉しくないのかね?」
アリスは首を横に振った。
「みんなにお別れの挨拶をしたいの。」
時計屋だからきっとなんとかしてくれると信じたアリス、だが彼はそれ以前に「ひとでなし」であったので。
「それは出来ないな。」
一寸の気の迷いもなく彼女の願いをいともあっけなく拒否した。
「私は終わりを遂げた物語をひとつの世界へと独立させるためにやらねばならない事が沢山ある。それに、だ。あまり時間が経つと、君を無事に返せる確率が減るんだ。」
彼の瞳はいつしか笑っていなかった。アリスも徐々に考え出す。彼がたまに紡ぐ真剣な言葉はとても重みがあった。咎められているわけでもないのに。
「アリス。」
隣に立つのはシフォン。
「最後のお別れがああなったのは残念かもしれない。挨拶をしたいのもわかる。・・・が、思い出は消えない。それでいいのではないかな?」
微笑む。その笑顔はどこか懐かしくもある。まるで父親のよう。見た目は全然違うのに、同じ笑い方をするからだろうか。本当にそれだけなのだろうか。こんなのを見ると余計に帰りたくなる、できるなら今すぐにでも。ああ、でも・・・もう少しだけ時間が欲しかった。最後に会いたい人はもっといたのに。しかし、わがままはいけない。時間は待ってくれないのだから。
出会った人、行った場所、楽しい思い出も悲しい思い出もそっとしまった。これは一生忘れることのないアリスの宝物。
「・・・うん。わかったわ。」
目の前に進むしかない道があり、後戻りできないなら、仕方がない。
「準備はできたんだね!?」
ジョーカーは相変わらずである。大人しくなったり喧しくなったりと忙しい。空気なんて読まない。
「さてアリス。帰るためにはあることをして頂かなくてはいけない。」
「あること?」
濁ったレンズに手をかざす。
「この国に来る「きっかけ」と遭遇する前を思い出してほしい」この走馬灯ならぬ走馬鏡が同じよう記憶を遡ってくれる。」
繕うた笑顔で振り返る。
「きっかけ?」
遭遇するという言い方がひっかかった。
「アリスはどうやってここへ来たんだい?」
「え?」
シフォンは彼女に問う。かなり簡単な質問がアリスには難解に感じる。だが、冷静に記憶を巻き戻してみれば案外すぐに見つかった。
「庭を・・・しろいうさぎ・・・そうよ!白兎!」
しかしそれではまだダメとすぐに気付いた。
「その前は確か、お姉さまの本を読んでたわ。名前は・・・。」
「結構。」
また何か言いたそうにしているアリスはジョーカーに半ばで終わらされてしまう。
「そこまで思い出せたなら十分だ。今から世界と世界を繋ぐ扉を開ける。」
彼の言葉が合図みたいに、その走馬鏡の奥の方から歯車が歪に動き出す音が鳴り始めた。
そして彼の言う走馬鏡というものに、ぼんやりと浮かんできたのは三つの長さの違う針と円になって十二までの数字が記されたもの、つまり鏡がまるで一つの大きな時計になったのだ。
「こんなに沢山時計があるのに・・・。」
大きさからしてひとしきり存在感はあるから目がいくものの周りは違い互いの針の音と歯車の音が混ざって耳が不規則なリズムに冒されている。
「私もこれを通して世界へ飛ばすのは初めてなもんでね。この時計の針が六時を指すまでに飛び込むんだ。」
針が進み始めた。アリスの知る一秒の速さではない。
「六時を過ぎれば意味がない。世界を探りだすまでの時間は刹那。せめて、そこにいる者には何か言ってやってくれ。」
ジョーカーは更に。
「一番君を心から心配していたのは彼だ。」
と誰の耳にも届きのしない声で呟いた。勿論、アリスにもシフォンにもそれは小さな雑踏に相殺されて聞こえることはなかった。
「えっと・・・。」
急かされてるのも同じ、あまりの迫られた時間内で思い付く気のきいた別れの言葉などアリスの言葉の引き出しにもない。
「あ、あの。この国に来れてよかったっていうか・・・楽しかったしみんな、面白い人ばっかりで・・・。」
いざ向き直ってみると更に言葉が飛んでしまい散らかった台詞を集めても鳴り始めた時計の針の音が言の葉の欠片をまともに繋げようとするのを邪魔する。この国に来て初めての友達や自分達のために消えていった命の形も忘れたくない。本当はもっとこの国について話したいことはあった。いくらでも自慢話のように語り尽くしたかった。言えるだけ言いたかった。
減りゆく刻に言葉も削られる。
一方でシフォンはここんな状況においてすまし顔でこちらの様子を他人事みたいに眺めてる。まるで最初に出会った時の彼と同じだ。しかし、そうでもないと感じるのは、見る目がやたら穏やかだったといったところか。もしかしたらアリスが言い終わるまで黙って聞いているのかもしれない。ならばもう長々としたことはやめにしよう。ありったけの気持ちをどうやって最高に、素直に、簡単に伝えるか考えよう。
彼の言葉も聞きたいから・・・。
いまになって涙が湧きそうだ。目の奥を刺激してくる熱を歯を食いしばって耐える。今泣いたら、まともに話せる自信がない。悲しい別れではないのだから笑顔でお別れしたい。泣くのを堪えながらの笑顔だから少し不細工かもしれないけど。
「私、一生忘れない!」
とうとう感情の糸が切れて涙が零れるのを無意識に拭う。でも、アリスにとってはこの一言が今伝えたい気持ち全てだった。後悔はなかった。もうこれでいいんだ。だが、それとは別に伝わったかどうかを考えたらやはりまだ不安が心の隅に残ったままだ。ふと、顔をあげる。
「・・・ふふっ、何を・・・最後のお別れみたいにさ・・・。」
シフォンは、アリスが何か冗談でも言ったのかと思わせるぐらいに手元で笑いを堪える口許を隠していた。
「帽子屋さん?」
さすがにこれにはアリスもどうしたものかと彼を疑った。おかしなことを言った覚えは全くない。泣くとまではいかないとしても彼の反応の意図が理解に苦しませる。そして微笑んで、呆気にとられるアリスをそっと自分の胸に引き寄せた。最初こそ驚いた。でも抵抗も何もしないのはおそらくこれが何度目かなのと、頭を撫でる手と背中に触れる腕に優しさを感じたから。
「大丈夫、僕達はまた逢えるよ。」
聞いたことのない優しい声。ずっと聞いていたくなるような、その声でそんなことをずっと聞いたら今度は戻りたくなくなりそうだ。
「ほんとに?また、あえるの?」
涙は箍を外れて彼の服を濡らしている。押さえられた顔では彼の顔も見えないが、なんとなく見える気がした。きっと、変わらず笑っている。
「もし、また白い兎を見かけることがあったら迷わず追いかけておいで。僕達も、絶対に忘れない。いつだって歓迎するさ。」
こんな場面でこそ体裁ぶって、言い繕うて、紳士のふりで気取って。だとしてもそれはシフォンにとっても所詮はかき集めたにしか過ぎない精一杯の短い別れの言葉だとしたら、誰が彼を「気取り屋」だと笑うのだろうか。
アリスは笑っていた。嬉し笑いだ。
そこの人でなしも笑っていた。いつも通りだ。
「ラブロマンスはうんざりだねぇ!」
そう声を張ったジョーカーの側の大きな大きな時計は普通よりやや速く回っていまや三時。また過ぎてゆく!
「もうお別れの言葉は交わしたろ?時間がない、早く。」
シフォンが彼女から離れる。まだ何か言いたそうなアリス。時間は4時。
「私、帰るわね。」
アリスはまだ彼を向いたまま巨大な時計の方へと数歩距離を取る。寂しそうな笑顔、でも満足げでもあった。
「皆さん、お元気で。他の方にも伝えておいてくださるかしら?」
アリスの言葉に。
「わかった。」
と、シフォンは返し
「元気でね。」
と、ジョーカーは答えた。。時間は5時を切る。
「みんな、ありがとう。」
アリスがそう口に漏らした瞬間、ジョーカーが咄嗟に針を見ては焦燥する。
「何をもたもたしている!急げ!」
―あーあ、最後はみんなの笑顔で見送られたかったんだけどなあ。―
―ま、いっか。―
そんな呑気なことを考えてしまうアリスは思わずクスッと笑ってしまう。でも構わない。それでもこれは「最高のお別れ」となったのは確かだから。物語は無事ハッピーエンド。エピローグは無限に未来となって続くのだ。
六時が迫る!アリスは今までで自分の中での一番の、そのまんまの笑顔で別れの直前に言った。
「また会いましょう。それまで、さよなら。」
見送る彼らの笑顔をしっかりと目に、記憶に鮮明に焼き付けたらアリスは背中を向けて思いきって飛び込み、その体は吸い込まれるようにして次元の境目に落ちていった。
・
・
・
・
○
◎
●
「・・・行ってしまったねぇ。」
色がマーブルに混ざりあうただの液晶を見つめながらジョーカーは、感慨深く、同時に平穏な静けさに戻ったのとで安堵に大きく一息吐いた。シフォンは彼女がいなくなった度、すまし顔で腕を組みたたずんでいる。機嫌が悪いわけではない。それとは違うところに違和感を覚えたジョーカーが感情の読み取れない笑顔で固めた笑みで彼の方を振り向く。
「これでやっと、「不思議の国のアリスは見つかりました、めでたしめでたし。」というエンディングを迎えたわけだ、シフォン。いや、「物語の作者」しかしながら、なぜだ。」
手先で毛の乾いた筆を器用に回しながら彼に問いかける。
「何故、アリスから「この国にいた時の記憶」を全て消し去る必要があるのかね?」
ジョーカーの態度からはさほど深刻なことではないかのように窺わせる。シフォンは、幸せそうな笑みを溢す。
「彼女らの世界において異世界は「存在しないもの」。だからあるだけ邪魔だし、彼女にとってもだ。」
ジョーカーは「ふぅん」と流し返事して。
「この世界にも同じようなことを言う奴がいるな。君が言うなら私は何も言わないけが。でもお前はそれでいいのかい?この国のことを忘れる、即ち君のことも忘れてしまうんだよ?」
肘は力を抜いてびしっと人差し指と親指だけで筆先を彼に向ける。笑顔はない。
「いいのさ。アリスの幸せに繋がるなら。愛する人の幸せが僕の幸せでもあるんだよ。」
「・・・君の愛は、残酷だな」
呆れて肩を竦めるジョーカーの発した皮肉を無視してシフォンはそのまま背中を向けて前へ歩む。
「もう帰るのかい?」
ジョーカーの退屈そうな声に呼び止められた気がして一旦足を止める。
「お前はまだやることがあるんだろう?僕も急遽エピローグを追加したくなってね。時間を悪戯に歪ませた犯人をこらしめる、ていうエピローグさ。」
そう去り際に言い残し、意味ありげに冷笑してこの空間の出口を開けた。
「アリスちゃん!!」
しばらく途切れていた意識はロリーナの自分の名前を必死に呼ぶ声で朧気ながら徐々に覚めていった。
「・・・お、お姉さま?」
いつのまにか眠っていたのかもしれない。確か、ロリーナの手持ちの中から一冊手に取った本を読んでいるうちに次第に文字の羅列が眠気に誘ったのだろう。にしては随分永い眠りについていたような気がするが。それにしたら空はまだ真昼のようだ。きっとうたた寝程度だったんだ。なんてことをぼーっと考えていた。その時だ。
「アリスちゃん・・・おかえりなさい!やっぱり、帰ってくるって信じてた!」
突然何を思ったかロリーナが強くアリスを抱き締めた。
「お姉さま!?何をおっしゃってるの?」
意識もはっきりとしたアリスは戸惑いの表情のまま身動きはとれず頭のなかは混乱した。なりふり構わずとはいかず、アリスの動揺に気づいたロリーナがぱっと体を離す。
「あ、あらごめんなさい。なんでもないわ。」
ロリーナは涙を端にためていて頬もやや紅潮している、嬉しそうな微笑だった。それがアリスにはさっぱりわけがわからずより一層混乱した。
「どうしたの?」
「本当になんでもないの。」
アリスの問いかけにロリーナは何事もなかったかのように笑い流す。
「おーい!アリス、ロリーナ!!」
玄関の扉を開けて父が大きな声でこちらに向けて名前を呼んでいる。
「いまから買い物に行くがどうするんだー!?」
ロリーナは積まれた本を両手に抱えて立ち上がり急いで駆け寄った。
「今いくわ!アリスちゃんも早く!一緒に行きましょう!」
「う・・・うんっ!」
アリスもとりあえず、腰をあげて姉の背中を追いかけて走った。
「・・・?」
アリスがふと立ち止まり後ろを振り向く。
「アリスちゃん?」
自分を追いかける足音が消えたのに違和感を感じ同じようにアリスの方を振り向いた。
「気のせいかしら?今、何か白いものが・・・。」
不思議そうに呟くアリス。しかし、その先には一面の青々と広がる芝生しかない。ロリーナは小さく笑った。
「きっと野良猫よ。ほら、急ぎましょう」
「ええ、お姉さま!」
一人の少女は少しも気に止めることなく、小走りで家族のもとへ帰っていったのだった。
―fin
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